ひろゆき「読めない名前の子供は遺伝により頭が悪い可能性が高い」
少し前に上記ツイートが注目され様々な人の意見が投稿されました。
まず意見を大きくわけるとひろゆきさんの主張に賛成する派と反対する派になるわけですが、意見を交わしあっている大部分の人たちは無駄なことを言い合っているという印象を受けました。
無駄な言い合いが起きる理由の1つとして、ひろゆきさんが断定している部分と断定していない部分を閲覧者側が混同していることがあると思います。
「親の知能は遺伝します。」ツイートの冒頭の部分ですが、これは紛れもなく断定した言い方です。また、今後覆される可能性もあるかもしれませんが、科学的にも証明されていることなので、現時点では正しいこと、事実であると言ってよいでしょう。
次に断定していない方の主張ですが、「一般的に読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高いです。よって、読めない名前の子供は遺伝により頭が悪い可能性が高いです。」というモノです。
可能性が高い、つまり100%そうであるとは断定しているわけではありません。
この2つの部分を混同して考える人が多く、論文データや著名人が発言した内容をソースとして出すなどの無駄なやり取く見られた原因なのでしょう。
結果、ひろゆきさん自身も
上記の内容を出すなどしたのですが、元ツイートの1番の問題点は、可能性という言葉で濁し読めない名前の子と親を傷付けるような形で発信していることにあると私は思います。
まず、可能性という割に「また実例が増えました」と、引用記事の人物の親を頭の悪い親と断定しているかの印象を与えています。
彼のしたことは許されることではありませんが、成人した人間の親を引きずり出して晒し者にするようなことは問題があるように感じます。
中には私と同じ部分を問題点(可能性という言葉で濁し読めない名前の子と親を傷付ける)として挙げている人もいましたが、その反論として1番挙げられていたのは、
「あくまで可能性、全員とは言っていない」
というモノでした、
つまり、例外もいるのは認めるから「一般的に読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高いし、遺伝により子も頭が悪い可能性が高い」コトを認めろよ。ということなのでしょう。
それはそうでしょう。
遺伝云々の話と分けて考えられている人はそんなことはわかっているのです。危惧しているのはその考えが広がると例外を意識出来ない人たちがあたかも科学的根拠があるかのように読めない名前の子や親への偏見や差別を助長してしまうということです。さらに細分化すれば例外がある事実を認めていても読めない名前の子を見かければ「親、兄弟含め頭が悪い可能性があるな」と、とりあえずフィルターを掛ける人は出てきてしまうでしょう。
また、見る側(読めない名前ではない人)だけでなくもちろん見られる側の意識としてもそのような風評が広がってしまえば、そのように見られているのではないか自分は、自分の親は知能が低いと思われていると思ってしまう人は必ずいるでしょう。
これを被害妄想だと片付けてしまうのは厳しすぎる問題だと思います。
例外はいるんだから例外と思えば良いでしょ?としても、「私は、私の家族は例外である」だなんて思わなければ、意識しなければいけないなんておかしな話ですし、その考え方さえ浸透しなければこの問題は起きない訳です。
結果、どうせ何やっても元がダメなんだと本人のやる気を損なわすことになったり将来の可能性を潰す1つのきっかけになる可能性があります。
繰り返すように「あくまで可能性」であるし、後天的な努力や環境によっても変わるんだからと、慰め的な可能性を示したとしても、周りにそう言われてしまっている、思われているかもしれないという環境の中で育つのと、そのような偏見がない中で育つのでは言うまでもなく状況が違います。
読めない名前というだけでそのフィルターをかけられハンデを背負うことになるのです。
ここで1度私自身の立ち位置を話しておきますが、私自身は読めない名前を推進していません。自由に付けたらというよりも避けた方がイイと思っている人間です。もしここで「じゃあひろゆきさん派じゃん」とか「じゃあ何にそんなこだわってるの?」と思った人が仮にいたとしたら読むのをやめて欲しいです。
話を戻しますが、見る側の人の一部には私はそんな目(フィルターを通して)で見ない!という人もいるでしょうが、やはりそれは一部でありこれもまた例外の人と言えるでしょう。
なぜなら遺伝云々の断定の話と可能性の話を分けて考えられない人が多い状況を見ていればわかります。
例えば、あくまで可能性だと言っているのに断定しているように受け取る人はもちろん、遺伝する事実は認めているのに遺伝に関してのソースを提示してくる人などもそうです。擁護する側もそうでない側にもズレている人が大勢います。
この件に関わったこういった人たちは少なくとも読めない名前の人を見たら今後フィルターを通して見るでしょう。
ひろゆきさんはその後、ある人のリプライにこのように返しています。
今回のツイートは「読めない名前だとデメリットがあるから減らしていきたい」という気持ちから発言したようにとれます。
しかしこれは少し2人のやり取りがズレているように感じます。
主にズレを感じるのは回答した側のひろゆきさんになりますが、リプライをしたKendy0509さんは、いま現在読めない名前が付いている子、付けた親に配慮がない発言だったのではないでしょうか?というコメントに対し、自分の思う未来に対する願望しか回答していません。
現に、今回のこの内容に傷付いた読めない名前の人はいたようです。
他の媒体でこの件に関して、ひろゆきさんは何か補足しているのかもしれませんが、これを読む限りでは今読めない名前が付いてしまっている人を傷付けたり、成長を潰してしまう可能性のある現実より今後減っていく未来を重視したいと考えているのだろうと捉えられてもおかしくありません。
減らすことが目的であれば、なぜ頭が悪いという言葉を使って減らそうとしたのか、他の手段があるはずなのにこのやり方を選んだのであれば、読めない子を減らしたいという願望よりも特定の人間を傷つけることが目的となっていると言っても過言ではない文脈だと思います。
仮に読めない名前と頭の悪さの因果関係が証明されたとしても、そもそも正しい論であれば人をバカにするような傷付けるようなことを堂々と言ってもイイのか?という問題があります。
科学的な内容に人権的問題が関わってくるようなことを重ねるのがよくないのでしょうし、わけて考える必要があると思います。
今回のキーワードである「可能性」についてですが、この可能性という言葉を信じすぎているあるいは免罪符のように扱っているコトも私の違和感の1つです。
そうではないかもしれない部分を残しているから問題ないというのはその対象に対してだけであり、そこから生まれる誤解あるいは印象を頭が悪いからそうなると片付けるのは横柄であると思います。
それはまた少し違うといわれてしまうかもしれませんが、少し前に森喜朗さんが女性蔑視と取れる「女性の多い会議は長引く」というような趣旨の発言をしました。
仮にこれが「女性の多い会議は長引く可能性が高い」だったとしても今回騒いだ方は騒ぐでしょうし、森喜朗さんの処分は変わったかもしれないけど、特に女性の方は断定されたと同じくらいに不快の思うのではないでしょうか。
そして、この騒動を聞いた男性の中には同じ会議の場面、あるいは些細な話し合いの場面であったり普段の生活の中で少し時間をとられるようなことがあると結びつけてしまう人もいるでしょう。
誰もが傷付かない社会というのは難しいモノですが、傷付かないで済むならそれに越したことはないですし、わざわざ他の方法、伝え方があるにも関わらず傷付く可能性の高い方を選んでいく必要は私はないと、そんなことを今回の話題の中で思いました。