
ギンリョウソウと父親の話
あの子の心の、奥深く窪んだところに、硬質な何かがひっそりと息づいている。それは、清らかでうつくしい。あの子の祖父も持っていたものだ。何者にも属さない、孤高のもので、同時に、ギンリョウソウのように、生きている存在の、あらゆるものを腐食させ、溶かし込む大地から析出されてくるものだ。生き難さのしるしのような何か。どうかそれが潰れてしまいませんように。行く先々で、小さな奇跡が虹のように起きて、あの子の道を開いてくれますように。(中略)
そして、何年も何年も経って、あの子が成長して、ここを訪れるときが来たら、空の向こうから、木々の合間を通り、梢や葉を揺らしてやさしい風がたどり着き、あの子の耳元にささやくだろう。あの子の心がそのとき、いちばん聞きたいと思う言葉を。
あの子はきっと、聞くだろう。
(『西の魔女が死んだ 梨木香歩作品集』「かまどに小枝を」)
『西の魔女が死んだ 梨木香歩作品集』を読んでいる。今は「かまどに小枝を」に強烈に惹かれるものがあり、何度も読んだ。本編だけでなく、そこにもギンリョウソウが出てくる。
小学生だった私にギンリョウソウ(正確にはアキノギンリョウソウ)を見せてくれたのは亡くなった父だった。
美しい紅葉の深い森(そこはクマが普通に出るので、クマよけの鈴をつけて歩かねばならない)の中へ家族で連れて行かれ、お弁当を食べようと腰を下ろした傍にそっと生えていたのだった。あのころ、私はその不思議な植物の名前を知らなかった。父もたぶん、知らなかったと思う。ただ家族みんなで不思議だね変わってると言い合ったと思う。思い出せない。
私は父に憎しみを持っていた。年を重ねるごとに憎しみは膨らみ育った。血管を血液のように巡っていた。
それでも、私にあの不思議な植物を見せてくれたのは父だったのだ。
『西の魔女が死んだ』を知らなかったころの私。
薄い銀色の、鱗のような茎、それ自体が発光しているような植物。
大きな厚い掌、几帳面に切られた短い爪をなぜか思い出す。
あなたもまた胸の奥深くに硬質な美しい何かを持っていた。
気づけたらよかった。
(210529)