タウンスケープとは?建築ではなく景観
日本では1軒1軒の建築に興味がある人はいるし、建築家もいい設計をするために日々研鑽を重ねています。けれども、複数の建築群や自然環境で構成される街並みといったものに目を向ける人が多くないようです。「ランドスケープ」というと「風景」ですが、これに人工的な建築物などを加えたものが「タウンスケープ」または「景観」という概念です。これは、すべての人々が日々目にする景色を好ましいものにするためにおざなりにするべきではない公的な資産といえます。
建築家と都市計画家
イギリスで都市計画の勉強をしていた時、ストックホルム大学の建築課程でアーバンデザインの実習コースに参加したことがあります。そのコースにはヨーロッパ中の交換留学生が集まっていました。イギリスの大学には建築科とは別に独立した都市計画科があります。でも、ヨーロッパのほかの国では建築科の中の特別な科目、または建築課程を終えたものが学習する修士課程として都市計画やアーバンデザインがあることがほとんどです。
そのため、このコースに集まったのもイギリス以外はみんな大学の建築科からの学生で総勢20人くらい。学生は地元のスウェーデンをはじめ、フィンランド、スペイン、オランダ、ドイツ、フランス、オーストラリアなど多国籍でした。授業は基本的に英語で行われましたが、英語が苦手な生徒もいました。担当の先生は少なくとも4か国語は話せるという人だったので、個別に多言語で対応していたのには感心しました。
コースは「ランドスケープとアーバンデザイン」というもので、既存の環境にそぐうアーバンデザインを考えるというのがテーマです。その実習としてストックホルム郊外の実際の1区域が指定され、そこに学生みんなで新しい街を作るというものでした。既存の自然、人工環境をリサーチし、そこに新たに建築物などを設計していくのです。
まず、全員でケーススタディエリアを回り、おおまかなバックグラウンドを頭に入れたうえで、スケッチ段階で出てきたそれぞれの作品を発表しました。
この段階では簡単に自分がどんな建築物を設計したいかについて説明します。予定する建築物についての概略、その目的や理由をスケッチ、簡単な設計図、写真をコラージュしたイメージなどを添えての発表でした。
多くの学生が設計を予定する建物は教会とか車の展示場とか、比較的自由なデザインができるものばかり。そして、それぞれがケーススタディ内で選んだ場所に自分の建築物がいかに美しく映えるかということをプレゼンしていました。
けれども、それぞれが持ち寄った案を全部一つの地図にのせてみるとちぐはぐになります。だいいち教会や車の展示場などは一つしか(または一つも)必要ないでしょう。普通の住宅や店舗などを設計した人はほとんどいません。それに、みんな周りの環境や隣に何があるかなどを考えずに設計しています。
学生なので、ある程度自由度をもたせた設計をして創造性を育てるということは重要です。でも、現実にはこのような恵まれた環境で設計をすることはあまりないでしょう。また、このコースのテーマである既存のランドスケープに合ったアーバンデザインをという趣旨からもはずれてしまいます。このままでは一つの「街」ができそうにもありません。
私は建築ではなく都市計画を学んでいたので、もう1人やはりイギリスの都市計画科出身の学生と共に調整役に回りました。まず、すべての学生と話し合い、その街のおよそのマスタープランを立てます。まず、どのような街を作るのか大まかな取り決めをした上で、どういうインフラストラクチャーや建築物、サービスが必要となるのかを割り出します。そして、今ある道路網に加えてどのように道路や歩道を加えていくのか、この街に必要な建物を誰がどこに設計するかの担当を決めます。
このあと、それぞれの「建築」学生と話をして個々が設計する建物がいかに周りと調和するかを「都市計画」の学生である2人が調整するようにしました。それぞれの建築物の設計に個々のオリジナリティーと創造性を発揮させながらも全体としての景観が調和するように努めました。
でも、これにはとても苦労したのです。みんな自分の設計する建築物はこうでなければならないといった理想があり、周りと合わせるために妥協するということをよしとしません。各自がそれぞれ設計図に自分の理想を描いたものをそのままマスタープランに移せばいいと考えている人がほとんど。
けれども、そういう建築物を20点集めると、機能的にも景観的にもちぐはぐになります。建築物の向きやアクセス、全体の構造(高さや大きさ)、建築材料の種類や色などをそれぞれの学生と話し合って調整しようとするのですが、「そんなことをすると私の理想の作品が台無しになる。」と拒否する学生も少なくありません。
それでも、担当の先生の協力を得て何とか調整して出来上がったマスタープランは若い学生の創造性を発揮したユニークな出来上がりでした。
日本の建築家
ストックホルムでの経験のあと、建築家というものは自分の「作品」のことばかり考えるものであるという認識を持ちました。けれども実際にイギリスで都市計画の仕事をしてみると、イギリスの建築家は自分の建築物を周りの景観の中の一環として設計するということがわかりました。イギリスでは都市計画許可申請の段階で許可を申請する開発が既存の環境にどのように影響するかについて説明し、その正当性を認めてもらわないと開発許可がもらえません。それで、景観を考えることが必要不可欠となっているからでしょう。
けれども、日本で建築家と話をすると、ストックホルムでの経験がよみがえってきました。やはり、自分がデザインする建築のことばかり考え、それがいかに美しく機能的であるかということばかりに気を留める人が多いようなのです。建築家だけでなく住宅会社の広告などを見ても一軒一軒の住宅についての説明や外観の描写はありますが、それが周りの景観の一部としてどのようにうつるのかについての情報がありません。
日本の建築家の本を読んでいて「日本には守るに値する街並みがないので、自分の建築を美しく設計することによって、私は街並みに貢献しようと思っている。」という趣旨のことを見つけたことがあります。
この建築家などは「街並み」ということを一応考えているというわけですが、そもそもそれを考えていない建築家や開発業者も日本には多い印象を持ちます。
タウンスケープは公的財産
イギリスでは、ひとつひとつの建築物は私有財産ではあるものの、外から見える外観は公的なものであるという認識が一般国民にも浸透していますが、日本ではあまり認識されていないようです。
建築物の内部は個人の領域で好きなようにしていいと思いますが、外部はそうではありません。不特定多数の目に触れるので公的な要素が強いものです。人が道路や歩道にゴミを捨てるのを不道徳とするように、一般人が見て不愉快な気持ちになるような建築物を一目にさらすのも不道徳ではないでしょうか。騒音公害というのがありますが、建築公害というのもあると思います。少なくとも私は街を歩くときに醜い建築を見ると不愉快になり、心落ち着く街並みがあると幸福感、安心感を得ます。
そして、これはひとつひとつの建築物のデザインだけでなく、それが構成要素となる一連の景観が問題となるのです。一つの建築物がいかに美しいものであっても、それが周りに合っていなければ台無しです。
教会や博物館など、建築物によってはランドマークとなり得る性質のものもあります。そういう建物は個性的でかつ周りから突出するような性格のデザインである時もあるでしょう。けれどもそういう建物は特別な物であり、多くの建築物は周りに溶け込む性質のものであるのが好ましいと思います。
景観を整えるためにできることといえば、電線を地下に埋めるとか、既存の建築物を建て直すとか、効果的ではあるけれど資金がかかることもあります。けれどもただ単に新築や改築工事の設計時に景観を考慮に入れて建築物をデザインすればいいだけのこともあります。建築物の全体的な構成(形や大きさ、高さ)建材の種類や色。家の向きや道路、周りの建築物との関係、窓やドアなど外観のデザインなどを個々の建築としてだけでなくタウンスケープの一部として考えればいいだけのことです。
個人の好みと公的な景観
芸術や建築のデザインといったものについては個人の好みといったものもあります。それぞれ何を美しいと感じるかについては異なる意見があるでしょう。けれども、人が一般的に「ここちよい」と感じる景観といったものは存在します。たとえば、海や山といった自然の景観を嫌いだと人はあまりいないでしょう。
また、歴史的に保存されているような統一された街並みについては、それが日本の白川郷といったものであれ、外国のもの、たとえばイギリスのコッツウォルズのものであっても好ましいと思う人がほとんどだと思います。
ではどういう景観を目指すべきなのでしょうか。まずは、その地域にあったものというのが基本であるべきです。いくらスペインの白壁の家が連なる街並みがきれいだからといって、それをそのまま日本に持ってくるべきではありません。それぞれの土地にはその風土にあった昔からの建築様式やデザイン、建材があり、それを基本として現代に合った機能や建材を使ってアレンジしていくのがいいでしょう。
日本のモデル住宅にはよく「スペイン風」とか「イギリス風」とか、異なる地域のデザインをまね、それ風にアレンジした住宅を見かけます。そういう異質なものを日本に古くからある街並みに当てはめて、ちぐはぐになってしまっている残念な例があちこちに存在します。
風土から生まれる景観
イギリスでは景観に対する専門家や一般の意識が高いので、「外国風」の建築物を尊ぶ風潮はありません。けれども、イギリス全土で活動する大手住宅建築会社の「英国風」ともいうべき均一化されたデザインをイギリス中どこでも使う傾向にあるのが問題にもなっています。すでにある建築デザインの設計図をイギリス中どこの敷地にでも当てはめて使いまわすことは低コストにつながります。けれども、金太郎あめのように同じような景観がイギリスのあちこちに現れるといったことが問題とされているのです。
かつて、ウィリアム・モリスが言ったように「建築というものはその風土から生まれるものである」はずです。風土が異なればその建築様式も違うのが当たり前でした。建築に適する石材が採れるところでは石造りの家が建てられ、そうでないところではレンガを使う。
石にしても堅い砂岩を使うヨークシャーではシンプルで堅牢なデザインの家が多いが、やわらかい石灰石を使うコッツウォルズでは、彫刻を施した手の込んだデザインの建築物ができるといったふうに。
今では、建材も部品も工業化されてイギリス中から、また輸入されて外国からも入ってくるので、どこにいても同じような建物を造ることは難しくありません。けれども、グローバルになっていく世の中だからこそ、その地方独特の景観にはこだわっていきたいものです。
コッツウォルズに観光?
日本人がイギリス旅行と言うと、以前はロンドンなどの観光地に行く人がほとんどでした。けれども、近頃はイギリスの田舎ブームだそうで、訪問先として特に観光名所などはない、コッツウォルズなどが人気だそうです。
いわゆる観光地ではなく、普通の人が住んでいる普通の街並みに観光バスで押しかけて写真を撮りまくって「かわいい。」とか騒いでいる日本人(近頃は中国人も)がいるのです。
そういう人たちはカメラに収めたくなるような景観がイギリスのコッツウォルズやスペインのアンダルシアにしかないと思っているのでしょうか。自分が住む日本の街にはそうした景観がないと思っているのでしょうか。ないとしたら、同じように美しい街並みを造ろうとか保存しようとか、もっと整えようとか考えないのでしょうか。
この人たちがきれいだと思っているイギリスの景観はイギリスの法律、国や地方自治体の規制や取り組み、住民や関係者の努力と、時には不便や煩雑さにも耐える精神で育まれてきたものです。
日本では無理?
日本でも同じように法律や規制、公的な取り組み、個人の努力によって日本らしい、その街らしい景観を整えることは可能であるはずです。それには、個人の好みや権利をある程度制限してみんなのために譲り合い、地域全体で話し合って、理想とする景観のイメージを共有することが必要です。
幸い日本には昔からコミュニティー内で協力し合って生活してきた歴史があります。景観に対する意識が広まり、話し合いの結果共通の理想をもとにした制度が整えられれば、日本でも美しい景観を維持していくことが可能になると思います。
わざわざ海外に旅行に行かずとも、普段着で出かける自分の街の景観に満足できたらと思いませんか。普通の家や普通の店が並ぶ、心落ち着く景観を眺めながら散歩して、時々出会う黒猫と目が合ったり、低い塀から見える誰かさんの前庭のバラを愛でたりして「いい町だな」と思えたら、毎日がもっと幸せに感じられるかもしれません。
いつも読んでもらってありがとうございます。