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44年前〈韓国非常戒厳令宣布〉

※この記事は未確定の情報があります、より詳細な情報は各種ニュースサイト、SNSなどで『キチンと精査』するようお願いします。


1.非常戒厳令

2024年12月3日夜、韓国の大統領である尹 錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が緊急談話の中で、突如として非常戒厳令を宣布しました

戒厳(かいげん)とは、戦時や自然災害、暴動等の緊急事態において、兵力をもって国内外の一地域あるいは全国を警備する場合ーー
憲法・法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権の一部、ないし全部を軍部の指揮下に移行することをいう。

ーーwikipediaより引用

尹大統領は「野党が国政を麻痺させている。彼らは体制転覆を狙う反国家勢力だ。」と痛烈に批判した上で、「北朝鮮勢力から韓国の憲政秩序を守るため、非常戒厳を宣布する」としました。
戒厳令の発布により、韓国では国会における政党活動、集会などの政治活動が一切禁止され、韓国メディアやSNSでは、韓国の国会議事堂の入り口を封鎖する軍隊の様子が撮影された動画が公開されました。

これを受けて野党『共に民主党』の代表・李 在明(イ・ジェミョン)氏は「戒厳令は違憲である」と批判。更に与党『国民の力』の代表・韓東勲(ハン・ドンフン)氏も「非常戒厳の措置は間違っている」と批判。いずれも「国民と共にこれを阻止する」と宣言しております。
現時点での市民への具体的な措置は不明であり、尹大統領は「市民への影響は最小限に留める」と宣言しています。しかし、それでも市民の生活に大きな影響を及ぼすことは予想されており、現在、戒厳令に対するデモ行進が行なわれている情報が存在しています。

韓国大使館も日本にいる韓国人に対して、動向を留意するように指示しております。じっと、情報を待ちましょう。

2.前例『ソウルの春』

1980年5月17日ーー今から44年前にも、非常戒厳令が発布されました。
その経緯を語るにはまず、1980年前後の韓国の情勢について知る必要があります。

1979年10月26日、朴正煕暗殺事件

1980年より前。この頃の韓国は、混迷の時代にあり、当時の大統領である朴 正煕(パク・チョンヒ)による軍事独裁政権により、民主化を望む市民たちの声が抑え込まれていた時期でした。
朴大統領は、北朝鮮との関係を考慮するという名目で憲法を自身の意のままに改正した他ーー大韓民国情報中央部・KCIAによる諜報活動などの軍事力を用いて、民主化を望む学生運動、市民運動を厳しく弾圧していきました。その過程で多くの学生や活動家の犠牲が生じたことは、言うまでもないことでしょう。
しかし、1979年10月26日、宴会の最中で突如として朴大統領は銃殺されました。実行犯はKCIAの部長である金 載圭(キム・ジェギュ)であり、これによって軍事独裁政権が終わりを告げることとなります。

現役大統領が突如として亡くなったことによって、崔 圭夏(チェ・ギュハ)氏が大統領代行として韓国の政治権限を握ることとなり、国民の多くが韓国に民主化の兆しを見出すこととなりました。
この民主化ムードはいつしか、チェコスロヴァキアにおける『プラハの春』にちなんで『ソウルの春』と呼ばれるようになりました。

1979年12月12日、粛軍クーデター

民主化の兆しが見える中、水面下では怪しげな動きが見られました。
崔大統領代行は、それまで朴大統領時代に冷遇されていた政治家を採用するようになり、その後、国民からの支持を経て正式に大統領に就任。民主化に向けた政策へと取り組もうとしてました。
しかし、そんな中で、鄭 昇和(チョン・スンファ)陸軍参謀総長が、ある問題を提起しました。

「軍部は全 斗煥(チョン・ドゥファン)、盧 泰愚(ノ・テウ)などの、軍事秘密結社『ハナフェ』のメンバーを優遇し過ぎている。」

この『ハナフェ』と呼ばれる組織のメンバーは皆、朴大統領から寵愛を受けていた者たちばかりであり、言わば朴大統領の遺産とも呼べる存在でした
鄭総長は「軍部は政治に介入するべきではない」と主張し、ハナフェの実質的な解体を画策しますが、これに対してハナフェのメンバーは反発。この行動は朴大統領から優遇されていた政治家たちの不満を誘発する結果となってしまい、最終的にはクーデターへと発展。
全 斗煥、盧 泰愚らはこのクーデターによって軍部を完全に掌握。粛清ーーもとい粛軍が果たされる形となってしまいました。
軍部の権限を握った全 斗煥は、「鄭総長の意思を汲んで政治には介入しない」としつつも、崔大統領ら閣僚に対して威圧行為を繰り返し、自身の意思を優先するような政策ーー即ち以前のような軍部政権を掲げるようになりました

当然、これには多くの国民が反発を強め、再び民主化に対するデモが行われることとなりましたがーーそんな中で、1980年5月17日、突如として非常戒厳令が宣布されることとなりました。

1980年5月18日、光州事件

5月17日、非常戒厳令が宣布されたその日に、崔大統領政権下で大きな権限を有し、かつ国民からの支持が高かった金 泳三(キム・ヨンサム)氏、金 大中(キム・デジュン)氏を軟禁していきました。 
この非常戒厳令は突発的なものであり、当然ながら多くの国民からの反発を受けましたがーー

5月18日。

韓国南部、光州市に、空挺部隊が投入されました。この時に、市民への発砲などで多くの死者、行方不明者が出ましたが、それがかえってデモ行進に参加する市民を増やす結果となりました。
政府による市民の弾圧は、市民や学生による抵抗を招き、市内は火炎瓶や銃弾が飛び交い、バスやトラックで出来たバリケードが散見されるようになりました。
5月27日。何千もの負傷者、何百人もの犠牲者をもって、韓国軍はこの運動を鎮圧。光州事件に際して、当時の政府は『北朝鮮の内部工作』『テロリズムに扇動された市民による暴動とメディアを操作。真相を有耶無耶にした上、軟禁した金 大中氏に全ての罪を擦り付け、実質的な政治権限を掌握するに至りました。

『プラハの春』は、チェコスロヴァキアにおける数ヶ月しか存在しなかった民主化政権の期間を指していましたがーー
『ソウルの春』と呼ばれたこの民主化の兆しも短命の道を辿ることになるとは、まさに皮肉としか言いようがありません。
こうして韓国では第五共和制と呼ばれる軍事政権が敷かれることになりましたがーーこの事件が、1987年における韓国の6月民主抗争の根底となりました

3.現時点での情報

2024年12月4日、午前1時に開かれた国会において、大統領が発令した戒厳令の解除を求める動議を可決し、議長は戒厳令宣言は無効と宣言しました。
この国会審議において参加した議員300人の内、190人が出席、戒厳令解除を可決しておりーー
これが韓国の憲法において、国会の在籍議員の過半数が要求すれば大統領は非常戒厳令を解除しなければならない、という要件を満たしているためでした。

SNSでは、近年、尹大統領は支持率が低下しており、その政権に暗雲が立ち込めていたことから、今回このような強引な手段に打って出たのではないかーーという推測が立てられています。

かくして、我が国の隣国における歴史的な大騒動は、僅か150分をもって終息の兆しを見せることとなりましたが……

今の所、尹大統領の『戒厳令解除宣言』は発表されていない状態にあります。国会で通されたのはあくまで『解除の要求』だからでしょう

しかし、今回の一件で、戒厳令と呼ばれる、およそ教科書の中でしか見かけないであろう状況が多くの人に知れ渡ったことは明らかです。
我々にできることは、非常事態に蔓延るフェイクニュースに惑わされないために、まずは前例・過去を知り、そこから何が起こるのかを予測立てておくことです

間違えた未来へと進まないこと、それが歴史を学ぶ理由です。

だからこそ、私は、戒厳令には前例があったーーということを記事として書かせていただきました。
最後に、韓国に住まう人々の無事と、日本に住まう韓国人の方々、その心の平安をお祈りして、この記事を締めさせていただきます。

괜찮아, 미래는 평화롭다

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