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映画『祝日』にみる日本人の〈天使〉観

大学のレポート用に書いたもののラフスケッチです。全文を掲載することはできませんが、途中まででもお楽しみいただければ幸いです。興味が湧きましたらぜひ映画『祝日』をご鑑賞ください。


 映画『祝日』に見る日本人の<天使>観



テーマ:「天使と人間の距離」

 天使は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などに登場する神の使者である。それゆえ日本の文化的精神性において天使とよべるものは存在しないように思われる。しかし本レポートで取り上げる作品では、日本人の感性に馴染むような天使像が描かれている。芸術作品での一つである映画を鑑賞することで、天使と人間(日本人)の距離に対する理解が深まるのではないか、と考えたのがテーマ選定の動機である。



第0章 天使のあらわれ


はじめに『祝日』の物語の概略を確認しよう。『祝日』の公式ホームページには以下のようにある。


「弱いパパでごめんね」一言だけのメモを残し、優しかった父は死んだ。そして母は壊れて消えた。家族も友達も、いない。14歳の奈良希穂は、中学に入ってからずっと孤独な一人暮らしをしていた。ある日、学校の屋上で自称「天使」と出会い「人生最期の1日」を共に過ごすことに。何気ない1日の中で次々と現れるへんてこな人々の心の機微に触れ、希穂の世界は静かに揺り動かされていく。最期と決めた1日の終わりに彼女を待っていたものとは―。

(参考資料④)


 少しだけ補足する。希穂が学校の屋上から飛び降りようとしたその瞬間、突然出現した「天使」が希穂の腕をつかみ引き戻した。希穂は自らを「天使」と名乗る女性(=「馬場さん」と希穂は名付ける)を不審に思いつつも、彼女と二人で町を歩く。その道中での人々との出会いを経て、希穂はこの世界にとどまることを決めた、という場面で映画は終わる。

 この映画では、日本の実写映画では珍しく天使が主役級の役割を果たしている。そのうえ、天使がある種のパラレルワールドを主人公である人間に体験させる物語ではないこともこの映画を稀有ならしめている。あくまで「天使」は、希穂とともに現実を生きるのだ。そこでは天使のSF性・仮構性は薄れており、「天使」が実在するか否かは問題となっていない。つまり「天使」はただそこに在る・在ったものとして描かれている。

 では、この映画から天使の概念を抽出することは無意味なのだろうか。

 無意味ではない、と考える根拠は主に二つある。一つ目は、映画『祝日』の伊林監督が、この映画ははじめに決めた「天使界のルール」を忠実に守って製作した作品である、と述べたこと。二つ目は、この映画が上記のように特異的な作品であるにも関わらず、日本人の観客がそれを見ても違和感をもちにくい、ということである。すなわち、『祝日』における「天使」像の造形は明確に意図されたものであり、それが日本的な霊性・神性と齟齬をきたしていないと考えられる。ゆえに、この映画を「天使」という切り口から解剖し「天使と人間の距離」を分析することで、日本人の宗教観の一側面を理解できるはずである。



第1章 天使主義と人間


 死の間際に、希穂は「天使」と出会った。「天使」は、自分はいつも希穂の傍にいて希穂を見ていた、そして今日一日だけ希穂にも見える人間の姿をまとうことになったのだ、と語る。このような「天使」の造形とキリスト教における天使の造形との間には、類似点・相違点のいずれも存在する。本章からは、それらを剔出するために、希穂、希穂の母(以下、母)、中華屋の店主(以下、店主)それぞれが抱く天使像を比較する。


 第0章で述べたとおり、希穂は父親を亡くしたわけだが、それを機に母は新興宗教にはまっていく。家の中には、その宗教のオブジェと思しき聖母マリア像とも天使像ともつかぬ彫像が置いてある。映画の初めの方のショットで、母は希穂のいる前で、天使が私たちを見守っているよ、と虚ろに呟く。希穂は黙ったままだ。ほどなくして母は希穂を置いて家を出ていく。複数の宗教関係者にいわば抱え込まれるようにして車にのるシーンは、彼女が宗教団体に呑まれる様子を象徴しているようである。

 すなわち、その後一人になった希穂が「天使」と出会う以前に母は自身にとっての「天使」に出会ったわけだ。しかし、両者それぞれの出会った「天使」は全く異なる存在である。いったいどのように異なるのか。


 ここで、天使という概念が世界史上いかにして扱われてきたのか、その記号論的な解釈を概観したい(以下の解釈および天使主義については参考文献②を参照している)。

 天使はギリシア語で「アンゲロー」とよばれ、これはメッセンジャーを意味する。誤解を恐れずに言えば、天使は人間よりも神に近い存在として人間に神の「意志」を伝達する、と考えられてきたわけである。中世以前には、人間が、その肉体(身体性)ゆえにその心が包み隠されてしまう存在と措定されたのに対して、天使は肉体をもたず言語ももたない無垢で透明な媒体として措定された。

 だが中世に入ると、トマス・アクィナスが聖書の読解に基づき、人間が言葉を用いるのは肉体という障壁だけではなく意志という障壁も原因となっている、と主張した。彼は続けて、天使はただ1人の天使に語りかける(これは天使が言語をもつことを必ずしも意味しない)ことができるため天使も意志をもち言葉をもつ、と主張した。要するに、天使は伝えないという行為も選べるのだから人間と同じく言葉をもち、また状況と聞き手の選択を行うといった意志がその障壁になりうるのだ(これは中世における天使言語論の起点となった)、ということである。

 トマス・アクィナス以降、天使の言葉の不透明性が明らかにされていった。もはや天使は純真無垢とはみなされなくなったのだ。天使は悪魔へと堕落しうる。なぜなら天使は言葉を使用するのであり、それゆえ人間と同様に常に奈落の縁にいるからである。

 以上の経路により、天使に対する認識は透明な存在から不透明な存在へと転回した。ただし、天使に対する信仰(≒理想像としての羨望)は転回するどころかむしろ二極化されていった。本レポートでは、二極化の果てをそれぞれ「誤った天使主義」と「正しい天使主義」とよぶことにする(なお「誤った天使主義」という呼称は参考資料②に倣っている)。


 そして「誤った天使主義」に陥ったのが希穂の母であり、「正しい天使主義」に救われたのが希穂であった、というのが筆者の考察である。


 「誤った天使主義」とは何か。それは、他者に映る自己の像への憎悪ゆえに自身の姿とは反転した像を「そこ」に見出すことである。もちろん、「そこ」は天使でなくても構わない。その「そこ」の集合を代表する元として天使を掲げているだけである。

 当然のことながら、言葉を用いることは、その言葉・発語がどれほど自己の内面と対応しているかという絶対的真理の尺度によってではなく、どれほど自己の置かれた状況に適合しているかという相対的真理の尺度によって測られる。それゆえ、透明な天使が用いる透明な言葉を夢想することは、世界から切り離された自分を夢想することに等しい。人間が社会の中で生きなければならないことを考慮すると、これは非常に危険な発想である。「天使の模倣をしようとすると獣になる」とブレーズ・パスカルは喝破したが、「誤った天使主義」において滅せられるべきは肉体をもった人間であることをふまえると、獣にさえもなれないのではないか。


 このような「誤った天使主義」にとりつかれたのが、希穂の母だった。「誤った天使主義」は自己を無菌空間に置くことを志向する。だからこそ母は「菌」である娘・希穂から離れていったのだ。いわば透明な天使として、直接的なコミュニケーションをとることを夢見て。

 付言すれば、希穂の母そして希穂の父の両者は、現代の日本社会の一状況を体現しているように思える。カルト宗教を通して「誤った天使主義」の陥穽にはまる母とその娘の姿からは、統一教会や宗教二世の問題を想起せざるをえない(実際、『祝日』公式ホームページ内の「初動」にて統一教会について言及されている)。 もちろん「誤った天使主義」は宗教のみにみられるものではなく、政治機関、自治体、営利企業、メディア、家庭といったあらゆる共同体にみられる、ということは指摘しておく。


 一方で、希穂が獲得したのは「正しい天使主義」であった。それはいくつものシーンあるいはショットによって裏付けられる。



第2章 不透明な「天使」


 希穂が出会った「天使」はどのような天使だったのか。「天使」の性質を以下の5つの場面から探っていこう。


(1) 鼻血

「天使」が人間として姿を現したとき、「天使」の鼻からは血が出ていた。これは「天使」が人間という生物として血が通ったことを示している。それゆえ、映画のラストで希穂が屋上で倒れて仰向けになって鼻血を出す描写は、希穂に血が通った、つまり生命としてこちら側の世界へと戻ってきたことを示している、と考えられる。「天使」は希穂を「生き返らせた」のだ。


(2) 翼の不在

「天使」には翼が無い。なぜなら「天使」はずっと希穂のそばにいたからだ。天界から飛来するというキリスト教における天使とは異なっている。この翼の不在は、日本での八百万の神々への信仰といった土着的あるいは物着的な霊性と調和している。


(3) ビニール袋

 映画の前半では、希穂の足元をビニール袋が風に吹かれて転がっていくが希穂は目にとめないショットがあるのに対して、映画のラストでは、屋上で仰向けになった希穂の顔にビニール袋が当たるショットがある。ビニール袋は、最初に出現する以前の/最後に姿を消した「天使」の存在を暗示していると考えられる。この神性の偏在性も、日本人の宗教観と合致している。


(4) あいまいな返事 

〜以下は省略〜



参考資料

① 映画『祝日』監督:伊林侑香(2023年/日本/90分)

② 『新版 天使の記号学 小さな中世哲学入門』山内志朗 株式会社岩波書店 2019年第1版発行

③ 『天使とは何か キューピッド、キリスト、悪魔』岡田温司 中央公論新社 2016年発行

④ (https://shukujitsu-movie.com)

⑤ 映画『ベルリン・天使の詩』監督:ヴィム・ヴェンダース(1987年/フランス・西ドイツ/127分)

⑥(https://www.crank-in.net/special/145833/1)


〜以下は省略〜



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