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記憶でケアされる?

夏なので、海に行った。

波打ち際の砂浜に座って、指で砂をギュって押すと下から海水が滲み出てくる。これが面白くて、ぎゅってやって、海水見て、また砂をかぶせてっていうのを繰り返してたら、波が私のところまで来て若干乾いてた砂をびしょびしょにしていった。そうなったら海水が染み出すも何もという感じだったので、場所を移動しようと思ったけど”いま、ここ”の砂浜以外で同じことをやっても全くの別物のように感じられたから砂遊びはもうおしまいにした。

私だけじゃないと思うけど、たまにそういうことがあるんだ。
いま、ここじゃないとやりたくない。みたいな。
飽き性とも言えるけれど、もし”いま、ここ”がずっと続くのであれば、いつまでも同じ遊びができるんだよね。でもそんなことは多分あり得ないから、飽き性ってことになる。
最近思ったのは、そのあり得なさをもたらしているのは私自身の怠慢で、あと一歩踏み込んで工夫ができれば遊びは続くのかもしれない。ただ、時間が経つとまたやりたくなるってこともあるから、結局飽きたとしても自分の中には永遠に存在し続けるんだろうね。必ずしも持続する努力をする必要はないのかもしれない。

私は恋愛がまだできてない人なんだけど、自分の中で過去に気になってた(彼氏彼女ではない)人たちはずっと残ってて、たまーに思い出したりする。
「ごめんね」の声が優しかったなとか、メガネ似合ってたなとか、蜘蛛の生態に詳しかったなとか、一人でいる時に思い出しては癒されてる。
自分は気持ち悪い奴だなと思うけれど、案外そういう記憶は欲しいタイミングで来てくれるから恋愛って自分にとって良い経験なのかもしれないと感じてるし、いつかしてみたいと思う。

自分のケアが他人の記憶によって為されているのは、結構幸せなのかもしれない、な。


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