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「振れ幅」・「場」・「当たり前」・「断捨離」

前の投稿で「差分」の話をちょっとしましたが、
「差」が発生するのは、「振れ幅」があるからです。

『変わり映えのしない日常』という
表現を耳にすることがあるかもしれません。

これは、ある程度変わりはしてるが、
現代的な意味でも決して「映えない」、
つまり当たり前のことで特段の驚きや
喜びがないことを表しています。

つまり、変化はあるものの、
その幅が一定だということです。

この話を書いていて思い出したのですが、
明石(兵庫県)に住んでいたころ、神戸の北野町
(異人館のあるあたり)在住の友人がいました。

神戸の都心はスーパーが極端に少ないのが
特徴的なのですが、それゆえに友人にとっては、
大丸百貨店の地下やいかりスーパー
(関東だと成城石井のようなもの)で食品を買うのが
日常茶飯事。

あるとき「この前ダイエー行ったらな、
めっちゃ安いねんな。びっくりしたわ、同じ金額で
こんなに買えるんかって。」「自分で袋に詰めるのも
久々で新鮮やった。」このように、さも新発見を
したかのように言いました。

いや当たり前やん、って笑ってしまったのですが、
この「当たり前」というのは、どこにいるのかによって
大いに異なるのです。明石でちょいちょい地元民から
野菜を分けてもらえる私と、神戸の都心の百貨店や
高級スーパーで野菜を買っている友人では、
そもそも相場感が違う。

変わり映えしないはずの日常って、「場」(「環境」と
呼んでもいいですが)によってこれほどの差を生むわけです。

なので、何か停滞感を感じているとき、「場」を
変えていくというのが一番変化を感じやすいのでは
ないでしょうか。

まして、物理的に場所を移動すると、その振れ幅が
変わるから、旅行に行きたがる人が多いのだと思います。

同じ理由で、旅先では日常の振れ幅が変わるから
旅行に行きたがらない人もいます。枕が変わると寝れない、
という状態ですね。

これまた明石時代の話ですが、播州という地域で生まれ育って、
ほとんど地元を出ずに人生を送っているという人に
多く出会いました。

街に行くといってもせいぜい新快速で15分先の
神戸まで(しかも、1年に数えられるほど)、
40分先の大阪は人が多すぎてかなわん、みたいな感じです。

気候が穏やかで天災も少なく、地元では家族・友人・知人に
囲まれて仕事して暮らしている、まさに安定一択です。

だから、明石に住んでいてちょいちょい大阪や京都方面に
出向いていた私は、地元の人に相当奇異の目で見られて
いました。そもそも、東北出身で関西に住んでいる
というだけでも、ほんまありえへんということなのです、
彼らにとっては。

移動は嫌い、でも変化は感じたい、そんな要望に
答えているのが、もしかしたらここ数年よく耳にする
「断捨離」なのかもしれません。

不要な物を捨てていくと、「余白」が生じて場の空気が
変わります。そうすると、感じられる振れ幅「差分」に
多少なりとも変化が生じます。その変化が、
さらなる変化へとつながる可能性もあります。

断捨離というのは、本質的には捨てた後の環境の
変化や心の変化が欲しいという現れではないでしょうか。

決して、物を捨てること自体が本来の目的では
ないと思います。それはきっかけにすぎないのです。

物を捨てるには、取捨選択が求められるので、おのずと
自分が何を求めているかが明確になってきます。

そこがはっきりすると、環境が変わってくる、
環境が変わると、見えるものと感じるものが異なってきます。

結果として、場を大きく移動することもあります。

実際に、私自身も物を捨てて引っ越しを重ねたので、
11年前の引っ越し(関東→関西)は宅急便4箱、
3年前の引っ越し(関西圏)は業者を使わず電車移動で
3往復、1年ちょい前の引っ越し(関西→関東)は
宅急便3箱で済みました。引っ越し自体はそれほど
大変ではない、というかどんどん楽になっています。

コロナウィルス関連で失職し、関西が著しく不況で
関東に来たのですが、現在の住まいは引っ越し前に
物件を決めていたので、景色を基準にしていませんでした。

実際に、内見時にも窓の外をろくろく見ませんでしたが、
結果として引っ越し前とは見える景色が文字通り
大きく変わりました。

さあ、次はどんな振れ幅と景色に誘われるのでしょうか。

楽しみです♪

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