抑圧からの解放のはずが、結果として迷子になる話 (5歳児の放浪記)最終話
ボクは5才 という映画
1970年リリースの「ボクは5才」という映画があります。
確か、たろうが小学校の2年生の頃、夏休みのむしむしする学校の体育館で見た記憶があります。
その内容があまりに自分の5才の時の放浪とシンクロしたのか、ものすごく強烈な印象を受けました。
映画では出稼ぎのお父さんに会いに行く話です。
一方、たろうは、会いに行くべきお母さんは、どこにいるのか、さっぱりわからなかったので、現実とは大きく隔たりがありました。
しかも、敢え無くお巡りさんに保護されるという顛末で、ハッピーエンドではありませんでした。乗り物にも乗らず、食事や飲み物さえも無いたろうの旅とはずいぶんと違いがあって、子供ごころながら、映画の中の男の子はすごいなと思ったものです。
朦朧とした入院当初の状況
いま、たろうは還暦を迎え、幼い頃の出来事を普段はあまり想いだすことはないのですけれども、病気で死にかけたせいで、色々と蘇ってしまったのには、たろう自身としては、気持ちの整理がつきにくい出来事でした。
さらに、妄想からの妄言という展開になったわけですが、どうしてそんなことになったのか、最初は理解が追いつきませんでした。
それもそのはずで、入院当初はガン以外にも様々な臓器に重度の炎症反応があって、1か月間毎日平均39度6~9分くらいの体温で大変でした。日に数回解熱剤の点滴を受けて食事は全く出来ない状態でしたから、意識は割と朦朧としていました。
たろうは基本的には働き者のおじさんです。
次第に回復しながら、入院期間のおびただしい時間を持て余してくるようになりました。思考回路が次第にクリアになるに連れ、やがて、自分と向き合う時間が増えてきました。
何カ月か病院で過ごすうちに、次第に、その顛末について、自分なりに見えてきてことは、つまるところ、こういうことでした。
死ぬ覚悟が出来ていない・・・・
まあ、要はそういうことだと思いました。
たろうは、割とやりたいことをして、生きてきた人間です。
ですから、
「朝に道聞かば夕べに死すとも可なり」
と思って生きてきたつもりでした。
実は、病院に入ってから、ものすごく苦しかったので、はじめのころは死ぬイメージでいたのです。あのまま呆気なく死んでしまっても不思議ではなかったのですが、生死の境を彷徨った時、潜在意識が何等かの拍子に吹き出してしまったのでしょうね。
その際に、親の離婚再婚のことを恨むような気持ちが出てしまったのかも知れません。
しかし、人は長生きするにつれ、人生に起こる様々な出来事をきちんと消化出来るようになるものです。特に成人すると、何をしても自己責任として考えることが出来るようになります。
しかし、幼い頃の事は、さすがに未消化だったのでしょう。
しかし、人間はいずれ死ぬわけですから、そこの部分も含めて、しっかりと対峙しておく必要はあると思います。
普段から、たろう自身 長生き願望はありませんでしたが、あまりに病気が唐突であり、急性であったため、予測も出来ずに慌てたのでしょう。
こころの乱れが、そういう反応になったのだと思います。
体力に恵まれ、健康で働いていた自分自身のイメージが瓦解して、うろたえたのだと思います。
そして、何より、母との様々な経緯を、忘れようとしただけで、本当に赦すという気持ちには、なり切れていなかったのだと思います。
その 今一つ未熟な部分を、もう一段、成熟させることが、たろうの今後の人生における課題であることは、明らかです。
還暦とは、そういう時期である と 今 しみじみ思います。
平均年齢は割と先にあるように思いますが、その長短は運命によって決まっているのですから、いつ死んでも良いという状態で毎日を生きるということを、これからは意識したいと思います。
変な話ではありますが、noteにこんな文章を書くことで、自分の思考を整理することが出来たような気がして、とても良かったと思っています。
駄文ではありますが、多くの方に読んでい頂けて、幸いでした。
このあたりで、このシリーズのお話を一旦終えたいと思います。
有難うございました。