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忘れられない日・忘れてはならない日

2024.12.22 今日は忘れもしない12月22日。
そう。あの糸魚川大火が発生した日である。

遡る事8年前、見出しの写真は朝6時過ぎに今井橋周辺から駒ヶ岳と雨飾山を撮影したもので、ご覧の通りに焼けた紅い空の色に加え、時折吹き飛ばされそうになる程の南風が吹きつけ、また早朝にも関わらず気温は15度超えと、過去に経験が無いほどに心地悪い朝だった事を今でも鮮明に記憶しています。

我が子たちの通学団が7時過ぎに家の前に来る事もあり、会社に戻って子どもたちを送り出し、朝は7時半過ぎからいつものように営業を開始。
丁度一服でもしようかとコーヒーを飲み始めた10時半頃、火災発生を伝える第一報・第一出動要請が行政広報無線から流れたのが事の始まりでした。

ほか地域の行政無線を聞いた事が無いので分かりませんが、当市で消防が伝える第一報は「第一出動」で、先ず火災発生を広域的に知らせる目的と、周辺地区の消防団や消防が駆けつける事を意味する放送であり、次いで第二報目が更に広い形での応援要請を含めたもので「第二出動」、そして「第三出動」ともなれば、市内エリアを超えた形での応援要請が出されたことを意味します。

火災が発生したあたりからコンスタントに風速が15mを超える強風となり、消防署から程近く高速インターの直ぐ脇にある、私の商いを営む場所からも、まるで蜂の巣をつついたかのように慌ただしく消防車が市街地に向かって走り抜けていくサイレンの音が響き渡り続けました。

ゴーゴーと音を立てて勢いを増す風、バタバタと風に煽られ暴れるトタン。
流石にこの状況で火災は消えないのでは?と思っていると、間髪を入れずに「第三次出動」要請の放送と当該エリアからの避難指示要のメールが。
高速道路から県をまたいだ富山市や上越市、長野市からの消防隊が次々に降りてくるようになり、テレビをつけると臨時ニュースで燃え盛る街の様子が鮮明に映し出されていました。そこから結局火災鎮圧となったのは同日の20:50、更に完全鎮火となったのが翌日の16:30と、まさに30時間もの時間を掛けて目抜き通りを燃やし尽くす大惨事に。

当該地域にはお世話になった先輩のご自宅や知人の会社、息子の恩師のご実家であるお蕎麦屋さん、私の従兄弟が営む老舗料亭が立ち並んでいた事もある事から、居てもたってもいられず立ち入り規制の解除と共に状況の確認に出向きました。

特に延焼が著しかった本町通り(東側から西側方向)
従兄弟が営む料亭裏には修理させて頂いた事のある送迎用の自動車が
老舗料亭の板場前で。子どもの頃の思い出が沢山ある場所です
火元となったお店側から(南側から北側)
変わり果てた街の姿には涙しか出ません。

見る場所・足を運ぶ場所の全てが子どもの頃から慣れ親しんだ思い入れのある場所ばかりですが、一夜にして変わり果ててしまった街の姿と現実が
焼け焦げた匂いと共に自分の前に広がっていました。
不謹慎とも思いましたが、カメラマンでもある僕にとって「目の前の事実を撮って残す」事への意義をとても強く感じた為、1枚1枚シャッターを丁寧に
その紛れもない現実を切り撮りました。
「幸い」などと言う言葉で言って良いのかは未だ迷う所ですが、しかしこれだけの規模の大火だったにも関わらず、犠牲者が一人として出なかった事は地域コミュニティの初動の良さと、田舎らではの「向こう三件両隣り」の精神が生かされた結果であり、まさに奇跡としか言いようがありません。

ただ、後に自分には何ひとつできなかった事が撮った写真を見れば見る程
ショックで自己嫌悪に陥り、そこから数日間は塞ぎこんでしまい眠れぬままの日々を過ごす事となりました。


居ても立っても居られず、ボランティアに参加

そんな中、火災発生から8日後の12月30日、社会福祉協議会と地元青年会議所合同の災害ボランティアが立ち上がり
「思い出の品探し」という焼け跡の中から様々な物を掘り出す作業ボランティアが行われる事となり、そちらに参加させて頂きました。

派遣先は本町通り沿いの一般住宅でした

まだ焼け焦げた匂いが充満する中、一つでも多くの品を掘り出す為に、そしてそれら大切な品を傷つけたり壊してしまわぬよう、必死丁寧にスコップで土をかき分け篩(ふるい)にかけます。

現地で貸し出される道具、手順を聞いて黙々と作業しました。
丁度お仏壇のあった場所なのでしょう。仏具を沢山出土
兎に角丁寧にを心がけながら、沢山の品を掘り出しました。

参加された人たちは私と同じように皆無口で、ただ淡々黙々と掘っては探しを繰り返していました。きっと誰もが、あの大火を前に何も出来なかった自分の非力さを悔いて、それらを噛み締めながら。そして一つでも多く、その場にある思い出を依頼主さんへと取り返すべく作業にあたっていたんじゃないかと思います。少なからず自分はそうでしたし、そこに笑顔も会話は必要ありませんでした。
そこから数日間、ボランティアに参加させて頂く事で、少し気持ちも落ち着きはじめ、現実を受け入れらるようになった気がしました。
探した思い出の品の中には家族を写したアルバムの燃え残りや宝飾品、小銭や子供の玩具等、長きに渡る営みがあった証が沢山あり、火災というものの恐ろしさを改めて感じる事となったのは言うまでもありません。


長文になってしまいましたので、続きはまた思い出しながらいつか記事にしようと思います。
書きかけの記事で大変恐縮ですが、これが私にとっての忘れられない日であり、決して忘れてはならない日の出来事です。


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