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EP#099_誕生/GLIFE

2024年9月23日(月)

ジャズピアニストのバド・パウエルが「クレオパトラの夢」というアルバムを録音していた日、私は生まれた。

※「クレオパトラの夢」は、1958年12月29日、
  ニュージャージー州 ヴァン・ゲルダー・スタジオにて録音

1958年12月29日、午前11時35分、3590g、正常分娩で生産された、と母子手帳には記載されていた。母子手帳に生産ということばが使われてるところが、なんとも時代を感じさせる。まるでロボットのように生産されたみたいだ。

生後27日後、体の一部に発疹ができたと記録が残っていた。どうも過敏なアレルギー体質みたいで、幼い頃よく湿疹ができていた記憶はある。その時の体重は 4260g。 27日でずいぶん成長するものだ。

1959年4月18日、母子手帳によると体重は 6030g、身長は 61 cm、 栄養方法は 母乳という記録が残っていた。

1962年7月21日、満3歳の時の健康状態。体重は14kg、身長は 94cm。こうやって本人の記憶のない情報が 母子手帳に記載されているのを振り返ってみると面白いものだ。

予防接種の記録も残っていた。1959年、種痘、ジフテリア。1961年、急性灰白髄炎症。幼い子供はこうやって大人の保護を受けながら生きているということを再認識した。

母子手帳の最後のページに、母の書き残したメモが残っていた。

★ おすわりが8月20日
★ 歯がはえる 9月2日
★ うまうまが言える 9月7日

こうやって母親に見守られながら人は成長していくのだ。

そういう母は、2021年7月7日、大雨の七夕の朝、自宅で息を引き取った。

母は1929年6月4日、岐阜で生まれたらしい。
いわゆる 私生児という法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた子で養子に出された。岐阜から鳥取へ養子に出され、倉吉市のヤマモト家で育った。


その後、三朝温泉のお土産店で働くようになり、そこで父と出会った。父はオサキ家の次男として生まれ、5人兄弟の中の一番しっかりものとして、面倒なことをすべて背負いながら育った。とても慎重で用心深い人だ。あまり人を信じることなく生きてきた。きっと、過去に人に騙されたり、裏切られたりすることが多かったのだと思う。大工仕事なども器用にこなす研究熱心な人物だ。

当時、オサキ家は三朝温泉で遊技場とお土産店をやっていた。パチンコやスマートボールという温泉地の娯楽施設としての遊技場は、当時まだ少なくてずいぶん 繁盛したらしい。

昭和33年頃は、わりと景気がいい時代で観光客が大量のお金を温泉地に落としてくれていた。

わたしが幼少のころは、遊技場と土産店の商売がうまくいってたので、わりと裕福に育った記憶がある。

わたしは兄弟もなく、一人っ子で、小児喘息などもあり、小柄で病気がちだったので、両親はいつまで生きれるかわからない子のことを心配して過保護に育てたようだ。そのせいで、今のわがままな性格が形成されたのかもしれない。

いずれにしても、愛情深い両親のおかげで、病気がちだった幼少期をなんとか生き延び、その後、65年の人生を過ごさせてもらっている。自分が今、生きていられるのは、両親がいたからであり、離婚することもなく、大切に育ててくれたことに本当に感謝している。天国の母は、特に気にかけてくれていたので、ある種のマザーコンプレックスはあったと思う。母に似たタイプの人を好きになるのは、そういう理由なのだと自己分析している。

ショートカットで気が強くファッションセンスのある、目の大きい女性、そういう人を好きになっていた。深津絵里さんのようなタイプだ。

この「GLIFE/ジーライフ」はわたし自身の人生を振り返りながら、ある種の遺書のようなものとして、書きしるしたライフログ日記である。

今日(2024年9月23日)からスタートして、誕生した1958年まで遡っていくスタイルで記録していく。EP#000まで遡ったら、この記事(EP#099)に戻ってくるループ構造をもつライフログ日記だ。

2024年9月23日(月)3:33