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人生競馬~馬が駆ける
わたしの師匠、沢村豊子が長年相三味線をつとめていたのが、国友忠先生。先生はちょっと、いやだいぶい変わった経歴をお持ちです。
戦争中は、中国人になりすましスパイとして現地で活動したり、戦争を中国で体験したことから、残留婦人のために私財をなげうち最後のひとりまで帰国を支援したり。わたしが入門した2000年は、残留婦人を全員帰国させ、その活動のための「春陽会」が解散したあとでした。
浪曲師としてのキャリアの間に戦争がはさまっており、戦後は自ら脚本を担当した連続ラジオ小説「銭形平次」が5年間続くなど大活躍されますが、多忙で倒れてしまいます。その静養の地に選んだのが茨城県、現在の古河市でした。
そこでなんと、競走馬を育てるのです。敷地内で。
いろいろぶっとんでます。
ご自宅の裏が牧場になっていたそうで、「ここに馬がいたんだよ」と見せてくださいました。その頃は、相三味線の豊子も馬の世話をしていたと言います。国友先生宅のあたりを「牧場」と呼んだり、遠くない昔に馬を育てていた名残を感じたものです。
しかし、相三味線は馬の世話までしないといけないのか・・・(驚)!
もともと浪曲は、家族経営が多い。夫が浪曲師だと妻が曲師というパターンが多いけれども、妻が浪曲師だと夫が興行師(浪曲の興行を生業とする人)だったり、一家で一座を組んで巡業にでたり。
師匠の家は、ご主人のお母さまが売れた広沢虎造先生の三味線を弾いていた方で、ご主人も興行師のようなことをされていたようです。師匠曰く「虎造先生の腰ぎんちゃくだったんだ」。
コシギンチャク・・・・。
実生活で腰巾着という言葉を初めて聞いたのが、まさにこのときでした。
浪曲がしみついている家だったからこそ、家族同然である国友先生と一緒に古河に引っ越してきたのでしょう。師匠の家庭がちょうど子育ての時期で、子どもは田舎で育てた方がよかろうという考えもあったそうです。
とはいえそのときは、馬の世話までするとは思っていなかったでしょうねえ。
馬というのはかわいいそうで、苦労話の中にも馬への愛情が垣間見えました。
余談ですが、大学の先輩が、社会人になって車のかわりだと競走馬を持っていました。とりたてて速い馬でなくても地方競馬で走る賞金で餌代などがなんとなく賄えて、車くらいの感覚で持てると。
ほんとかな。
でも人が馬に魅かれるのは、わかる気がします。
浪曲には、動物が登場する話がたくさんあります。
とりわけ多いのは、馬。
国友先生の浪曲にも、馬はよく出てきました。
必然、馬を表現する三味線の手も数多くあります。
浪曲の三味線には、皆さまご存じの通り譜面がありません。
その上、曲師はレコードにクレジットもない時代があったくらいですから、その技に関しても資料は驚くほど少ない。浪曲のような台本もなければ、曲師の聞き書きも少ないのです。
浪曲の音源をきいても、その三味線の理屈がなかなかわからない。
それでも、わたしたち演者は、楽屋ばなしや芸談をきき、袖から生の舞台を見聞きし、「これはどういうことか」を演者に尋ねることができます。
聞きかじる話、ひとつひとつの手がそのときわからなくても、何年もして「そういうことか!」とわかったりする。
そんな風にばらばらになっているものを集めて咀嚼して編集して、幾ばくかのさくら色を足す。これがわたしなりの「掘り起こし」「継承」になると思っています。
さて、馬を表現する三味線の手の数々です。
3つの糸をおさえ、触り(一の糸からの共鳴音)を切って、パカラ、パカラ、パカラ、とひづめの音をさせる。
これはわたしもいつもやってるやつで、技術的にも簡単なものです。
岡本貞子師匠に昔習った、「馬のでてくるときのセメ」というのもあったなあ。
セメの弾き始めで、高い音のツボから、同じフレーズを弾きながら低いところにおりてくる。
数少ない三味線の見せ場で繰り出すには、勇気のいる手です。
寛永三馬術・梅花の誉れで、馬が階段をあがるところ。
浪曲師の動き、セリフに合わせて一歩一歩。
よく使うようであんまり使わない音の運びで、「なるほど!」と小膝をちょうと打った覚えがあります。
玉川の方がよくやられる外題なので、玉川みね子師匠がお手本。
去年のまだ暑いさかり、楽屋で師匠に馬が駆ける手をお聞きしました。
少し前、浪曲師が馬が駆けるセメをかけたときに師匠が弾いた、ひづめの音でもなく、貞子師匠のでもなく、細かい細かい手。
馬上の人は腰を宙に浮かせ手綱を前後に流れるように操り、馬が風を切って疾走する様が見えました。
馬は本当に美しいんだなあ、と。
「ああ、あれはね」
と教えてくださった手は、単純なようで弾くのがすごく難しかった。
そして、しばらく経って気がついた!
梅花の誉れの手を早く弾くんだ!!!!
一歩一歩あがるのと、駆けていくのと・・・・
全く違って聞こえるのに、要は同じ手。
そうか!こう弾きわけるのか。世紀の大発見をしたかのような気になりました。
そして、木村八重子師。
初代木村重松師の妹さんで、言わずと知れた関東節の名曲師です。
現役時代が長く、曲師の生き字引みたいになっていたと思います。師匠は、「八重子おばちゃん」と呼んでいました。
八重子師匠の馬は、駆けること駆けること駆けること駆けること・・・
泉下に入られ、もう八重子師匠にお聞きすることはできずなかなか手がとれない。どう弾いてるんだかもわからない。
ずいぶん格闘して、そっくりではないけれどもわたしなりにかみ砕いて手を取りました。
それで、「人生競馬」です。
1月19日「沢村さくら25周年記念曲師の会vol.29」にて、真山隼人、沢村さくらで初演。真山隼人さんは、いまわたしが三味線をつとめる相棒です。
この外題を得意としていたのが、日の本さくら師。桂須磨子師匠のお師匠さんです。隼人くん、桂須磨子師匠とは、持前の行動力と浪曲人の懐に入る能力で、無理やりご縁をつなげていました。その話については隼人くんのブログやエッセイ浪曲が詳しいでぜひそちらで。
隼人くんが須磨子師匠からこの人生競馬をいただいた時期を同じくして、わたしも馬が駆ける手をとろうとしていました。
後半の競馬のシーンが聞かせどころ。
双方の思惑が珍しく一致しました。
果たして、馬は疾走しましたでしょうか。
まだまだよくなると思います。
末永くお付き合いください!!