【短編小説】音のない幸せ 〜おばあちゃんが教えてくれたこと〜
静けさの中で
おばあちゃんの新聞を捲る音が、部屋の空気を優しく切り裂いていた。
朝早くから夜遅くまで、新聞と向き合うその姿は、子どもの頃から私の生活の一部だった。おばあちゃんは、何かを探しているのか、それともただ習慣として新聞を読んでいるのか、私にはわからなかった。ただ、新聞を捲るその音は、家の中にとっての「静けさ」そのものだった。
窓の外では保育園や学校から子供たちの声が響き、時折、チャイムの音が微かに聞こえる。それらは生活の音として馴染んでいるはずなのに、何故かおばあちゃんの新聞の音だけが特別に感じられた。ページが捲られるたび、まるで時が流れる音を聞いているようだった。
私は時々、静けさについて考える。
静けさとは、本当に穏やかで落ち着いている状態なのだろうか。それとも、人を不安にさせるものなのだろうか。おばあちゃんのいる部屋の静けさは、どちらでもなかった。ポジティブでもネガティブでもない。ただそこに「在る」だけのもの。それはフラットでニュートラルで、何も語らないけれど、全てを許してくれるような感覚だった。
ある日、ふとしたことでおばあちゃんに聞いてみたことがある。
「どうしていつも新聞を読んでいるの?」
おばあちゃんは、新聞のページを捲る手を止めると、少しだけ笑った。
「新聞を読むのが好きだから、というのもあるけれどね……。こうしていると、何も考えなくて済むんだよ。」
「何も考えない?」
「そうさ。いろんなことを考えるのは疲れるだろう?だけど、新聞を読んでいると、何かに集中しているようで、実際にはただ、流れに身を任せているだけなんだ。私にとって、それが静けさなんだよ。」
その言葉を聞いて、私は初めて、おばあちゃんが新聞を読んでいる姿を「静けさの象徴」として感じていた理由がわかった気がした。
休みの日、学校のグラウンドは静まり返っていた。あのにぎやかな子供たちの声も、チャイムの音も聞こえない。誰もいない校庭には、風だけがそっと通り過ぎる。私はその光景をぼんやり眺めながら、おばあちゃんの新聞を捲る音を思い出していた。
その音は、子どもたちの声やチャイムとは違う静けさ。賑やかさがないからこそ感じられる、奥深い穏やかさ。心にそっと寄り添うような音だった。
おばあちゃんが亡くなってから、新聞を捲る音は家から消えてしまった。最初のうちは、その音がないことが不安だった。けれど、時間が経つにつれ、私は気づいた。おばあちゃんの静けさは、音ではなく、私の心の中に残っているのだと。
休みの日の静かな学校のように。風が通り過ぎるだけの、何もない穏やかな空間のように。
その静けさは、きっとずっと私と共にあるのだろう。