見出し画像

またひとつ大人になった

小さな缶はあっという間に空っぽになった。
「2週間お世話になりました」と別れ際に渡された小さな焼き菓子の缶。
沢山の人の授業をみて欲しかったから、学年や教科を問わずお願いして教育実習生の参観をさせてもらった。
そんな人達に配ったら、わたしの手元には空き缶だけが残った。

あーあ。

とは思ったけど大人なので口には出さず、缶だけもらうことにした。家に持って帰ったら子どもが使うだろう。

***
「こんなによくして頂いたので嘘はつきたくなくて…」
と切り出されたとき、わたしの手には生徒から預かっていたプレゼントの寄せ書きがあった(わたしの分だけメッセージを記入していなかったので、最後に書こうとしていたのだ)。

「こんなによくして頂いたので」くらいのところで、わたしは、

あなたはもう『先生のひ


…まで書いていた。

顔を上げた。

「嘘はつきたくなくて…」
「うん」
「実は、教員採用試験、受けてないんです」
「ええ!そうだったんだー。びっくり。上手に誤魔化してたね。」

あなたはもう『先生のひよこ』です。

話しながら、顔を伏せてしまったので、結局最後まで書いてしまった。
せめてこの話が1分前に始まっていれば、まだ書いてなかったのに。

「大学には黙ってろって言われてたんですけど、先生だけには、お世話になったし、嘘を言ってちゃダメだと思って」

あーあ。

「そっか、黙って過ごすのしんどかったでしょう。」

あなたはもう『先生のひよこ』です。

という目の前の字が滲みそうになる。

「ま、人生長いから、資格取っておけば学校で働きたくなるかもしれないし、ならないとは言い切れないかな?」

「教育実習生」という名札が目に入る。
ホッとした顔で、今まで黙っていた未来の話をする若者。
握りしめているバインダーには、さっきまでたくさんの人から指導された授業の指導案。
赤ペンだらけのメモ。

   
…あーあ。

別に嘘つかないでよかったのにな。
初めからその話をしてくれていたって、意地悪したり、適当にあしらったりしなかったのに。

「黙って過ごすの、しんどかったね」
しまった、これ言うの2回目。
声が震えていたかもしれない。

大人なので、息を止めて一気に書いた。

あなたはもう『先生のひよこ』です。大きくなって、いつかまた会えますように。

「お疲れ様でした。頑張ってね。」
完成した寄せ書きを手渡すと、教育実習生は少し泣いていた。

あーあ。
あーあ。

わたしは大人なのですぐに次の仕事に取り掛かり、拍手で実習生を見送り、もらったお菓子を配り、空のお菓子の缶を持って帰路についたのでした。


ハッピーバースデー。
33歳のわたし。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?