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動と静の文学 〜 そして抑えきれなくなった欲望 N172
ワープロが生まれた頃にも思考の詰めが甘くなると批判してあくまで万年筆と原稿用紙に書くことが正統派であると振る舞う作家がいた。今のスマホで“ながら”の状態でケータイ小説を書く作家もいるらしいが、それでも売れた方が作家として値打ちがあるのだろうか。
スマホの登場によって、メッセージないしはメディアは動的になった。それ以前は編集者をはじめとする幾人かの関所の眼を通して表現が洗練されて昇華したものが人前に触れることとなっていた。それは幾人かの眼を通していく過程に時間を要することもあったし、彼らを前に書く人があらかじめ試行錯誤をした結果を紙に書く行為に時間を要した。結果としてそれは静の文学といえよう。
一方、このスマホやソーシャルメディアは動の文学と言える。そこにはプロフェッショナルとしての作家は存在しない。誰もが平等に発言をできる。知名度が有利になることや、フォロワー数が優位になることもあるが、何かの偶然が重なるとバズって成功する。そこには多少の経験と戦略が活かせることもあるが、やはり何かのイベントがいくつか重なることの偶然が成功を生むのだ。となれば数を打つことは大事だし、考えるよりもリアルタイムでツイートする方がうまくいく(誰かよりも先に行った方が勝ちのような文化もあるので)。
そしてコミュニケーション自体も動的になっていく。(むしろ親しき人に対して)簡素化した一行メッセージ、あるいは名詞だけで意思疎通を図ろうとする。「帰宅時に牛乳買ってきて」が「牛乳買って」になり、最後には「牛乳ない」とか「牛乳」になっていく。英語だと「mlk pls」とかだろうか・・・
どうも世の中はLineとかのようなSNSが普及したためにコミュニケーションが動的になったはいいが、簡素化あるいは短略化され、一方的に無差別に発するようになってきているのではないだろうか。そしてそれは欲望自体が抑え切ることなく、欲するがままにタッチしているだけではないか。相手を重んじる心や置かれた状態を想定する力がなくなり、ただただ欲望のままに動く動物へと落ちていく過程に人類は直面していないだろうか。巣篭もりをしている今こそ静的な文学を改めて評価をし直す時期が来ているのかもしれない。