境界線上で怪異が騒ぐ ― 闇に手を伸ばす祓い屋ープロローグ第5話ー
Case.1「廃校」―幽影が刻む記憶―
プロローグ
prologue 廃校―異界への序曲―Ⅴ
「...…放課後の殺人鬼」
誰かがぽつりと、口にして確かめてしまう。
ああ、いけない。
認識してはならない。
それはより、その名を得ることによって、認識されることで、さらなる“畏れ”を糧として、その存在が濃くなる。
『放課後の殺人鬼』。
その言葉が紡がれた瞬間、教室の空気が凍りついた。悠真も、灯華も、倉敷を含む境界の者達も......間違いなくどこかで、僅かに、小さくだが、そう、間違いなくオソれを抱いた。
影の霧がどこか楽しげにうごめく。
未だ人の形に集まろうとする、ただの黒い「影」――その顔部分の影が微笑むように形を変えた......ように見えた。
その場の全員が息を呑む中、影から耳鳴りのような低い声が聞こえた。何かを繰り返すかのように......だが、その声は不明瞭で、どこか不気味だった。
真っ先に動いたのは悠真だった。新たに符を上着のポケットから取り出し、息を深く吸い――
「壬の水清らかに、子の九つ時に満ちて、穢れを洗い流し、心を澄ません。流れゆく水の如く、迷いなく道を運び、静寂の光となりて、闇を照らさん。急急如律令!」
先ほど影を追いこんだ水の渦を生み出した呪文よりも長い詠唱を使い、同じく符を影に飛ばす。
すると、先ほどよりも静かに、しかし、大きな水の塊が符より生まれ、それは無数の鼠の姿へと転じ、人型の姿になった影に群がる、いや、濁流のようにぶつかっていく――
――が、弾ける水の鼠達は周りに漂う少しの影を祓っただけで、本体であろう人型には全くダメージは通っていないように見えた......
「言った傍から!これだから野良はッ......!だが、良い足止めだ!」
そういいながら、倉敷は自身の赤い褐衣の膨らんだ裾から符――悠真が持つ符とは異なる紋様が描かれた――を右手の人差し指と中指で一枚ずつ挟み掲げる。
「呆けている場合かッ!紫雲鎮護の祈りだ!合わせよ!」
「「「「はっ!」」」」
パンッ――と、倉敷が両の掌を合わせる。それを合図に五名からなる呪文が紡がれる。
「「「「「界を隔てし時より来たる八百万の神々、我が呼び声に応じて給え。この場に災いを静め、水気を集いて紫の雲より降りし鎮護の光、照らせ給え。急急如律令!」」」」」
教室の中に風が吹き荒れ、悠真が放った水の術の残りが彼らの前に集まると、紫の雲が生まれ、紫の雲が光ると轟雷の音と共に黄の光が影を襲う――
――が、しかし、巨人の影はいまだ健在であった。その影は着々と「形」を完成させていく。
「ならばッ!お前達......結界を張れ!封じるだけではなく、その霧を縛り、動きを抑えるのだ!」
倉敷の声で、部下たちが一斉に符を空中に放つと、霧の中から鎖のような光の紋様が現れ、それが影の動きを封じ込めていく。
同時に、倉敷は腰に差していた太刀を抜き、その動作の無駄はなく、彼が刀術にも長けていることは素人目でもわかるものであり、抜刀されたあまりにも美しい刃は暗闇の中でも光を宿し、影に向かって残像だけを残し振り下ろされた――
「破ァッ!!!」
――が、倉敷の刃が影に届こうとする瞬間、影はその形を霧状に崩し、攻撃をかわしていく。斬り裂いた先にはただの闇が残り、影の反撃が迫っていた。
「っく......!」
すぐさま倉敷は後退する。
攻撃されてなお、削られてなお、その存在の質量を高め続ける影――。
「ぬぅ...これほどとは......」
袍を着た一団は、自分たちの術に全くの効果がないことに対して余りの驚きに思わず足が後退する。
「......境界にとっても想定外、というところでしょうか?」
悠真は冷汗を浮かべた表情で、倉敷に喋りかける。
彼の言葉に、倉敷は再び額に青筋を浮かび上がらせるが、放たれた言葉は怒声ではなく、重く慎重な声だった。
「いや......まだ想定外ではない。だが、想像以上ではある。.....仕方ない、ここでは大技は出せぬうえ、校舎を破壊する。全員外に出るぞ!やつを校舎から引きずり出して、全員で叩く――お前達も遅れるな!」
倉敷はそれだけ告げると、部下の4名を引き連れて早足に教室を出ていく。
悠真は灯華に頷くと、二人も一足遅れて彼らと一緒に校舎から一旦の脱出を試みる。
そんな中で、灯華だけが走りながらこちらをゆっくりと追いかけてくる影を見つめて眉を顰めていた。
――“何か”がおかしい。
灯華は胸の内に広がる違和感を拭えなかった。何かが違う――しかし、その正体を言葉にすることができない。ただ、悠真たちと同じく校舎から脱出するために足を動かした。
そうして協力と緊張が交錯する中、廃校での怪異との戦いが幕を開ける。
――だが、この【廃校】が抱える深淵は、未だ誰にも明かされていない。それは、ただ幽霊たちの悲しき未練に留まらない。
“放課後の殺人鬼”――その存在は、他の幽霊たちとは異なる理由でこの場所に縛られている。その理由が何を意味するのか、悠真たちが真実に辿り着くまで、誰一人として知る由もない。
穏やかな日々から一線を越え、この暗闇へと自ら足を踏み入れた瞬間。すべては、この廃校の扉が再び開かれた時から始まったのだ。