ニッチになった、編集の仕事について。
今日は、四半世紀ほど本業としている「編集」という仕事について、
振り返りと現状、自分が進むべき未来について書いてみたいと思います。
熱量高めな人がいる場所、それが「マガジン」の編集だった。
私が属している編集という分野はとても裾野が広い。その中で長らく生業としているのは「雑誌(マガジン)」を中心とするエリアです。
子供の頃から、知らない世界の窓を開けてくれる雑誌が大好き。
とはいえお金があるわけではないから、書店で立ち読みしたり、廃品回収に並ぶモノを拝借したり、してきました。
やがて大学を卒業し、放浪の時期を経て、ライターになりたい、編集者になりたいと強く願っていたわけではないけれど、雑誌づくりの現場「編集プロダクション」に運良く入れてもらった。それからはコマ記事を書くところから歩みを始め、気がつけば書く側ではなく企画・編集する側に。
25年前の雑誌編集の世界(関西での話ですが)は、熱気ムンムンでした。インターネットが誕生した頃、まだ情報の中心は雑誌だったから、どんな情報を届けるべきか、言葉の選び方は、見出しの強さは、と喧々諤々、版元のあちらこちらで、いろいろな意見が飛び交っていたものです。
誰しも一家言を持っている、そんな人が集まっている場所だった気がします。まだまだ足元にも及ばない先輩がたくさんいる中で、自分の芯を探し、創り、磨いていくことが何よりも大事だった毎日。
「眠っているとき以外はすべて情報収集の時間」くらいに思っていたっけ。
しかし、急速に広まり始めたインターネットは、雑誌から広告主を奪い始めました。と同時に雑誌は潤沢な制作費を持つことが難しくなり、コストダウン→情報量コントロール→外部委託費用減、という下降線を辿り始めたように思います。フリーランスならその波にまだ抗えたのでしょうが、プロダクションは、運営危機に近い状態にあっという間になっていきました。
流れが大きく変わるときは、往々にしてこれまでの体制がこのように簡単に崩れていくものです。
それでも、こだわりを持つ人のところには、こだわりを求める、ある種「職人的」な仕事が集まっていく状況は変わりませんでした。
自分で書くのもどうかな、とは思いますが、いつの間にか自分も、そっち側と捉えられるようになっていて、それはそれで、目指す世界のひとつとして受容し、またその枠の上に行こうと考えました。
もう「マス」は見なくていい。
私が独立したのは2006年。その頃はまだ、自分が立っている大地はマスメディアであると考えていました。
今はどうでしょう? 僕らがこだわりを形にしていく場所は、もはやマスではなく、ニッチへ向けた矢印の上にあると考えています。
出版社に属している編集者には、各社の先輩方が積み上げてきた方法論があります。それが時には教科書に、時には越えるべきハードルとなり、後輩達は進んでいくのです。
版元に所属していないインディペンデントな編集者は、己を磨き、その光に誰かが吸い寄せられるのを期待します。そのために少〜し自分を出したり。そもそも編集者というのは「影」だと考えているので、なかなか自分を出しづらいポジションではありますが。
しかし、吸い寄せられる人たちの種類が、言動が、少しずつ変わってきました。予算的なお願い、そんなに支払えないから「このくらいで」というオーダー。哀しいかな、気がつけばそれでも受けていかねばならない状況に、社会は変化しています。編集者は影ではなく、セルフプロモーションや代理社(者)によって光の当たる場所にいくようになりました。
もともと編集に正解などないのですが、正解どころか、進むべき方向さえ人それぞれになっています。それはそれで面白いのだけれど、深く掘ったものを一度疑い、違った確度から眺め・精査し、また考えるという作業は、ずいぶんと減った気がします。
いまだにそんなことばかりやっている自分は、すっかり時代に取り残されているのだと思ったりもします。
「そうか、情報を提供する先はもう、マスではないのだ」
ようやくその境地に達した数年前でした。←遅い。。。
雑誌は今でも好きだし、定期的に書店へ足を運びます。
ずらり並んだ表紙をまずは少し離れて眺めて、目がとまったものへ手を伸ばし、ペラペラめくる。
が、買うことはないです。デザインも文章も、薄い。そして日本語が美しくない。戦利品なく店を跡にすることばかり。
結局、昔から手元に残している雑誌の方が、いまだに手に取る頻度は多い。
あらためて眺めてみると、私が手元に残している雑誌のほとんどが(一番古いものだと、私が生まれる前の1968年発行のもの)、実はマスに向けたネタではないことに気づきます。
マスへ向ける必要など、そもそのなかったのですね。
マガジン編集者よ、どこへ向かう?
雑誌の編集という作業は、机の上にとっちらかっているさまざまなネタを何かの法則に沿って集め、出していくこと。そして、情報を提供したい誰かと情報をほしいと思っている誰かをつなぐこと。
その点で、雑誌ではない分野にも活躍の場はたくさんあります。私のところにも、プロジェクトコントロールや商品の企画、事業再生などの相談が来ます。結構真剣に取り組めますし、面白いものですし、勉強になります。
ついでに、ある分野ではちょっと有名になったりします。
が。
頭の片隅には、「さて編集を生業とする自分はこれからどこへ?」の思い。
今年で50歳、現場はこれからの世代に譲るべきです。それに、現代の雑誌編集では、私のようなスタイルは古く映るし求められもしないでしょう。
とはいえ、まだまだたくさんの人に紹介したいこともある、きちんとアーカイブしていきたいこともある、失われる前に多くの人に気づいてほしいことやものもある。
結局はなんやかんやと毎日エディットしていたいのだ、と気づくわけです。
そしてその気持ちの中心に、マガジンがあるのです。
エディット的にキャンプ場をつくりました。そこには多くの人に知ってほし、社会的な意味も込めました。ストレートではないので、ちょっと伝わりにくいけれど。
プロダクトもリリースしています。これまたコンセプトがわかりにくいけれど。どうも自分の中にある編集って目線は、物事をストレートには表現できないものだ、と笑いながら。
でも、満たされない。むしろ乾いていく日々。公的な冊子制作を頼まれて手を出すけれど、校了した日の達成感以外、極論すると得るものがない。
やっぱりリトルプレスをやるしかないな。最近はそんなことばかり考えています。自分の中に残っている考え方やテクニックは、リソースですから、それを自分で動かさないと。私は私の楽しむべき場所を、もう自分で創りましょう。そんな心持ちです。
マスからニッチへ。
そこに光があるのかどうかもわかりませんが、向かうべし!な気持ち。コロナ禍の間にすっからかんとなってしまった会社の財布が憎らしいけれど、昔も今も、編集とは博打打ちのようなもの、ということは変わらないと思っていて、じゃ、やるしかないね、と感じています。
どんな仕事もポジションも、自分で栄養をあげなければ成長しないものですから。 ネ。