【おたすけ失敗(?)談】ホームレス〜『不自由』という自由を選んだ男〜
ホームレスを覚悟したことはありますか?
私はあります。
ホームレスになりたいとは思いません。
でも私は出会ってしまった。
不自由な生活=ホームレスという『自由』を選び直した男と。
布教100%生活
私は天理教の教えが好きです。
大人になってから
『信仰しよう』
と決意して、はや10年。
昔、天理教の本部施設で修行中、志願して派遣布教師として1年間の布教活動に出たことがあります。
布教生活中に、ある種類の生き方をしている人たちと関わる機会がありました。
家を持たず暮らす人々=【ホームレス】
諸先輩方からは
「関わるなら覚悟しろ。」
と言われていましたが、ホームレスの人助けに乗り出すとき、いったいどんな【覚悟】が必要か。当時の私にはその真意を想像できずにいました。
物乞い男
私の布教地は東京。
巣鴨駅を拠点に、街頭演説と戸別訪問に明け暮れた布教を行っていました。
巣鴨には『おじいちゃんおばあちゃんの銀座』と呼ばれる【巣鴨・地蔵通り商店街】があり、毎日多くの人で賑わっていました。
そんな賑わいの中、銀行の前で毎日ダンボールの上に座り、物乞いをしているオジサンかいました。
オジサンは見るからにホームレスでした。
そのオジサンはたびたび巣鴨駅前にも現れ、私の街頭演説を聞いている人でした。
演説後に何度か話す機会を持ち、ある晩、
「やり直したい。」
と言うので、私の布教寮で面倒見るから
「やり直しましょう。」
という運びとなった。
垢落とし
小説家・浅田次郎の作品に
『天切り松【闇がたり】』というのがある。
盗っ人一家の粋な任侠物語である。
この中で主人公の『村田松蔵(天切り松)』が兄貴分の逸話を語っているシーンがある。
ホームレス男を風呂に連れていき、垢を落とし、廓(くるわ=風俗店)で一夜の楽しみを味合わせる。
朝起きて、ホームレス男が去りぎわの廓を振り返った時、昨夜の夢のような時間を忘れてまた
・ホームレスに戻るのか。
・それとも一念発起してやり直すのか。
ホームレス男に選ぶ【チャンス】を与える話がある。
当時の私も『チャンスを与えたい、受け取ってもらいたい』という一念で、このホームレスオジサンと関わろうとしていた。
ホームレスの方は長期間、風呂に入れていない。
風呂に入れていなければ【臭い】。
さすがに寮生仲間からクレームが来ると思い、『天切り松』に習い、まずは風呂に入れる。
ホームレスのオジサンはB型肝炎を患っており、足が不自由だったため、髪の毛も体も私がくまなく洗った。
とにかく垢が凄かった。
洗うたびに風呂場には茶色い液体が流れ続け、安シャンプーの芳香剤と体臭が混ざって、風呂場は異様な香りを放っていた。
『修行』という"つまづき"
オジサンには寮に住まう上で多少の条件をのんでもらっていた。
①朝夕の祈りに参列すること
②食事は朝夕の2回、私の食事を半分いただくこと
③寮舎の清掃を私と共にすること
仲間に納得してもらうために出した、3つの条件だったのだが、①〜②はよかったが③は早計だった。
オジサンの寮生活初日。
私はトイレ掃除が当番だった。
共だってトイレへ行き、私は便器や床を磨き、足の不自由なオジサンには、立ってできる拭き掃除をしてもらった。
朝の清掃後、オジサンは
「散歩に出る」
と言ったっきり、夕の祈りには戻ってこなかった。
物乞いアゲイン
翌日、銀行前の物乞いスポットに足を寄せると
『居た。』
オジサンはまた物乞いに、ホームレスに戻っていた。
数日間の話し合いの末、やはり
「やり直したい。」
との言葉から、今度は生活保護を受給して、受給者が住まえる施設で住む方向へと進んだ。
行政と幾度か話し合いを重ね、無事に受給資格と施設への入居が決まる。
施設は受給者が多人数で住まう寮のような建物で、部屋は4人部屋、共同浴場あり、食事あり、衣服あり、閉門時間はあるがそれ以外は自由に過ごせる環境にあった。
アフターフォロー
『これで万事OK🙆♂』
とはもちろん思わず、今までの習慣やマインドを切り替えてもらえるよう、ツテを頼って近くの天理教の教会へお願いし、1日1回のお祈りへ連れていくことに決まった。
施設と私の寮は近くはなかったが、お金はないが時間はある布教師生活。朝、自転車で40分ほどかけて施設へ向かい、オジサンを車椅子に乗せ、10分ほど歩き教会へ。
祈りを終えたらまた10分かけて施設へ戻り、オジサンのお困りごとを聞いて帰る。
初日、2日目、3日目を過ごし、4日目の朝が来た。
秋晴れのすがすがしい空と、『オジサンを助けれてる』という布教師としての満足感から、私は浮かれていた。
理解できない失踪
『生活が安定し、心が少しづつ方向転換できたら、きっと助かる。助けれる!』
と期待と妄想を膨らませて、慣れ始めた40分の道のりに自転車を走らせていた。
施設に着いた。
顔見知りになり始めた受付係に、オジサンを呼び出してもらおうと、声をかけた。
すると…
「○○さん、昨夜の閉門時間に戻って来なくて、そのままです。連絡はありません。」
急いで近くの天理教教会へ。
いない。
いつもの物乞いスポットへ。
いない。
たまにふらつく巣鴨駅前へ。
いない。
1週間探してもオジサンは見つからなかった。
衣食住が揃った環境。生活保護で与えられる、多くはないけど自由に使えるお金。
『ホームレス生活より数段まともな暮らしなのに、なぜ?!』
当時の私には、失踪の理由が理解できなかった。
発見と別れ
失踪から10日目くらいだったろうか。
朝の巣鴨駅前で、日課の街頭演説をし、ふと目をやると、オジサンが座って私を見ていた。
驚いて駆け寄り、話を聞く。
体の具合はどうか?
どこで何をしていたのか?
受給資格を捨ててまで、どうして施設を離れたのか?
オジサンは口を開いた。
具合は悪い。
ホームレスをしている。
「施設には気に食わない人や、気に食わない決まりがある。だから出た。」
と。そして、
「わしはお前を恨んどる。もう2度と関わらんといてくれ!」
と言い放たれた。
不自由という自由を『選ぶ』
オジサンは夢を見た。
『やり直せるかもしれない』という夢を。
しかしオジサンは三度、
『ホームレスになる』
という道を選んだ。
今は分かる気がする。
オジサンが選んだのは不自由な生活の中にある
【心の自由】
束縛を嫌い、ルールを拒む。
生活や体の不自由さより、心の不自由さの方が、オジサンには辛かったのだ。
オジサンの生きる目的は単純明快だったのだろう。
【我がままに生きたい】
誰の指示も受けず、誰に従うこともなく、世のルールより、自らのルールの中で生きる。
様々な事情からホームレスになる方がいる。
だからすべてのホームレスがそうだとは思わない。
しかし、【我が心の自由】を追求する生き方は、社会性を失い、孤立し、ホームレス化しやすい人生へと進んでいく。
しかしそれが悪いわけではない。
『あくまで生き方の一つだ』
と、当時の私は理解できていなかった。
私が関わったオジサンにとっては、住まいや人、ルールなどで縛られる不自由さほど、辛く苦しい、恨めしい生き方だったのだ。
私の価値観の押しつけで、かえって苦しい思いをさせてしまったのかもしれない。
おにぎり🍙
少なくとも当時の私にはもう、オジサンにしてやれることが思いつかなかった。
ただ不思議なことにオジサンは、私の街頭演説の時間に、巣鴨駅前に毎朝やってきた。
私は朝食のご飯を食べずに、大きなおにぎりにして毎朝持っていくようにした。
オジサンは私の作った巨大なおにぎりを毎朝、黙って受け取ってくれた。
ある日、受け渡した私の背に向かって、かすかに
「ありがとう」
と聞こえた気がした。
それからというもの、オジサンは駅前に姿を見せなくなった。
数ヶ月後、駅前にたむろする馴染みの顔たちから噂を聞いた。
「○○は『いい仕事がある』と巣鴨を離れて、最後は肝臓をヤられて死んだ。」
と。
私はあのオジサンに、いったい何ができたのだろう?
今でもその答えは出ていない。
あなたのそのお金は、あなたが働き、培った、あなたの時間という名の『命』です。もしあなたの『命』を寄付したいと言われたら、私は覚悟して扱わなければならない。『決して無駄にはできない』