大阪の中心で「銀だこは最高のたこ焼き!」と叫ぶ〈カーネル・サンダースの呪い〉
1.カーネル・サンダースとは
本名、ハーランド・ディヴィット・サンダース。
若い頃は数多の職を転々としながら、そのいずれにおいても優秀な成績を残したものの、いずれも長続きしませんでした。
30代後半にはガソリンスタンドを経営したものの、世界恐慌の煽りを受けてしまい閉業。しかし、めげずに二度目のガソリンスタンドの経営を行いました。
二度目のガソリンスタンドには、スタンドの横に小さなレストラン『サンダース・カフェ』を併設。料理が得意なサンダースが自ら厨房に立って振る舞う料理は評判が良く、その中でも、独自のスパイス配合で製作されたフライドチキンが特に人気でした。
このフライドチキンの好評を受け、サンダースは更なる改良・研究を進めていき、最終的にはこのレストラン一本で事業を展開していきますが、店が全焼する悲劇に見舞われます。めげずに彼はレストランを再建するも、今度はレストランの近くに高速道路が開通。人の流れが変わってしまい、レストランに入る人はほとんどいなくなってしまいました。
抱えた負債を返すために、サンダースは店を売却。手元に残ったのはフライドチキンのレシピと圧力鍋、そしていくつかのスパイスのみ。
「ここで挫けるわけにはいかない」
65歳という高齢ながら、サンダースは挫けませんでした。圧力鍋とスパイスをワゴン車に積み込んだ彼は白いスーツに身を包み、各地に自身のフライドチキンを売り込んでいきました。
売り込む相手はレストランであり、後にフランチャイズと呼ばれる経営戦略を編み出し、その戦略が功を奏し、北米に600店舗にも及ぶフランチャイジーを獲得。フランチャイズ展開を見事に成功させたサンダースはその後、一線を退きました。
日本には1970年の大阪万博を機に進出、その際に俗に言う「カーネル人形」もその時に進出。
1980年に90歳で死去するまで激動の生涯を駆け抜けた彼の名前は、「ケンタッキー・コロネル」から名付けられた「カーネル・サンダース」という愛称として世界中に響き渡っております。
2.事の顛末
時は1985年10月16日。日本プロ野球球団、阪神タイガースが初のセ・リーグ優勝を果たしました。これまで阪神は不調続きであり、多くの阪神ファンは試合を見る度に今度こそは、という思いに駆られていました。
初戦の巨人戦での勝利から、広島東洋カープとの競り合いを経て、常に一喜一憂を繰り返してきた日々。当時のエースであるランディ・バース選手、掛布 雅之選手、岡田 彰布選手らの活躍は往来の阪神ファンに大きな歓喜をもたらしました。
「今日は最高の日や!阪神が日本一やでェ!!」
道頓堀川の人々は熱狂の渦に包まれていました。阪神の勝利は関西の人々の熱い血をより一層滾らせ、人々を湧き立たせていました。
「おっ、見てみぃ、外国人のおっちゃんや。」
「よう見てみたらバースはんにそっくりやん!」
「ほな胴上げや!行くでぇ!」
ケンタッキー・フライド・チキン道頓堀店(現在は閉店済み)に置いてあったカーネル・サンダース人形を指差し、ある者がそう叫びました。
ちなみにサンダース人形の身長は173センチ、バース氏の身長は184センチ。身長も外見も全くと言っていいほど似ておらず、共通点があるとしたら外国人という点だけでした。なんで?
「うぇーい!」という掛け声と共に胴上げされるサンダース人形、半ば暴徒と化した彼らを止められる者はおらず、やがて道頓堀川に何かが飛び込む音が聞こえてきました。
彼らの上には既にサンダース人形はいませんでした、何しろ胴上げの勢いで道頓堀川に投げ飛ばしてしまったのですから。そうはならんやろ
これが悪夢の始まりでした。
余談ですが、この時、当時道頓堀の食堂「くいだおれ」のマスコットキャラクターであったくいだおれ太郎も川に投げ飛ばされそうになっていましたが……
「ホンマに堪忍してください!!」
「安心しぃや!ちょっと!ちょっと胴上げするだけやから!」
「ホンマに頼みます!ホンマに!ホンマに!」
店員の方が体を張って食い止めてくれたために未然に防がれました。
3.負の連鎖
翌年の1986年、主力の一人、掛布選手が度重なる負傷に見舞われてしまい、試合に離脱することが目に見えて多くなりました。
それでも、掛布選手の開けてしまった穴を岡田選手がカバーしていた上、二年連続の三冠王としてその名を馳せたバース選手の活躍もあり、衰えは見せないままでした。
問題は翌年の1987年。
この年に掛布選手が飲酒運転により逮捕、彼が復帰した後も、阪神の監督である吉田 義男監督と、竹之内 雅史コーチが対立。原因は打線に関する意見のすれ違いでした。監督は和解を提案するものの上手くいかず、結果コーチは退団することとなりました。
それでも止まるわけにはいかないと言わんばかりに試合に出ますが、掛布選手の調子が戻ることもなく、更には打線の援護が上手くいかず、結果は散々、勝率.331という記録は1978年以来となるリーグの最下位であり、全球団負け越しという屈辱を味わうこととなります。
なお、この責任から吉田氏は監督を辞任しております。
1988年。村山 実氏を新たな監督として迎え入れたものの、バース氏が水頭症を患った長男の看病のために帰国、実質的な阪神からの退団となり、阪神は生まれ変わるために大きな代償を払うこととなりました。
新たに加わった和田 豊選手や大野 久選手、1985年に活躍した選手達も奮闘するものの、それでもその年のシーズンでは最下位を記録してしまいます。
また、今シーズンを最後に掛布選手が引退。結局その調子が元に戻ることはありませんでした。
この低迷ぶりに、まことしやかに囁かれることになったのがーー
『カーネル・サンダースの呪い』です。
1985年のドラフト会議の時点でその兆しは見えており、この時阪神が最初に指名した人物は、いい意味でも悪い意味でも球界にその名前を轟かせた清原 和博氏でした。その後は言わずもがな。阪神は低迷期に突入することになります。
「やっぱカーネルはんを投げ込んだのがあかんかったんや……」
「ホンマに堪忍したってください……」
「カーネルはんを川底から救い出さな、阪神はずっと負け続けや……」
一部の阪神ファンの中からは、そんな思いが、あるいは藁にも縋るように出てきました。
「どないしたらええんやろか……せや!」
『探偵ナイトスクープがあるさかい!そこに頼んだらええやんか!』
関西が生み出した日本で最も有名なテレビ番組の一つ、『探偵ナイトスクープ』。
ハガキで寄せられた視聴者からの依頼をアナログな方法で調査し、時に笑いを、時に涙を、時にトラウマを見る人に与えた当番組。そこに道頓堀川に沈められたサンダース人形を調査する依頼を、ある人物が出しました。
当番組の初代局長・上岡 龍太郎氏は熱心な阪神ファンでもあったため、この話を聞いた時……
「サンダース人形を救出し、祓い清めない限り阪神の優勝は一生望めない」
と発言、以降、サンダース人形の調査は当番組の目玉企画となり、調査する探偵として生瀬 勝久氏(当時の芸名は槍魔栗 三助)が直々に道頓堀川に飛び込むという、あまりにも体当たり過ぎる調査も大きな話題となりました。
なお、当時の道頓堀川は高度経済成長期の負の遺産が降り積もった結果、大腸菌の温床となっており、最早ヘドロそのものが川となっている状態だったと言われています。
お食事中の方、大変申し訳ございませんでした。そしてそのような状態の川に体当たりで調査された生瀬さん、ご苦労様です……。
これ以降、和田 豊選手や新庄 剛志選手が活躍するものの、鳴かず飛ばずどころか立ち上がることすらできない年が続くこととなります。
1991年にはシーズンオフの時期に『たけし軍団』と草野球で敗北。その結果からビートたけし氏から「13位」と批評されたことも追い風となってしまいました。
4.悪夢
時は流れ2002年、この年に新たな監督として星野 仙一氏が就任しました。前監督の野村 克也氏はーー
「負け癖がついたこのチームの体質を変えられる人がいるとすれば、星野さんをおいて他にはいない」
と語っていました。華々しい勝利から17年。当時の選手は全員一線を退いたものの、二軍のコーチには岡田 彰布氏が抜擢され、新たな主力と陣形で勝負に臨むこととなりました。
赤星 憲広選手、金本 知憲選手、ジェフ・ウィリアムス選手の活躍、成長もあり、2003年ーー
苦節18年、阪神のファンは再びセ・リーグ優勝という、栄光の瞬間を目の当たりにしました。
「ようやっと、優勝や」
「18年ぶりか……信じひんわけやなかったけど……まさか生きとる内に見られるなんて思わへんかった……!」
長い暗闇を抜け、ようやく阪神タイガースはあるべき姿を取り戻しました。
そして、安堵に胸を撫で下ろした多くの人が次の目標に目を輝かせました。
『次は日本一をーー』
セ・リーグを優勝したならば、次の目標は日本シリーズ(プロ野球日本選手権シリーズ)
日本シリーズは、その名にある通り日本で最強の野球チームを決める試合であり、セ・リーグを優勝したチームとパ・リーグを優勝したチームによる決戦です。
2003年における日本シリーズ、迎えるは王 貞治監督率いる福岡ダイエーホークス。球界に燦然と輝くジャイアンツの背番号『1』が率いる、15度に及ぶリーグ優勝を記録した強敵。
7度にも及ぶ激闘、最初に日本最強に王手をかけたのは阪神でしたが……あと一歩の所で敗北。惜しくも阪神は日本一の座を逃すこととなってしまいました。
なお、この年に星野氏は健康上の理由から勇退、後任には岡田 彰布氏が着任されることになりました。
そうして更なる活躍を重ねていき、2005年、再び阪神はセ・リーグを優勝し、日本シリーズへの切符を手にしました。
今回の相手は千葉ロッテマリーンズ。今年こそはこの日本中に『六甲おろし』を響かせようと、全国の阪神ファンが固唾を呑んで見守っていました。
しかしーー
このザマでした。どうしてこうなった。
日本一はおろか、最早格の違いすら見えてくるような錯覚を感じさせる惨憺たる結果でした。
オマケに、第1戦ではスタジアムが白い霧に覆われた結果コールド負けしてしまうという、極めて珍しい事態が発生しておりました。
これだけで終わっていたら良かったのですがーー
2010年、日本シリーズで中日ドラゴンズと千葉ロッテマリーンズの試合が決定した際のこと。
NHKが日本シリーズを中継放送した際、攻守交代などのインターバルの間に、それぞれのチームが直近の日本シリーズで出場した際の映像を流すのですが……
千葉ロッテマリーンズの直近の日本シリーズが件の試合であり、嫌がらせの如く2005年の試合をVTRとして何度も流しました。
これが当時のネット掲示板で大きく話題となり、執拗な阪神タイガースいじりが発生してしまいました。このいじりに耐えかねた一人のユーザーが発した言葉が……
「なんでや!阪神関係ないやろ!」
至極全うである。
以後、インターネットに造詣が深い人には「33-4」の数字列が見える度に、上記の言葉を発することがお約束になりました。いわゆるネットスラングです。
さはさりとて、33-4が生み出される前年に、実は阪神の本拠地、大阪ではとんでもない事件が起きていました。
5.24年
2009年3月10日、大阪市建設局が水質調査のために道頓堀川の川底を調査した時のことでした。
「大変です!人の体が沈んでいます!」
「ま、まさか死体……!?」
調査チームは固唾を呑みました。ここにきてとんでもない事件に巻き込まれたのではないかと思ったからです。
その予感は、ある意味的中することになりました。
「あれ?これ……?人じゃない?」
「そうだな……これは……?ん!?ちょっと待て!?ちょい待ちぃや!!」
「カーネル……カーネルはんやないか……!?マジやったんか、あの噂は……」
引き上げられた当初はヘドロ塗れだったサンダース人形、都市伝説と化していた彼の存在はこうして世間に明るみになりました。
実に24年、非常に長い時間を、ヘドロの川底で彼は過ごしていました。体はバラバラになっており、上半身、下半身、右手と順調に見つかり、修復されていきました。
修復されたサンダース人形はその後、日本KFCホールディングス本社や関西支社、奈良大学博物館に展示されるなど、各地を転々としました。
しかし、老朽化によるひび割れが酷く、2013年には一般公開は終了する運びとなりました。
カーネル・サンダースの帰還は、まさに転機でした。
2008年に阪神から身を退いていた岡田 彰布氏が、オリックス監督を退任してから数年後にあたる2022年に再び監督の席に着きました。
「今年こそは絶対に『アレ』を」
岡田監督はそう宣言していました。オリックスの監督を務めていた頃から、運が逃げないようにという思いを込めて、優勝することを『アレ』と呼んでおり、今回の岡田氏の宣言から阪神ファンも『アレ』を切に願うようになりました。ヴォルデモートかな?
2023年9月14日ーーその瞬間は、訪れました。
奇しくも、2005年から18年にも及ぶ苦節。奇しくも2003年のアレと同じブランク。そして岡田監督が就任してから334日という、最早運命に定められたとしか思えない偶然の数々。
遂にアレを果たした阪神タイガースの姿に、多くのファンが盛り上がりました。
そしてーー
2023年11月5日、1985年以来38年ぶりとなる阪神タイガース、日本シリーズでの勝利。
このニュースは瞬く間に全国に広がっていき、誰の目から見ても呪縛から解き放たれたことは確実でした。
その様子を見届けたサンダース人形は、2024年3月8日に住吉大社で人形供養が行われました。老朽化が激しく、保存管理が困難になったためです。
いつしかサンダース人形は、呪いの象徴から、幸福の象徴として愛される存在となっており、彼には感謝と祝福の声が手向けられました。
6.余談
散々ネットにおいてネタとして扱われている33-4ですが、最近ではステラヴェローチェという競走馬がそのネタの例として挙げられています。
ステラヴェローチェ号は、栗東市は須貝尚介調教師の厩舎で管理されている競走馬であり、同調教師はソダシ号を代表とする名馬を数多く管理しており、ステラヴェローチェもその一頭でした。
クラシック三冠と呼ばれるレースにおいてーー
と、キレイに『334』の数字が並びました。オマケに日本ダービーでは、上がり三ハロンの秒数が33.4秒を記録しており、更に菊花賞では京都競馬場が改修工事のため、代替として阪神競馬場で走ることになるなど、何かとネタに事欠きませんでした。
ちなみにステラヴェローチェはしばらくの間不調に苦しみ、一時期行方不明になるなど星が見えない日々に苦しんでいましたが……
2024年に入り、大阪城ステークスで見事勝利、彼を応援していたファンは歓喜に包まれました。
なお、開催日は3月3日、馬番は4番で、なおかつ阪神競馬場と、またもや収束していました。何でや。
同年、8月13日、KFCは、アプリゲーム・アニメなどの複数メディアにコンテンツを展開している「ウマ娘プリティーダービー」とのコラボレーションを実施。
競走馬の魂と名前をその身に宿す不思議な種族、ウマ娘。そんな彼女達を主軸とした物語を描いている「ウマ娘プリティーダービー」です。
このコラボレーションで広告担当として特にその存在感を発揮しているのはゴールドシップ。
元々ウマ娘の宣伝担当として彼女は活動していましたが、彼女のモチーフ元であるゴールドシップ号は、ステラヴェローチェと同じ厩舎の先輩にあたります。何の因果?
もしかしたら、ステラヴェローチェの活躍は、いずれKFCとウマ娘がコレボレーションすることを暗示していたのかもしれませんね。
7.最後に
勝負の世界というものは非常に厳しいものです。勝者の活躍の裏には必ず敗者の姿があります。
阪神が日本一の称号を得るまでの期間は、人一人が生まれてから成熟するまでの十分な時間と同じ長さです。
特に岡田氏は実際に選手としてマウンドに立った経験も、監督として選手を見守る経験もしています。
無数の敗北の痛みは、途轍もない一つの勝利で癒えることを彼らは教えてくれました。
阪神タイガースの更なる活躍をお祈りし、今回の記事は示させていただきます。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。