見出し画像

第一回 器が広くなった子ども

by 小山 和智

「子どもは国籍や生まれた場所が育てるのではなく、育った場所が育てる」と、よくいわれます。では、その“育った場所”が途中で変わったらどうなるの? というのが、「第三文化の子どもたち(TCKs)」の長年のテーマです(注1)。
人間には環境に適応する能力が備わっているとはいえ、国境を何度も越え、その度に新しい環境に適応する過程において、心の内面には何が起こっているのでしょうか?
私は、はからずもTCKsの子を持ってしまい、困惑の年月を続けた経験があります。しかも、そうした子どもたちの教育に関わることで給料をもらってきた大人でもあります。
その生々しい経験が、いまTCKsを抱えて悩んでおられる保護者や関係者に少しでもお役に立てればという気持ちでこのシリーズをスタートします。

注1) いわゆる「帰国子女」は、幼い時代に一定期間、親の母国である日本の外で暮らした経験があり、出かけた時と帰国した時の二度、国境を越えています。「第三文化の子どもたち(Third Culture Kids:TCKs)」は、それを“母国”や“帰国”の概念を越えて相対化し、多文化を等しく共生の土俵で考えるものです。


家の中にいつもインドネシア人がいる

1985年から私はジャカルタ日本人学校に赴任したのですが、その時は長女が2歳直前、長男は生後8か月でした。使用人を雇うことは借家を契約するために必須の条件だったので、わが家には秘書(兼運転手)・料理人・掃除人の3人が住み込みで働いていました。
しかし彼らは子どもをすごく大事にしてくれるものの、どうみても甘やかしすぎます。いつも抱っこして話しかける、しょっちゅう何かを食べさせている・・・・・・子どもが「~したい」と言うと何でもさせるし、「~がほしい」と言えば与えてしまうのです。

小山家の家族と使用人たち(1986)

隣に住むアルジェリア人(フランス語話者)の家には我が家と同年齢の子どもたちがいて、家族ぐるみのつき合いをしていました。彼らから「使用人が子どもを甘やかすのは悪いことじゃないけど、考える力を育てるために、子どもが何か言ったら『なぜ?』と聞いてもらうようにするといいよ」と助言され、我が家の使用人にもそれを徹底しました。
「~したい/してほしい」というときはかならずことばで理由を説明させると、どんどんことばの力がついていきます。うちの子には、誰彼構わず「ねえ、何してるの?」「どうしたいの?」と聞く癖がついて、冷汗をかくことも多かったのですが、周りの大人は子ども扱いせずに話し相手になってくれました(かわいいので!)。自己主張の強さや納得するまで諦めない頑固さが身についた反面、相手の事情も考える優しさも育っている手応えがあってうれしかったです。

家族は極力一緒に行動するように

公私ともに夫婦そろって外出する機会が多く、家に残された子どもたちは使用人たちが子守をしてくれます。しかし、子どもが四六時中インドネシア語やフランス語などを浴びていることに、不安がないわけではありません。
だから、帰宅すると子どもたちとできるだけいっしょにいるようにし、日本語の訓練の努力もしていました。「なぜそうしたいの?」「なぜそれがほしいの?」などとかならず聞き、話し合います。日本の童謡をいっしょに歌ったり絵本を読み聞かせたり、ことわざや「犬棒かるた」も耳になじませるようにしました。

部屋がいくつあっても子ども部屋などつくらず、寝るときはいっしょ。週末や休暇中も家族でいっしょに行動するので、ゴルフはしない(仕事の一環として、日本人学校関係者の懇親ゴルフの企画・運営はしますが)。
日本人会の公式行事にも、できるだけ家族全員で会場に行き、子どもが日本人同士のコミュニケーションを取れるように努めました。そのかいもあって、うちの子は日本人会のマスコットのように扱われ、人なつっこい性格になっていました。

また我が家では、ことあるごとに「ギュー」(ハグ)をします。秘書やメイドがとても子どもを慈しんでくれますので、それを上回るように私たち夫婦がいっしょにいる間は子どもの心も体もつかんでおきたかったのです。「おはよう」「行ってらっしゃい」「お帰り」「ありがとう」「お休み」などなど、ことあるごとにハグすることを習慣にしていました。
周りは日本とまったく異なる環境で、日本語以外の言葉が飛び交っています。だから家族がまず肌で感触を確かめ合うことは、不安な気持ちやイライラ、もやもやした感じなどを解消するためにも必要なことでした。(注2)

注2)「ギュー」の習慣は、帰国後のたいへんな時期にもとても助かりました。実家に帰ったときには、祖父母に飛びつくようにハグする子どもたち・・・・・・ジー・バーは「無上の幸せ」という表情です(これも親孝行の一つ)。

帰国後のカルチャーショック

衝撃的だったのは、私が任期を終えて帰国したとき、3歳8か月の長男(T雄)が、それまでに習得していた日本の童話や童謡などを見る間に失ったことでした。
本人いわく「みんなが日本語だけを話すんだよ」「頭の中には、アルファベットしか浮かばない」・・・・・・ジャカルタでは意識的に日本の文化や習慣に触れさせるように努力もし、T雄も楽しんで身につけていたのですけど、それらはインドネシア語の基礎の上に載せられていたようです。
帰国してインドネシア語の補充がなくなりその基礎が揺るぎ始めると、その上に載っていた知識構造までが崩落していって、まるで“知恵遅れ”の状態でした。

T雄は何がどうなっているのかと混乱しますし、周りの子たちは「何も知らない/できない子」としてT雄を見ますから、遊んでも面白くありません。いたずらの対象にもなりやすかったようです。
ある日の朝、元気にしていたT雄が突然「幼稚園に行きたくない」と言いました。私は年休を取って、T雄と向き合いました。よく聞いたら、T雄を怪獣に見立てて “レンジャー部隊” が襲いかかり、怪獣が倒されたら“お葬式”という遊びが繰り返されていたのです。幼稚園では、家内が園長に相談したらすぐに対応してくれましたが、その残り火は数年残りました。(注3)

この時期に、家族のきずなはいっそう強まった気がします。「ギュー」の習慣はお互いの愛情を確かめ合えますし、絵本を読み聞かせたりいっしょに風呂に入って童謡を歌ったりすることで、“学び直し”にもなりました。
テレビの“教育効果”も絶大で、子どもたちは帰宅するとずっとテレビに見入っていました。コマーシャルまで聞きもらさないようにして日本語のシャワーを浴びていたのは、子ども同士の話題についていくために必要だったようです。当時はビデオデッキが普及していて、ジブリ作品を含むアニメ童話も“子どもの基礎教養”となっていました。

注3)小学校の1・2年の担任は、問題に苦慮してはいましたが、有効な対応をしてくれたとは思えません。幸いなことに、長女の担任のI先生がT雄のカウンセリングをしてくれて、T雄はかろうじて精神バランスを保てたようです。

「起きてしまったことはしかたない」の諦め

じつはジャカルタでは、生まれたばかりの次男が死ぬという事件もありました。何か月もずっと「赤ちゃんが早く生まれてほしい」と楽しみにしていた長女(M子)もT雄も、その後いっさい、弟のことを話題にしなくなりました。ジャカルタと広島とで2回葬儀をしたわけですが、その間も弟のことにまったく触れないようにしている姿が、よけいにいじらしくもありました。

帰国後のカルチャーショックは、それに輪をかけたようです。
まず自分自身のことを大事にし、それと矛盾することには執着しない。そのうえで相手や周りの人のことも大事にするために、「たまたま、こうなってしまったのさ」「この人も、たまたまそうしてしまっただけさ」と諦めることができるようになったようです。

日本の同年齢の子に比べて“器(Capacity)”が広くなっているために、よけいな情報や音声まで受け止めてしまうこともあるのでしょう。周りの大人の事情まで気になってしまうのです。
いやなことや悲しいことがあっても、「起きてしまったことはしかたない」と考えて忘れる癖を身につけてしまった・・・・・・親としては、なんとも切ないことでした。(注4)

注4)とくにT雄は、いろんなものを分解して遊ぶのが好きで、鏡台やタンスの取っ手のネジが外されていて慌てさせられたこともしばしばです。「どうなってるのかな?」という探究心が、寂しさ・悲しさを紛らわしているのではと思われ、叱る気にはなれませんでした。

「親の視点」でお送りします

幸いなことに我が子は皆、高校ではよい友達に恵まれて学校生活を満喫し、学年トップの成績も取れるようになったのですが、そこに至るまでの私たち親子の道は決して平坦ではありませんでした。むしろ失敗と挫折と反省の連続ともいえます。それでも青空を見上げて笑顔をつくってきた私たちの姿と周辺の問題を、これから書いてまいります。

知らない間に大人の想像を越えて“器が広くなった”子どもたちが、皆さんの目の前にいます。しかも最近は、長女か長男、あるいはその両方しか持たない親が大半なので、周りの親たちも “初めての経験”をしています。
そういう時代だからこそ、これまで「第三文化の子どもたち(TCKs)」と向き合ってきた私たちの経験や葛藤・苦悩のエピソードは、きっと現在のパパ・ママへのアドバイスやエールになるのではと思っています。少しでもお役に立てれば幸いです。

第二回はこちらから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?