伝えたい情報を選ぶ方法について。
編集を生業としていると、
たまに「知り得ていることをもっと発信したらいいのに」と言われることがあります。
コレは明確にNOです。私感ですが。
知っていることだけを話したり発信するのは世間話と同じものだし、ね。
では、情報を仕事として扱う人間がプライベートで出すものって何か、と。
知っていることをたくさん出すだけでは意味がない時代。
雑誌をメインで扱っていた頃は、オフィスに日々たくさんのDMや資料が届いていました。
消費期限は長いもの、短いもの、プレスリリースとして追加で聞かないとわからないもの、とても丁寧に情報を整理して送ってくれているもの。
さまざま。
それらはそのまま、例えば版元に送るようなことはありません。一旦頭の中に入れてしまう、だけ。
それらの中にはネットニュースなどに出る前に届くものもあります。
だからといって、それらをじゃんじゃん出したところで、意味はないと感じています。ほとんどのものはいつか誰でも知り得ることであり、これだけ毎日チェックしきれないほどの情報が出て、アルゴリズムなどで勝手にセグメントされている時代では、もう情報鮮度を競う時代ではない(そこに価値があった時代がありました)から。
出すべきなのは、届いた情報を自分なりのフィルターや透かしメガネを通して見て、考えて、かみ砕いて飲み込めそうになったもの、でしょうか。
でもその行為は、仕事として行っているため、当然ながら先の「」のようなことはしません。
どんなフィルターや色眼鏡を持っていて、それを通して何を言語化できるか、が私たちの価値になってきます。これはスキルの大小はどんどん出てきますが、もう少しは需要があるのでしょう。
魂とか、熱意とか、に流されずクールに見る大切さ。
フィルターや色眼鏡は、「伝えたい!」という思いだけでポケットから出さないようにしています。
もちろん出発点は「誰かに伝えたい」と思うことですが、誰に? なぜ? 本当に? 事実? とか、とか、頭の中に次々と浮かぶ「?」を片付けたのちに残るものがあれば、それが自分の中では伝えるべき情報と考えるから。
まっすぐに向き合って、そのまま咀嚼してしまうと、見残しや見忘れ、食べ残しが多くなります。
情報はいろいろな形や味をしているはずなので、じっくり、ただしゆっくりすぎず、吟味する。
少なくとも私は何らかの情報を扱う際にそう気を付けています。
簡単にいうとクールに物事を見るクセ、です。
ただ、そればかりだと無感動な人間になってしまいそうなので、自分の中の衝動には常に敏感に。
なんだかめんどくさいですね、行為がw。
例えばこんな情報なら、プライベートで伝えたい。
プライベートでの発信行為で出すとしたら何か、と考えると、ひとつは「メディアに載ってこないできごとや、事実」かと。
例えば。
4月16日は、熊本大地震の本震から7年が経過した日です。
熊本県宇城市豊野町にある真宗大谷派 光照寺では、震災後毎年開催されている「復興祭」の序盤で、法要が執り行われました。
本堂に集まったのは、ご住職夫妻、副住職、副住職と友に復興や人のつながりづくりに奔走する仲間である仏教多数派の僧侶、神職、牧師。
ご門徒さん、そして副住職を応援する県内外の仲間。
これ、とても意義深いことだと感じています。
宗派を超えて、平和のために集い、祈る。
その法要には、地域の子供たちもたくさん集まりました。そして副住職による法話で、大切なことをみなさん心に刻んだのだと思います。
副住職の法話を聞いていると、自然と涙が流れてきました。
これ、衝動です、おそらく。
そこから、これまでの副住職との対話を思い返し、熊本大地震のことを思い返し、同じような場面は多地域で見聞きしていないか思い返し、そうだ、伝えよう、と思うわけです。
ただ、自分は知り得た全てを伝えるのではなく、“さわり”のちょっと先までを伝え、あとはもっと知りたい人が情報主にアクセスしてくれればいいな、と考えます。
ぜんぶ出しちゃうと、それでおしまいだと思うのです。
だから第一報的に出すなら、こんな感じでしょうか。
真宗大谷派 光照寺、気になったら調べてみてくださいね。
これから、昨日・今日で見聞きしたこと同じ場を共有した人達の言葉を思い返し、同時に副住職との対話を整理していきながら、落ち付けどころが見えてきたならば、どこかでもっと深みのある情報を、出すことがあると思います。