3年前、僕の会社はボロボロでした。
3年前、僕らの組織は崩壊寸前でした。
今回はすこし長いのですが、ボロボロの組織でもがき続けた、僕らの苦悩の記録です。もし同じように悩む方の参考になれば、とも思ったのですが、あまりに遠回りで、下手くそな道のりだったので、たぶん参考になりません。(ごめんなさい)
ただ、同じく組織づくりに苦戦されている方が「もう少し頑張ってみよう」と、ちょっとでも前向きになれたら、とてもうれしいです。
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僕は、50年以上続く印刷会社の二代目です。
印刷業界は、いわゆる「斜陽」の業界です。市場規模は右肩下がり。それでもなんとか生き残るために、数年前から新規事業を模索してきました。
そして目をつけたのが「社内報」でした。
企業の「社内広報誌」を作成し、インナーブランディングのお手伝いをする事業をはじめたのです。自社の強みである「印刷」を活かしながら、中小企業ならではのニッチな市場で勝負できます。
僕は「まさに理想の事業だ。これで会社は成長できる!」と思いました。
↓社内報に活路を見出すまでの話は、こちらのnoteにもまとめています。
ところが、市場のニーズはあっても、社内からは猛反発をうけたのです。
「社内報をやるために入社したわけじゃない」
僕はベンチャー企業のように、ゼロから起業したわけではありません。
もともとあった会社で、新規事業を立ち上げて、子会社化しました。ふつうに起業するよりも、リスクは少ないでしょう。
ただ、ゼロベースではないからこそ難しかったのが「人」の問題です。
当時は「うちは社内報専門の会社ですよ」と宣言して採用していたわけではありませんでした。チラシやポスターのデザインなど、普通の印刷会社の仕事をやるつもりで入社した人ばかりです。
それがいきなり「社内報を専門でやるぞ」といわれる。当然、社員は戸惑います。
「社内報事業を絶対に成功させるぞ!」という志をもったメンバーだけで、事業をスタートしたわけではなかったんです。
社員の気持ちをひとつにまとめないといけない。一方で、立ち上げたばかりの事業を軌道にのせるためには、なりふり構ってもいられません。とにかく仕事をとってこないといけない。
このバランスが、僕にとっていちばん難しい課題でした。
ビジョンはなく、仕事も選べない立ち上げ期
社内報事業をはじめたのは、2014年のことです。
当時の会社には「ビジョン」がありませんでした。「とにかく、社内報の仕事をたくさんとろう」という方針があるぐらいです。
また、最初は「社内報」だけに事業を絞っているわけではありませんでした。
「セールスプロモーション」と呼ばれる、店頭のディスプレイや、アパレルのカタログなどの広告系の仕事も、並行してやっていたんです。
当時は、まだ社内報事業がさほど大きくありませんでした。だから社内報の仕事でなくても、お客さんに頼んでいただけるなら「やります! ありがとうございます!」と請け負っていました。要するに、仕事が選べなかったんです。
僕は、いずれは社内報事業に一本化したいと思っていました。
ところが社内では、圧倒的にセールスプロモーション案件のほうが人気があったのです。
新規事業をやりたがらない社員
社内報事業を軌道にのせるためには、とにかく仕事をとらないといけません。
なんとか順調に受注を積み上げていたのですが、次第にチームが回らなくなってきました。受注した社内報の制作で、社内が忙しくなってきたのです。
忙しくなったといっても、会社は赤字でした。利益を出すために必要な仕事量には、まだまだ程遠い。それなのに「忙しいから」と、次第に新規案件のプレゼンを嫌がるようになってきました。
そこで僕は、自分が営業し易いようにスタッフを集めて「新規顧客開拓専門」のチームをつくりました。僕らがとにかく案件をとってきて、それを既存顧客のチームに渡して、制作してもらう体制に変えました。
ざっくりいうと「取る係」と「つくる係」に分かれていたんです。
「取る係」の僕は、基本的に社内報の仕事しかとりにいきません。だから、基本的に新しいクライアントは社内報の仕事です。
ところが「つくる側」の社員は、社内報の仕事に前向きではありませんでした。
その理由は2つありました。
まず、プロモーションにくらべて「社内報」は地味にみえることです。
プロモーション案件では、有名なハイブランドのカタログや、新商品のメインビジュアルなど、ちょっと友達にも自慢できるような「華やかな仕事」が多くありました。
しかし社内報は、基本的に社外秘です。お客さんの会社の内部でしか読まれない。華々しい賞もない。要するに承認欲求が満たされないのです。そうしたことに、あからさまにテンションが下がる社員もいました。
もうひとつの理由は、制作スタッフが「社内下請け」のようになってしまっていたことです。
新規開拓チームが受注して喜んでいても、結局「あとは制作側でなんとかつくってくれ」という形になってしまいます。制作チームは、自分で提案した仕事でもないし、社内報にも乗り気じゃない。
なんのモチベーションもないなかで、ただ案件を渡されるわけです。
いま思い返せば、不満が溜まるのも当然です。
しかし、この状況をどうにかしようにも、当時の僕は仕事をとるだけで精一杯でした。なにしろ会社は赤字なのだから。とにかく仕事をとって、なんとかごまかしながら制作につないで……。もう自転車操業のような状態でした。
社内報事業にシフトしたいのに・・・・・・
そんな状況で、制作チームにとって唯一、自由にできる楽しい仕事。それが、セールスプロモーションの仕事だったんです。
僕は「そんな仕事はいいから、社内報をちゃんとやれよ」と思っていました。
セールスプロモーションの仕事は、社内報事業の「ノイズ」になっていたからです。
社内報は定期刊行物なので、スケジュールがガチッと決まっています。営業しなくても、時期がくれば入稿される。一方で、セールスプロモーションは、いきなり話がきて、いきなりスケジュールにぶっ込まれます。
「プロモーションの話がきたから、とりあえず月曜までにポスターの提案、3案持ってきてよ」なんて言われたりする。しかも、たまにしかない提案だから、デザイナーがちょっと気合を入れて、10案ぐらい作ったりしていました。
結果的に、せっかく安定していただいている社内報の仕事が遅れていく。「いったい、なにをやってるんだよ」という感じです。
会社として、戦略の一貫性がなく、破綻していたんです。
制作チーム内でも「上下関係」ができていた
既存顧客の制作チームには、営業、ディレクター、デザイナーの3つの職種がありました。
営業は、とにかく仕事を取ってきます。受注につながりそうな話があったら「ちょっと一緒に提案してよ」と、ディレクターを連れてどんどんお客さんのところに行くわけです。
ところがディレクターは、やらないといけない仕事が社内にあるのに外出してしまうので、仕事が溜まってしまいます。
さらに、デザイナーの要求もどんどんエスカレートしていきました。
どんなに案件をとってきても、結局デザイナーがアウトプットしないと、作品は出せません。それゆえに、デザイナーの立場が強くなっていったのです。
デザイナーに「こんなスケジュールじゃできません」「こんな原稿じゃ無理です、もっとちゃんとまとめてくれないと」といわれたら、ディレクターはNOとは言いづらい。
ディレクターが「デザイナーの下請け」のようになっていったのです。
デザイナーが仕事をやってくれるように、ディレクターが気を回して原稿の編集に時間をかけすぎるようになりました。弱い者が、さらに弱い者をたたく。ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」のような状態でした。(弱い者たち夕暮れ~♬ さらに弱い者をたたく~~ 的な)
そもそも既存顧客の制作チームは、新規開拓チームから降りてきた仕事をやらないといけません。そこだけでも「社内下請け」状態なのに、既存チームのなかでも、さらに上下関係ができていたのです。
組織は崩壊寸前、でも社長は・・・・・・
組織は、いよいよ崩壊していきました。
そこら中で「もうできない」という声があがり、ちょっとしたイザコザが発生するようになりました。怒鳴ったり、ヒステリックになってしまう社員もいます。社員どうしの仲も悪くなっていき、一部では口を利かないような状況でした。
会社の雰囲気が悪いことは、僕もわかっていました。しかし当時は、そこに対応している余裕がありませんでした。
とにかく、シェアを広げることで精一杯だったのです。
「毎年30社、新規の仕事を取るんだ」と決めていたので、それだけを考えて動いていた。「ゴチャゴチャ言ってんじゃねえよ」なんて思っていたんですよね。
しかし、ふと気づくと、会社は明らかに「しらけて」いました。僕がなにか話しても、みんな明らかに聞いていないし、届かなくなっていたのです。
仕事が、売上が、減っていく
社内報は、お客さんと一緒に作りあげていくものです。ふつうの印刷仕事のように、データをもらってあとは刷るだけ、というわけにはいきません。
あるページに、社内の偉い人が関わっていたりすると、制作の途中でお客さんから「申し訳ないんですが、このページのラフを先に見せてほしいんです」と言われることもあったりします。
ふつうの印刷の仕事ではやらないことですが、お客さんの社内でうまく「ネゴる」ためには、偉い人にラフ案を見せないといけないわけです。
ところが、それをデザイナーに伝えると「これ、なんでやらなきゃいけないの」「企画の意図がわからないのに、デザインラフをつくったってしょうがないじゃん」という話になるのです。どちらも正しいです。
それで、とりあえずラフを出すのですが、納得がいかないままなので、クオリティの低い適当なものになっている。当然、お客さんには「これじゃ上には見せられないです」と言われてしまいます。
だんだん、お客さんの不満も溜まっていきました。
「言ってもやってくれない」「普通のデザイン会社や印刷会社ではなく、社内報専門の会社だと思ってお願いしているのに、なんの提案もしてくれない」と。一方、社内では「あいつがダメだ」「これがダメだ」と、責任のなすりつけあいになってしまっていました。
そんな状況なので、当然、仕事を打ち切られることも多くなります。
当初は伸びていた売上が、ついに減りはじめていました。
仕事は減ったのに、なぜか人手は足りない
仕事は減っていくし、本来はたいして忙しくないはずの業務量です。
それなのに、なぜか現場からは「人が足りません」という声があがっていました。
たしかに、仕事のボールはポトポトと落ちていました。手がつけられず、進行が遅れる案件も出てきました。
みんな「ボールが落ちている」という現象だけを見て、「じゃあ、ボールが落ちているところに人を入れよう」と思っていたのです。
しかし実際には、人が足りないからボールが落ちているのではなく、連携ができずパスが回っていないだけでした。組織がバラバラで、ボールがちゃんと回っていないから、ポトポト落ちてしまっていた。
誰も、そのことに気づいていなかったのです。
「人手が足りない」と思っているので、すぐにでも人を入れようと、急いで採用をします。すると、当時はまだ採用基準もちゃんとしていなかったので、スキルのない人が入ってきてしまう。仕事が回っていないので、十分な教育もできません。
チームは、ますます機能しなくなっていきました。
「文句言うなら、お前らでやれ」
社内報事業を始めてから、ずっと一緒にやっている女性のマネジャーがいます。僕は新規獲得チーム、彼女は既存の制作チームで、全体をまとめるディレクター兼マネジャーをしていました。
バラバラの組織で、いつも槍玉にあげられているのが彼女でした。
当時は、ほぼ全員が中途採用の社員でした。バックグラウンドも違えば、持っているスキルも、制作のプロセスも全部ちがっていました。マネジャーの役職者はいましたが、中心メンバーがみんな同世代だったこともあり、よくいえば「フラットな組織」でした。
ただ、それが実際には「統率のとれない組織」になってしまったのです。
バラバラな組織の「しわ寄せ」が、すべて彼女にいってしまっていました。彼女への批判は日増しに強くなっていきました。ただ、僕には都合よく面倒くさいことを彼女に全部押しつけてるように見えていました。聞き上手だったこともあり、言いやすかったのもあるでしょう。
このまま放っておいたら、彼女はつぶれてしまいそうでした。
それで彼女に「いったん降りていいよ、やつらに任せてみよう」と言いました。やつらとは、彼女をやり玉にあげていた同世代の男性スタッフのことです。
「じゃあ、お前らでやってみろよ」と。
僕は半ば自暴自棄だったのかもしれません。
そして営業、ディレクター、デザイナー職を代表した40代ぐらいの男性マネジャー4人に、チームの指揮を任せたのです。彼女には、いったん別の部署へ異動してもらい、新しい仕事をやってもらうことにしました。
それが、2018年7月のことです。
決められないマネジャーたち
その年の12月に、彼らのミーティングは僕が解散させました。
僕らのフラットな組織には決定的な欠陥がありました。
それは、4人の横並び意識が強く、重要なことを決められないことでした。それぞれの部門長が、部門最適だけを考えて発言していて、視野が狭くなっているようでした。
彼らは来る日も来る日も、何も決まることのないミーティングを続けていました。きっと、議論を続けた先に誰もが納得する解決策があると思っていたのかもしれません。
決定のない組織に実行はありません。
組織は時間を追うたびに機能不全に陥っていきました。
ある日のこと、4人のマネジャーが朝から午後までずーっとミーティングをしていました。それをみて、僕の頭の中で何かの糸が切れたのがわかりました。
「お前らは、もう一切ミーティングすんな」
「こんなのは時間の無駄だ。仕事しろ」
といって、やめさせてしまいました。
決められないのは、責任をとる覚悟がないからです。
自分が決めなければ誰かのせいにできます。職種は違えど同じ立場のマネジャーが4人いるわけですから。みんな横並びで、結局は「単なる同僚」のままなんです。
チームはバラバラで、そもそもどこを目指してるのかもよくわからない。人もポロポロと辞めていきます。
もう、会社は限界でした。
結局、経営者が決めないからダメ
「このままじゃダメだ」「なにがダメなのか、みんなで話し合おう」などと言っても、話はまとまりませんでした。結局、みんなでちょっと酒を飲んで「がんばろうな」みたいになって帰ってしまう。ダメな会社にありがちなことです。
結局、なにがダメなのかというと、経営なのです。
経営者の僕が、決めないといけないことをなにも決めていないから、組織はバラバラになるのです。
ようやく、そこに目を向けられるようになったのが、2018年終わりごろのことです。社内報の新規案件も順調に伸び、事業はなんとか軌道にのりかけていました。
会社を変えるなら、いましかないと思いました。
そこで最初に手をつけたのが「ビジョン」でした。
ビジョンは「バスの行き先」
「会社にはビジョンが必要だ」ということは、ビジネススクールで学んで、いちおう知っていました。だから当時も「なんとなく」のビジョンは存在していたんです。
当時のビジョンは「アジアナンバーワンのPR会社」でした。
しかし「PR会社」といいながら、実際にやっている仕事は社内報です。「アジアナンバーワンのPR会社になるぞ!」なんて思っている人は誰もいませんでした。
社長の僕すらも、本気で実現しようとは思っていませんでした。「なんか社員のやる気が出るような、かっこいいビジョンがないといけない」と、なかば強引につくったものだったんです。
いま見ると恥ずかしくなるぐらい、実体のないビジョンでした。
ビジョンがあっても、形骸化してしまってはまったく意味がない。「社内報だ!」「いや、セールスプロモーションだ!」と、見ている方向がバラバラの社員たちを目の当たりにして痛感しました。
ビジョンとは「社員の気持ちを盛り上げるためのもの」ではなく、示すべき「バスの行き先」なんだ。
そう気づいたのです。
ビジョンがあいまいだと、仕事を受ける基準もあいまいになります。
「会社としてやりたいことではないけど、儲かるからな……」「この仕事、あいつが喜んでやりそうだな」と。バスが寄り道ばかりして、なかなか目的地にたどり着けないのです。
逆に、ビジョンがバシッと決まれば、会社は迷わず進んでいけると考えました。
2019年6月、ビジョンは「インナーブランディングの達人」に決めました。
そして、社員にも「うちはインナーブランディングの達人になる。会社としてそう決めた以上、絶対にやりきる」「セールスプロモーションには、いっさい手を出さない」と伝えたのです。
営業とディレクターを廃止
組織体制も変えました。営業職とディレクター職をなくしたのです。
これまでは営業、ディレクター、デザイナーという職制でしたが、営業とディレクターを廃止・統合させました。そして新しく「フロント職」「セカンド職」という職種をつくりました。
フロント職は、「営業」兼「ディレクター」を担当します。セカンド職は、「ライター」や「編集」です。
それから、チーム編成も変えました。
以前は「営業チーム」「ディレクターチーム」「デザイナーチーム」と、職種ごとに分かれたチームでした。そうすると、どうしても部門対立が起きやすく、制作チーム全体としてまとまるのが難しかった。
そこで、職種別ではなく「事業別」のチームに変えました。
営業も、フロント職も、セカンド職も、ごちゃまぜのチームを3つ作りました。それぞれのチームで新規開拓も、既存顧客の制作も両方やるようにしたんです。もう「取る係」も「つくる係」も関係ありません。
さらに評価も、チームごとの独立採算制にしました。
これまで、ディレクターは「営業が悪い」と言うし、営業は「ディレクターが悪い」と言うし、デザイナーは「営業もディレクターもみんな悪い」と言うような状態でした。
そんなふうに社内でいがみ合わずに、きちんと「お客さん」と向き合えるようにしたのです。
「強いサッカーチーム」のような組織に
当時の制作組織を、サッカーにたとえて説明した図があります。
薄い青の丸は営業です。これまで、営業は制作がスタートすると、フィールドの外へ出てしまっていました。「俺達は関係ないから、あとはよろしく」と。案件の受注だけが仕事だったからです。
つまり、ディレクターとデザイナーだけで制作をまわすことになります。そうすると、中盤がガラ空きになってしまうのです。誰のものかわからない、グレーなボールがたくさん出てくる。だから、ポトポトとボールが落ち始めるのです。
いまの組織体制はこれです。
営業とディレクターをあわせて「フロント職」にしたことで、営業担当者がフィールドの内側にとどまれるようになりました。
さらに、フロント職とデザイナーの間を埋められるように「セカンド職」を配置します。フロント職の時間をつかわず、デザイナーが仕事をしやすくなるように、お客さんの原稿を整えます。
仕事のボールが、きちんと回る体制にしたのです。
あえて「独自の職名」をつけた理由
新しい職名は、あえて「フロント職」「セカンド職」というオリジナルの名前にしました。
いちおう名刺には「アカウントエグゼクティブ&ディレクター」とか「エディター&ライター」と書いているのですが、社内では誰もそんな呼び方はしていません。みんな「フロント」「セカンド」しか言わないんです。
デザイナーは「サード職」と呼ぼうかとも思ったのですが、それだと「一番後ろ」みたいな感じがしてしまう気がして、そのままにしています。
こういう「独自の職名」をつくったのには理由があります。
中途で入ってきた社員が、「前職の常識」を持ち込まないようにするためです。
一般的な職名にしてしまうと、経験者は自分なりの「営業論」や「ディレクター論」や「ライター論」を振りかざすようになってしまいます。
「ライターとはこういう仕事だ」「ディレクターの仕事はここまでなんだ、ここから先はプロデューサーの領域だ」と。しかもその常識は、これまでのキャリアによって、みんな少しずつ違います。
そういう「あるべき論」は、新しい事業を立ち上げる時にはノイズにしかならないと思うんです。
「ディレクター」や「プロデューサー」は、いろんな会社にあるけれど、正解の定義がよくわからない職種ですよね。それについて「どうあるべきか」なんて議論するのは、ナンセンスだと思うのです。
それよりも「僕らの会社のフロント職」が、どうあるべきかのほうが大事です。それをみんなで語れるようにしたほうが、ずっといいはずです。
幕張のアパホテルで感極まる
この方針を決めたあと、6月下旬に幕張のアパホテルで1泊2日のマネジャー合宿をしました。
「インナーブランディングの達人」というビジョンが、具体的にどういうことなのか。マネジャーたちと一緒に解像度を上げるのが目的です。7月の全社経営方針発表会はもう目の前でした。
当時、マネジャーだったデザイナーの男性がいます。
彼とは同い年で、当時42、3歳ぐらいでした。デザインの賞をとったりするほど、才能もある。人間としてはまったく嫌いではないし、ウマは合うほうです。
ただ、がんばる方向が、会社の方針とズレていました。
しかも実力があるぶん、発言力も大きい。彼と足並みがそろわないことが、変わろうとする会社にとってノイズになっていたのです。
合宿の最終日、昼飯のときに彼を呼んで、2人で話をしました。
「うちは、もう社内報でいくと決めた」「君は『いつか変わるんじゃないか』『結局セールスプロモーションもやるんじゃないか』と言うけど、絶対にやらないよ」と告げたんです。
お互い、人生もうそんなに長くない。クリエイターとして一線でおもしろい仕事をやり続けるために、40代前半というのは大事な時期です。
本当にプロモーションや広告がやりたいなら、うちではない他の道を選んだほうがいい。
「やれるかもしれない」という淡い期待をもったままズルズルと働いて、結局叶わないぐらいなら、「やらない」とキッパリ言うほうが彼のためになると思いました。
それでも彼は「この会社でやります」と言ってくれました。
この合宿でマネジャー陣のベクトルを揃え、様々なことを決めていきました。合宿の最終日、予定していた全てのプログラムを終えたあと、全員で丸く円になって、一人ずつ胸にある思いを口にしていきました。
例の女性マネジャーは感極まった様子で涙を流していました。
「まさか、こんな日が訪れるなんて」と。それほどに、当時の会社はグチャグチャだったんです。
ビジョンは決めた。組織体制も変えた。合宿もして、気持ちはそろったはず。
「これで、やっと会社が変わる!」と思いました。
「決めただけ」では、なにも変わらなかった
ところが、そう簡単にはいきませんでした。
新しい組織体制は、社員には相談せずに僕が決めました。ただ「誰をフロントにして、誰をセカンドにするか」という采配は、マネジャーたちに任せていました。
しかしこれが、まったく決められなかったのです。
話し合っても決められず、ゴチャゴチャした結果、1つのチームからは「全員フロントでいきます」と報告されました。
そこは既存顧客の制作チームのメンバーが主体でした。当然、あの4人の男性スタッフも含まれています。「前年度は、お客さんも減ってしまって、数字も足りません。だから、みんなフロントでいきます」というのが彼らの言い分でした。
結局、またしてもマネジャーだけでは決められませんでした。
このままでは全社方針で決めた「パスが繋がるサッカー(制作体制)」は実現できません。そこで、いったん別部門に異動していた例の女性マネジャーが、セカンド職として戻ることになりました。
それでしばらくすると、また「彼女が悪い」なんて話になっている。
ビジョンを決めて、体制を変えても、結局はなにも変わっていなかったんです。
一度バラバラになったチームに、大きな組織変革を乗り越えるだけの地力は残ってはいませんでした。その年の秋、チームは半ば崩壊し、彼女は新規事業の立ち上げチームに異動しました。
マネジャーを全員「更迭」に
その後もチームが好転することはありませんでした。
一度悪いほうに転がりだしたボールの勢いを止めることは難しく、チーム連携は更に悪くなっていくようでした。他のチームが業績を伸ばしていく中、そのチームだけ下降の一途をたどっていきます。もちろんチームの雰囲気もよくありません。
そんな時、大きなクレームが発生したのです。
そのチームの対応が悪いことが、根本的な原因でした。
非常に情けなく、顧客に対して申し訳ない気持ちで一杯でした。同時に自分に対して無性に腹が立ち、怒りがこみ上げてきました。
「俺はいったい何をやってるんだ」と。
すべては自分が蒔いた種です。
2020年6月、僕はこのチームのマネジャーを呼びだしました。
そして、全員に「更迭」を伝えました。
また同じことが繰り返されてしまった。それで「もう、人任せにはできない」と、マネジャーを更迭し、1年間の期限つきでマネジャーを兼任して、自らチーム立て直しの先頭に立つことにしました。
決めるべきことを「ちゃんと決める」
この1年間、僕がやったことは至ってシンプルです。
①3か月に一度のペースで現状の課題を整理する。
②課題に優先順位をつけ、優先順位の高いものからプロジェクト化し、責任者とメンバーを決める。
③課題に対するアクションと期限を決める。
④毎週のミーティングで進捗を確認し、フィードバックする。
こんな感じです。なにも特別なことはしていません。
「なにをするか」「誰がするか」「いつまでにするか」をちゃんと決めて、管理しただけなんです。あとはこのサイクルを、3ヶ月×4回くり返すだけです。
なあなあになっていた「フロント・セカンド・デザイナー」の組織体制も、上からがっちり整えていきました。
チームを立て直す途中で、落ちていく業績についてはいっさい口にしないと決めていました。この期間だけは「目先の業績」よりも、みんなで決めたプロジェクトでやりきることを、なにより重視しました。
業績だけを追いかけてチームづくりを放置した結果どうなるか、もう痛いほどわかっていたからです。
社員と「ちゃんと話す」
あとは、チーム内のコミュニケーションです。
まずは「制作現場でのルールと共通認識」を整えることからはじめました。
仕事をするうえで、共通のルールと共通認識がなければ、そもそもコミュニケーションはとれないからです。軽く見られがちだけど、とても大切なことです。
さらに、3ヶ月に1回、丸1日かけてワークショップをやりました。
毎回僕が資料をつくって、「このチームは今後、こうやっていく」「そのためには、これが大事だ」と、ていねいに、なかば強引にでも価値観を共有していきました。
ワークショップは、現在の課題を全員が認識するための場でしたが、それを通じてメンバーそれぞれがお互いに向き合う、チームビルディングの場にもなっていたと思います。
社内報に反発していた社員の変化
最初は「また工藤さんがなんか始めたよ」という感じだった社員も、だんだん変わっていきました。
反発して腐ってしまう社員はいませんでした。先日「なんで腐らなかったの?」と、チームの1人に聞いてみると、こんな答えが帰ってきました。
「いちばん最初に、工藤さんからチーム全員に向けてチームの業績や連携の悪さをキッパリと指摘されたのが大きいです。あれがあったから『本当にまずい。変わらないといけない』と、みんな覚悟を決め同じ目線に立つことができました」
「あとは、無理に社内報に目を向けさせるというより、ビジネスの心得やチームづくりの観点から話をしてくれたのが大きかったです。自分たちの組織に向き合っているうちに、いつの間にかそれを社内報の仕事に落とし込めるようになったんです。」
実はもともと、社内報事業を始める前までは、このチームのメンバーが中心となって会社の売上を支えてくれていました。僕がちゃんと決めることを決めて、ちゃんと向き合えば、また復活できるだけのポテンシャルがあるメンバーだったんだよな、と改めて感じました。
いちばん印象的だったのは、合宿で話をしたデザイナーの男性です。
彼は、この1年でめちゃくちゃ変わりました。
うちでは、毎日Slackで「日報」を書いてもらっています。日報といっても目標管理のためのものではなく、日々思ったことをメンバーと共有する「公開日記」のようなものです。
そのなかで、インナーブランディングの可能性や、社内報のおもしろさについて、自分の言葉で語るようになったんです。
なにより「リーダー」としての自覚が芽生え、チーム全体へのメッセージを明確に発信する機会が、以前よりも圧倒的に増えました。普段、僕はチームでのやりとりにコメントはしないのですが、彼の変化がうれしくて、思わずコメントしてしまいました。
「広告の世界で、カンヌなどの華々しい賞をとって活躍したい」という思いと、「社内報で、地道なチーム戦で勝利していく」ということの間に、やっと彼なりの着地点を見いだしているのだと思います。
いま、彼には「アートディレクター」として、チーム内のデザイナーをまとめる立場になってもらっています。
うちの会社にとって、なくてはならない大切な存在です。
「働きがいのある会社ランキング」に選出
去年、僕らの会社は初めて「働きがいのある会社ランキング」にランクインしました。
まだまだ組織には課題が山盛りだし、正直そんなに良くなった感じもしていません。でも、こうしたランキングに入れたのは前に進めている兆しだと考えています。
ビジョンである「インナーブランディングの達人」になるべく、いまは自社内でもインナーブランディングに力を入れています。
有志のメンバーが「社内YouTubeチャンネル」をつくったり、「音声版社内報」をやったり。僕はまったく指示していないし、内容の確認もしていません。
先日は、いつのまにか新しく「社内壁新聞」が立ち上がっていました。それで「glassyはいい会社だと思いますか?」というアンケートをとって、発表していたんです。びっくりしました。
「いい会社」になれているのかはわからないけど、そんなアンケートを社員が自らとること自体、数年前だったら考えられなかったことです。
こうしたボトムアップの活動は大切です。互いの理解が進み、働くうえでの心理的安全性の土台になるからです。
ただ、こうした活動だけで「いい会社」をつくることはできません。やはり経営者がやるべきことをやり、決めるべきことを決めなければ会社は良くならないことを、この数年間のなかで痛感しました。
「いい会社」は、旗を立てつづけた先にある
会社を変えるのは大変です。
「ビジョンを決めて、組織体制を変えたらおわり」なんてことはありません。僕らは「会社を変えよう」と決心して方針を決めてから、実際に会社が変わるまで、およそ2年かかりました。
ビジョンを決めても、社員は変わりません。
組織体制を変えても、現場の抱える課題は変わりません。
大事なことは、それでもリーダーが旗を立て続けること。そして、一人ひとりとちゃんと向き合うことです。
例のチームは、まだまだ十分な成果を出せているとはいえません。
でも今は、3年前のあのころのような不安はありません。僕の言葉を真剣に受け止めてくれる中心メンバーたちがいて、さらに彼らの言葉を受け止めるチームメンバーが育っているからです。もうみんなバラバラではないのです。
前よりも強くなった会社でこれから、思いっきりアクセルを踏んで成長していきます。
(完)
*Chronicle*
合宿の準備。新しく入社した人事等の担当者とミーティングした時のホワイトボード。左下の「今→やりたくない」という文字がシュールで笑える。(2019.6月中旬)
合宿が終わった時にみんなが自然と「やりたい!」と思うのがゴールだった。
**
皆でglassyのバリューをつくったアパホテル幕張のマネジャー合宿(2019.6.25-26)
思っていたよりも狭くて縦長だった会議室。照明とイスがチグハグだったけど、当時の僕らに合ってたようなw
今回のnoteのサムネイルにもなっている会議室からの景色。glassyらしく海の見える会場にしたのに空はどんより曇り空だった。
***
合宿で決めたバリューを年1回の経営方針発表イベント「The Day」で共有(2019.7.6)
「The Day」では様々なワークショップがあって皆、真剣だったな~
ケータリングもおしゃれに背伸びした。みんなが集まれるリアルイベントはいつ戻るのだろうか。
*** 編集後記的な ***
あれから2年が経ちました。
昨日の出来事のような、遠い記憶のような(笑)
色々あった甘酸っぱい記憶を二人とたどりながら、今回のnoteの筆を置こうかと思います。(2021.9月某日)
日々はつづく。