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[ライフストーリーVol.20]不安でも焦らず、自分を信じて前進すれば困難を乗り越えられる

6歳から16歳までパキスタンで暮らし再び日本へ


日本で生まれ6歳まで過ごした後に、両親の母国であるパキスタンに戻り、16歳の時に再び日本で暮らすことになったアハマドさん。幼少期以来忘れていた日本語の習得に苦労しながらも高校を卒業。大学ではビジネスを学び、現在は不動産業界で外国人をサポートする仕事に従事しています。思春期に経験した突然の環境変化をどのように乗り越えていったのか、お話を聞きました。

―ご両親はパキスタン出身で、6歳まで日本にいらしたとのことですが、当時の記憶はありますか。

日本の幼稚園に通っていた頃のことは、いろいろと覚えています。幼稚園のお友達も日本人だけでしたし、特に自分が周りと違うという感覚もなかったです。当時のビデオを見ると、親がウルドゥー語で話しかけても私は日本語しか喋っていませんいし、日本での生活に慣れていました。パキスタンに戻るときも日本語しか話さない感じでした。

―パキスタンに戻ったのはご両親の仕事の都合ですか。

一度パキスタンの文化に触れたほうが良いという理由で、父を日本に残して母と戻りました。最初はそこまで長く滞在するつもりはなかったのですが、結局そのままパキスタンの小学校に入学して16歳になるまで過ごすことになりました。

―日本に慣れていたので言葉には苦労したのではないですか。

そうですね。母からも「パキスタンでは誰も日本語を喋れないから頑張るんだよ」と言われて、着いてからは一言も日本語を喋らなくなりました。日常生活はウルドゥー語だけで、学校ではウルドゥー語と英語の日々になりました。その後10年間日本語を喋らなかったため、次に16歳で来日するまで簡単な単語ぐらいしか覚えていなかったです。今の私の語学スキルは、一番話せるのがウルドゥー語で次が英語、日本語の順です。

―日本語は改めて学び直したのですね。16歳でまた日本に来た理由は何ですか。

パキスタンに来て以来ずっと家族が離れ離れだったので、やはり父と一緒に住んだ方が良いということになりました。ちなみに弟はちょうど小学校に入るタイミングだったので、日本からパキスタンに行った私と真逆のパターンになりました。

私は外国にルーツを持つ子どもたちを支援する「たぶんか(Tabunka)フリースクール」で日本語を5カ月ほど学びなおして、簡単な日本語が喋れるようになってから都立高校に入学しました。周りが普通のスピードで喋っている日本語が最初は理解できず、苦しかったですね。「何も理解できないのに何のために学校に行っているんだろう」と、高校1年生の最初の2~3カ月は学校から帰宅すると毎日泣いていました。

日本の美しい風景を写真にとるのが趣味

充実した大学時代、オランダへの留学も経験

―言葉の理解も含めて、勉強について行けるようになったのはいつ頃でしょうか。
放課後は私と同じ外国ルーツの子たちと一緒に日本語を学んだり、勉強の仕方を教わったりしているうちに徐々に慣れ、高校2年生の頃には問題なくついて行けるようになったと思います。無事に高校を卒業して日本の大学に進学し、両親もずっと日本にいたので、その後10年間で1度もパキスタンに戻ることはありませんでした

―進学や就職に関して不安はなかったですか。

なかったですね。たぶんかに通っている時も頑張れば高校に行けると思っていましたし、大学ではできれば英語で経済やビジネスを学びたいと思っていたので、授業の8割が英語で学べるコースがある麗澤大学を選びました。英語で授業を受けたいと思ったのは、日本語より時間が掛かからず効率的に学べるというのも理由でした。

―日本の大学生活は楽しかったですか。

勉強面でも交友関係でも、大学時代が一番楽しんだ時期だと思います。その頃は日本の生活にも慣れていたし、外国籍の友人たちも増えて、インターナショナルな環境に身を置けたのも良かったです。

オランダに半年間留学することもできました。オランダの大学を選んだのは国際的なビジネスを学べる魅力的なコースがあったことの他、チューリップが好きだったのも理由です(笑)。残念ながら留学した時期が夏だったので、チューリップは咲いていませんでしたが。

―日本の大学とオランダの大学で何か違いはありましたか。

オランダの学生が、何についても積極的に発言するところに驚きました。最初は静かに授業を聞いていたのですが、黙っているより挙手して発言する方が評価されるため、2カ月くらい経つと私も積極的に発言するようになりました。パキスタンから日本に来た時にはあまり積極的に自分の意見を言わないことに驚いたのですが、いつの間にか私も日本人の振舞いが染みついていたようです。

留学時代の思い出の写真

不動産業界で外国人をサポートする仕事に就く

―これまで、外国籍であるがゆえの苦労はありましたか?

両親は日本語を完璧に話せますし、たとえば病院に行くときも一緒についてきてもらえば良かったので、生活面での苦労は少なかったです。ただ、日本に来た時は高校生だったので、いろいろと自分でやれることは自分で頑張ろうと思いました。一人で病院に行って、お医者さんに上手く伝えられなかったことなどもありましたが、そんな時は「どうやって話せば理解してもらえるんだろう」と一生懸命考えましたね。

―ご自身のアイデンティティについて悩んだことはありますか。

高校生の頃はありました。パキスタン人の自分がいきなり日本の文化の中に入って、焦りのような気持ちを抱いていた部分はあります。

カルチャーの違いにも苦労しました。私はイスラム教徒なのでハラール認証取得済みのものしか食べないのですが、コンビニで買い物をするときも確認のために毎回パッケージの裏側を見なければなりませんでした。東京オリンピックを契機に日本でもかなりハラール認証が浸透してきましたが、以前は面倒でしたね。

―学生時代から将来についての具体的なイメージは持っていましたか。

人の役に立つ仕事に就きたいと思っていましたが、具体的にどんな仕事かというところまではなかったです。

―今は不動産業界でリロケーション(海外から来日する外国人向けのサポート)の業務に就いていらっしゃるそうですね。

人の役に立つという部分で、自分が日本に来てからの経験を生かして、私と同じく外国人が日本に来て苦労しないように手助けしたいと思ったんです。仕事の内容は、不動産物件を探したり、役所の手続きを手伝ったり、生活面でのサポートをしたりとさまざまで、対象は学生もいれば社会人もいます。

就職活動では他にもサービス業を中心に探しましたが、自然と外国籍の方が多い業界に目が向いて行った感じです。

―仕事面で外国人であるがゆえの苦労はありますか。

学生時代に使っていた日本語と、社会人になってから使う日本語では大きく違うところですね。電話で話す言葉も違いますし、日本語のメールを書くときは送る前に何度も読み返しています。英語のメールを10件打つ時間で、日本語では1件しか打てない感じです。

―仕事でやりがいを感じるのはどんな時ですか。

たとえば、お客様の希望通りの物件が見つかった時などに「ありがとう、こういう家を探していた」と言われると、役に立てたことに嬉しさを覚えますね。日本に来たお客様の希望を全て叶えるのが難しいケースもありますが、できるだけリクエスト通りにすることに気持ちを注いでいます。入社して2年経ち、責任感も強くなった気がします。

将来は外国人をサポートする団体を運営したい

―何事にもポジティブな印象ですが、考え方や行動に影響を受けた人はいますか。

母がポジティブな性格で、「たとえ間違えても悩んで時間を無駄にするより、どうやって成功に繋げるかを考えたほうが良い」と言われて育ってきました。アドバイスを受けた瞬間は素直に受け取れなくても、結局は母の言うとおりになることが多かったです。

―日本の良いところと悪いところを上げるとすれば何ですか。

日本社会はすごく便利で清潔で、パキスタンに比べると自由度が高いと思います。一方で、。もちろん言葉の問題もありましたが、日本人が自分の気持ちをハッキリ言わない部分などに対して少し複雑な気持ち感じていました。でも、今はそれにも慣れています。

―将来の夢はありますか。

外国人を助ける団体などをつくって、自分で運営出来たらと考えています。以前スイスの投資銀行のUBSグループさんが主催するボランティア活動で、さまざまなルーツを持つ子どもたちをサポートしたことがあるのですが、私もそんな活動が出来たら良いなと。今は仕事が忙しくてできていませんが、いずれは取り組みたいですね。

―ご自身の経験を通じて、外国にルーツを持つ若者に進学や就職に関してアドバイスをお願いします。

私の場合、来日してたぶんかで日本語を学び直す前は「自分にはできないかもしれない」という不安を抱いていましたが、自分を信じて通ううちにだんだんと自信がついてきました。高校に入った時も心配でしたが、入ってからはとにかく頑張ることで自信を持てるようになりました。「できないと思うよりはできると思う」「この世にはインポッシブルなことはない」「たとえ駄目なことがあっても次のドアがある」と思った方が良いです。

私もこれまでさまざまな場面で不安はありましたが、自信を持つことで乗り越えられました。一気にジャンプできなかったとしても焦らず、ステップバイステップで前に進んでほしいと思います。

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