自我と脱構築

私は常に、誰かを崇拝して生きてきた。ある時は親、ある時は友人、ある時は他人。常に誰かに合わせて、誰かと価値観を合わせようとして生きてきた。その根底はやはり、自分を信じられないからだろう、と思う。
私は人と感性が違うという感覚を何度も経験してきた。いや、劣っているだけなのかもしれないが。例えば、堕胎や流産。こんなことnoteで書いちゃいけないかもしれないが、堕胎や流産の話を聞くたび、なぜ一度も愛でたことも、その姿を見たことのない生物にそこまで感情を揺さぶられるのだろうと思ってきた。今でもそう思ってる。
他にも、浮気や不倫の話だ。これは誰しもそうなのかもしれないが、私は最初、浮気という言葉と意味を友人から教わった時、「なんでダメなの?」と素直に聞いてしまった。その時友人は相手が傷つくからとか曖昧な答えを出してその質問から逃れた。私は今まで浮気がダメな直接的な理由を説明できる人と会ったことがない。

そんなことは置いておいて、とにかく私は「他人の感性が理解はできるが共感はできない」という感覚になることが、上の二つ以外にも何度もあった。私は根本的に私を信じていないのだろう、だから友人や親、その他諸々の他人の言うことを素直に聞いて、疑わないところがあった。

みんなもそう言う感覚があると思う、私ほどじゃなくても、他人の言うことをとりあえず信じようみたいな感覚がある。だからこの世には善悪という概念があるし、現代の人々がインターネットの情報や価値観を病気のように信じて、他人と比べたり、大衆が嫌う芸能人や作品をとりあえず叩くという風潮があるんだと思う。

でもそんな生き方、虚しいと思う。ずっと他人に合わせて、自分じゃない自分を生きるのは、空虚なことだと思う。

だから今こそ、そういう感覚を捨てるべきだ。
みんな過干渉なんだ、自分の人生に集中すればいいんだ。
そのためにどうすればいいか、それを教えてくれるのが、「脱構築主義」と言う考え方だ。
「脱構築主義」とは、ジャック・デリダの提唱した、簡単に言えば既存の価値観を疑い、壊すべきところは壊して、新しい価値観で再構築する、と言う考え方である。ちなみに私は、好きなバンドの歌詞からこの考え方を知った。
でも、「脱構築主義」らしい行動をすることは、最初は怖いかもしれない、既存の価値観を壊すのなんて、罰当たりなことだと思ってしまう人も多いと思う。だから最初はちょっとずつでいい。電車で席の真ん中に座るとか、自分と対極にいる人に関わりに行くとか、そんなんでいい。大事なのは既存の価値観を壊しに行くことだ、この時代、みんなと合わせて社会に充満する歪んだ価値観をずっと信じていたら心が壊れてしまう。だからみんなもっと自由に生きるべきなんだ。

私のこの記事も、幼稚なところがあるかもしれないが、それも脱構築的な文章だと思って貰えばいい。
この世界はみんなが思ってる以上になんでもありだと思う。だからどうせなら先進的に生きていこう。

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