オペラらしさ、クラシックらしさ
「オペラらしさ」「クラシックらしさ」について考えたことはありますか?
私は「あなたの声はミュージカルっぽい」と言われ、非常に心を苛まれた経験があります。 その「ミュージカルっぽい」という声に、言った本人は確かな定義を持っていたのでしょうか?逆に、オペラらしく、クラシックらしくあるための条件を、明確に説明できたのでしょうか?もし説明できないのなら、「らしさ」を言語化せずに語ることは果たして正しいのでしょうか?
結論として、「らしい」声は確かに存在します。しかし、それを言葉にできないなら、軽々しく言及すべきではないと私は考えます。私はこの「らしさ」を明確に説明できるので断言します。
クラシックの勉強とは、最終的にその「音色」を獲得するためのものであると言えるでしょう。 多くの場合、発声指導において「音色」と「構音/調音」を分けて考えることは非常に稀です。私の知る限りでは、これらを明確に分離して指導できる人はほとんどいません。そして、この分離ができないまま指導することで、クラシック声楽の技術は選ばれた一部の人間だけが習得できるものになってしまっています。
たとえば、筋肉の使い方を例に挙げると、ボディビルダーがポーズを取って見せる美しい筋肉と、実際に荷物を運ぶための筋肉は異なるものです。ポーズを取ったまま荷物を運ぶことはできませんし、荷物を運んでいる最中に全ての筋肉を美しく見せることもできません。
同様に、音色を作るための筋肉と音程を作るための筋肉を混同してしまうと、両者の作用が衝突し、互いの働きを妨げてしまいます。上手くいくのはまさに奇跡的であり、それこそ「才能」や「天才」が必要とされる状況なのです。
「どちらを優先するか」という議論において、私は「構音/調音」を優先します。まずは音程に届くことが最も重要であり、その後に音色について考えるべきです。なぜなら、音程を作るための筋肉は、音色を代行して作り出すことができるからです。
少し難しいかもしれませんが、筋力には限られたリソースがあると考えてください。音程を作るための筋肉が音色にリソースを割いてしまった場合、音程作りに必要なリソースが減ってしまいます。これが「高い声が出ない」原因です。まだ高音を出すための身体の使い方が固まらないまま音色を整えてしまうと、本来音程作りに使われるべきリソースが音色に回されてしまい、結果として「音色は整っているけれども高音が出ない」声が完成してしまうのです。