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発声指導、その責任の在処

母音だけを磨き続ける指導がある、という話を聞いたことはありますか?
それは都市伝説なのでしょうか、それとも真実でしょうか?

ある有名歌手が、師匠に弟子入りして師匠の自宅に住み込み、一年に一つずつ母音を習得するという指導を受けた、という話を聞いたことがあります。この話、信じられますか?

私個人としては、一定の信憑性があると感じています。なぜなら、現代でもこの手の指導法を貫く指導者が未だに多く存在しているからです。

「その手の指導法」とは、「習うより慣れろ」という一種の根性論に基づくもので、特にクラシック音楽業界においては頻繁に見受けられます。問題は、この考え方が「調べればわかる」「考えれば辿り着ける」事柄にも適用され、学習者の自主的な探求の機会や能力を奪い、さらにはクラシック声楽における発声技術の進歩そのものを阻害していることです。

このような指導法は、今の時代において見直されるべきです。なぜなら、私たちの人生はあまりにも短く、学ぶべきことは膨大にあるからです。いかに早く、効率的に技術を習得させるか、指導者はこの点を真剣に考える必要があるでしょう。

「習うより慣れろ」の指導は、自主性を損ねていないと思う方もいるかもしれません。しかし、これは(旧来の意味での)「師匠」という存在がいることで成立しません。もしも見様見真似で習得するだけならばそれでも良いかもしれませんが、根性論に基づく師弟関係では、弟子の自由な探究が妨げられます。師匠の望む「習う」が常に存在し、その枠組みから外れることが許されないのです。

教える側に立つのであれば、自分が受けた指導を「それでよかったのだろうか」と常に疑う姿勢を持つべきです。自身を育ててくれた全てに感謝することと、その方法に対して懐疑的であることは矛盾しません。我々から学ぶ人は、我々よりももっと早く、より多くを吸収するかもしれないのです。そして今度は、かつて我々の師が我々に対して負っていた責任を、我々が負う番なのです。


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