欲望主体と愛情主体と人間の成長
今まで欲望主義と愛情主義について話してきた。
私たちはどうすることが人間としての本来の姿なのか。
私たちの結論をのべていきたいと思う。
独り立ちするまでは欲望主体の人生が許されるが
家庭を持てば、
もはや自分中心の生き方は許されない。
伴侶の為に生き、
子供の為に生き、
社会の為に貢献する生き方ができなければならない。
成長とは、
自己主体人生から、他者主体人生へ移行することであり
欲望主体人生から、愛情主体人生へ移行することである
と結論できる。
一言で言えば、
欲望主体人生を終えて、愛情主体人生に切り替わることが
一人前になったことの証明であり、
子供から大人になったという証明である。
他者の欲望を満たしてあげることが愛情主義であることは述べたが
それには重要な条件がある。
その他者が愛情主義で生きている人でなければならない。
愛を動機としても、
我欲主義の人を助ければ我欲主義の共犯者となる。
自分の生命を捨ててまで他者の幸福の為に尽くした極限の実例がある。
線路に落ちた人を救おうと飛び込み、救いはしたが本人は生命を落とした、
というような場合だ。
電車が直前まで近づいて危険にも拘わらず、
他人を助けずにはおれなかったその人の心は
どのように作用したのだろうか。
線路に落ちた人は何の関わりもない他人だ。
助けて上げたいが、自分の生命が失われるかもしれない。
自分にも幼い子供がいる。
やむを得ない、放っておこう。
大概の人はこう考えるかもしれない。
しかし、生命の危険を顧みず他の為に尽くす人がいることも事実だ。
自己の基本的欲望を完全に否定してまで、
他者の生存の為に行動した人に対して、
その行動が世間の知るところとなれば、
誰もが、その愛情深い行動に感動し涙を流す。
自分の生命を捨ててまで他者の為に行動したことを「立派」と称える。
「何と愛情の深い人だろう。」と感動の涙を流す。
人間らしい生き方とは
欲望主体ではなく愛情主体で生きることだと誰もが知っている。
その愛情主体で生きるためには小さいころから愛情を与えたという事実が必要である。
親は愛したと思っても、
子供の心にそれが伝わっていなければ意味がない。
間違いなく伝わった事実の確認をおろそかにしてはならない。
物を与えたとしても、小遣いを与えたとしても
それだけで子供を愛したことにはならない。
どこまでも心が主体であり、物はその伝達の手段に過ぎない。
物が溢れていても親の愛が伝わらなければ有害である。
どこまでも愛情というのは他人を中心に考えることである。
自分はやったと思い込んでいてもそれが相手のためになっていなければ
何の意味もないことになる。
欲望主義で生きれば
自己の欲望を満たすために、相手から奪い取ることとなる。
愛情主義で生きれば
相手の欲望を満たすために、与え共に喜びを分かち合うことになる。
この愛情主義で生きる世界が本来の人間の生きるべき世界であると私たちは確信している。
そしてそのために私たちも日々取り組んでいる。
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