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天使の消失~cosMo@暴走Pのオタクがプロセカ映画を観た感想考察~
はじめに
こんにちは。プロセカファンのcosMo信者です。
公開初週で観に行って速攻で感想を書くつもりが諸事情でこんなに遅くなってしまいました。
既にネタバレ禁止も解除されてタイミングを逸した感はありますが、かなりしっかり書きましたので出させていただきます。
具体的には
「初音ミクは天使だった」
「その他諸々の感想」
「楽曲『初音ミクの消失』シリーズとの浅からぬ関わりと相違点」
の3章仕立て、12000字です。
どうしてこうなった。
というのも、元々書く予定はありませんでした。
プロセカのイベストをほとんど追えておらず、普段はほぼ音ゲーとしてのみ楽しんでいるため(現在シークレット・ディスタンスまで読了)、こんなミーハーが映画を見に行っても十全に楽しめるのか? と迷いすらありました。
ただ後述しますが、かなり消失シリーズを意識していると思われる描写がキービジュアルの時点から既にあったこと、非プロセカプレイヤーのVOCALOID界隈からも好評の声が漏れ聞こえていたので、これで行かない選択肢はないかと久々に映画館へ足を運びました。
結果としては「これの感想を記事にせずに何を書くんだ」レベルでした。
自主的に同じ映画に二回目行ったの初めてだと思います。
なお、以後本稿では「プロセカオリジナルキャラクター達」を指して「一歌達」、「窓のセカイの初音ミク」を指して「バツミク」とします。
1.初音ミクマジ天使の映画として
「この映画は極めて宗教色の強い映画ではないか」
これが私の第一印象です。
ミクさんマジ天使、という古いオタクの(今でも?)言い回しがありますが、それを地で行っていた、と感じました。
バツミクに焦点を当てて、その理由を語ります。
バツミクはある種の人間にとっては目に見えず、実体は元からない、という意味で幽霊のようなものと言えます。
作中では「初音ミク」が確実に見えたという者、「初音ミクっぽいもの」が見えたという者、「ただのノイズ」だと思う者、と様々に分かれています。このあたりも霊感の有無で見え方が変わる霊の類のようです。ただし幽霊と違って少なくない人間が不完全ながら「視える」側の立場でしたが。
そしてその一種の霊感があるか否かは、作中描写から恐らくは「想い」を健全に持ち続けているか、諦めていないか、というあたりがラインではないかと思われました。
ではなぜそれがバツミクを視ることに繋がるのか? と言えば、「本当の想い」がバツミクのセカイの窓とを繋ぐ鍵だからであり、また後述しますが窓のセカイは元々全人類の共通意識に繋がるセカイであるから、だと推測します。
つまり、バツミク、ないし窓のセカイとの同調ができるかどうかが彼女を正しく視認する鍵なのです。
逆に本当の想いを捨てかけている、同調に程遠い者達にとって、バツミクの姿も声も小うるさいノイズ・モザイクにしか見えません。バツミクからもその人たちの姿はノイズがかかって見えています。お互いにチューニングがあっていないのです。
文字通り「聞く耳を持たない者」を説得するのは不可能、という話です。
皮肉なのは、バツミクが歌を届けたいのはその「聞く耳を持たない者」のみである、ということです。聴く耳を持つ、本当の想いを捨てていない者にはバツミクではなく、その者に対応した初音ミクが現れると思われるからです。
論理的に考えて、彼女自身は誰からも必要とされない存在となってしまいます。
「届けたい人に歌を届けられない」、というのがバツミクの問題でしたが、これは彼女が生まれながらにしてそのように義務付けられていた、と言えるのです。
そんな彼女が一歌達の助けを得て行ったことは、言わば「電波の強度を上げる」ことであったと言えます。もっと感情を込めて、もっと願いを込めて。
しかし周波数の合わない電波がいくら強くなったところで、ノイズは多少改善されていたものの、やはり五月蠅いという結論に変わりはありませんでした。
「沈黙は金」、それはバーチャル・シンガーにとって最大の罵倒であり絶望でしょう。これが「歌えないミク」の根本問題です。
さて、各セカイおよび現実世界から「初音ミクの消失」が起こりましたが、バツミク自体は消失しませんでした。ただ動くことすら許されない状態になっただけです。
このことから考えるに、バツミクこそがプロセカワールドにおける原点の初音ミクであり、唯一無二のものなのではないでしょうか。
オリジナル自体は歌を歌うのが困難な運命にあり、本当に確実に人を救えるのはその分体、というわけです。
※じゃあゲーム内や舞台挨拶に出てくる、特定ユニットに属していないいわゆる真ミクはなんなんだという話になりますが、あれはプロセカという物語の更に上位にある存在でしょう。映画だけでなく、プロセカという一つの物語におけるオリジンミクがバツミクであり、それをも超越したということになっている初音ミクが真ミクだと考えます。
ただしこれは「プロセカ内ではそういうことになっている」だけであって、メタ的にはもちろんあれもプロセカのミクさんです。お前は何を言っているんだ。
バツミクってつまり、「諦めたくない想い」のセカイのミクなのに、自分が諦めてしまいかけたから、セカイまるごと崩壊しかけたんだよな、、、
— ササミ (@sasami_33M) February 9, 2025
相互フォロワーの感想ですが、こちらもなるほどと思われたため引用させていただきます。
本当の想いから遠ざかる度にセカイは荒廃していきましたが、崩壊の決定打を招いたのはこの自己否定である、と私は解釈します。
ところで、なぜメタ的に、つまり映画の脚本として、「初音ミクの消失に伴う停電」を起こす必要があったのでしょうか。
「現実世界にも影響を及ぼした」という分かりやすい描写ではありますが、あくまで一時的なものであり、この描写がなくとも一歌達は事の重大さをよく認識しているはずです。
なぜ、SNSトレンドに「初音ミクの消失」が乗ったシーンからでは不十分だと判断されたのでしょうか?
実のところ、映画の序盤にも一瞬だけ電灯が点滅するシーンがあります。一歌が「glow」を弾き語りする直前、夢を殆ど諦めている男性が電話をしているシーンです。
この描写と後の大規模停電を合わせて考えると、停電とは「希望の光が消えた」比喩、かつ/または悪想念自体の余波である、と解釈ができるでしょう。
またセカイの崩壊、「初音ミクの消失」に伴い日本中で停電が起こった時、無事であったと明言されたのが天馬家とビビッドストリートでした。
二つの共通点は、「音楽の実演に関わりが深い」というところでしょう。
(青柳家が気になるところですが言及がありませんでした)
これは初音ミクの消失の余波=悪影響から身を守る一種の結界のような役割を果たした、とも解釈できます。
プロセカ世界においては、良くも悪くも、音楽の力が私達の世界より遥かに強いのでしょう。
とか書いてたら公式から「答え」が出てました。
セカイ崩壊後の停電が全てではなく、停電してない場所もあった理由、3週目特典の台本に答えが載ってました
— 凪雨 (@Nagi_wandahoi) February 8, 2025
天馬家は人が多い都心から離れていたからで、謙さんの店は夢を諦めた人達が来る場所ではなかったから免れたと思う。夢を諦めた人はビビットストリートから出ていきそうだし
#劇場版プロセカ pic.twitter.com/2moUeg89WD
つまり「特別な人がいるから」ではなく「いないから」停電していたというのが公式回答のようです。
停電していた場所の方が多いのは、諦めた人が多いというわけではなく(そうであるなら一歌達のうち大半の家が停電したことに説明が付かないため)、その持ち主一人が持つ影響範囲がかなり広いということになるでしょう。
まあ結界説が完全に否定されるわけではないから…(強情)
さて、その後一歌達はバツミク、ひいてはすべての初音ミクを救うために奮闘します。
歌えないミクをもう一度歌えるようにする方法。バツミクがどう頑張っても失敗に終わった、そんな奇跡のような方法が存在するのか。
その答えが、人間の介在です。それも、バツミクの想いに同調し、十全にそれを汲み、再構成し、さらに発信できるという稀有な人間でなければいけません。
いわば一歌達は初音ミクの代行者であり宣教師なのです。
電子の妖精はデジタルな世界の住人で、画面が壊されれば打つ手がありません。
しかし一歌達は地上にいながら天使と交信でき、それを広めることができる、生きた人間です。周波数が合わないラジオを捨てた人間に対し、マイクと動画で持って強引に主張を聴かせるのです。
これもメタ的に見れば、「そもそも人間がいなければVOCALOIDは歌えない」ので至極妥当な帰結でもあります。
そして一歌達はただバツミクの歌を右から左に流したわけではありません。
バツミクの歌は不完全なものであり、「正解」は一歌達の中の誰も分からないまま、それでも5つのユニットはそれぞれの解釈でもって歌を再構成しました。
そうして各々の、言うなれば「福音書」が完成したのです。
それらはともすればオリジナルの純粋さを失い、各人の色に染まったものかもしれません。印象的な一番手であるビビバスの「ファイアダンス」と、オリジナルの「ハロー、セカイ」はかけ離れています。
ちょうど、消失した各セカイの初音ミクと同じように。
しかしそれゆえに再構成された歌は個性、そしてより各々の悩みへ直撃させうる対機性を得て、現実へと拡散したのです。
決行日は「今度の日曜日」等でも良かったはずのところにわざわざ「祝日」を指定しているのも、なんとなく神聖さを感じなくもないでしょうか。
まあ舞台は日本の夏なので実際は海の日・山の日という味気ない祝日だと思われますが、劇中引用があった(後述)「真夏の夜の夢」は聖ヨハネ祭(=ワルプルギスの夜)またはメーデーの前夜の話らしいので、あながち無関係というわけではないかと思います。たぶん。
一歌達の歌5つだけで、壊れた窓のセカイに通じる諦めた人達が全員救われたかといえば、当然そうではないでしょう。
正しく聞き届けられさえすれば救える、というのはいささかご都合主義的です。全員が歌を聴いたはずもないし、聴いたところで何も響かないかもしれない。響いたとして、それは深海に一筋の光が一瞬だけ差して、またすぐに戻るようなものに等しいかもしれない。
現にモアジャンのライブを聴いていた男性は「『少し』楽になった」というような言い回しをしていました。
しかし、バツミクにかかる重圧が少しでも軽くなったこと、更に言うならバツミクの歌が受け入れられる素地ができたことで充分一歌達は役目を果たしたのです。真打ちの前には前座が必要なのです。
「諦めない」「まだ大丈夫」そんな想いが強まったこと、言ってしまえば信仰の柱が立ったところで遂に最後にはオリジナルの初音ミク、そして原典の歌が復活するのです。
そして救いの天使は世界を巡り、セカイを輝かせるのです。
という感じですがいかがでしたでしょうか。
箇条書きマジックではと言われれば特に反論もないのですが、真っ先に感じたことなので敢えて一番に置かせていただきました。
2.その他の感想
もうちょっと普通の感想も書かせていただきます。
・いや動くプロセカキャラ良~~~~(唐突に下がるIQ)
特に一番手だった咲希ちゃんと動きがダイナミックでわんだほいなえむちゃん、あとパール伯爵も。
私はイベスト以外においても全コンテンツを追っているわけではないですし、もちろんMVやプチセカなど2Dで動く機会はあるものの、やはり映画のクオリティで見せられると感動が大きいなって。
ライブシーンを2Dで見られたのも大きいです。3Dにはない良さがある。
ニーゴのMVも映像化されたよ! 喜べえななん! でもこの絵単体で宣伝なしでバズろうとするのはやっぱ無理があるよえななん!
・フェニラン早口オタクこはねたすかる
全員の日常風景を最低限でも映してくれたのありがたいなあ。上記の劇場クオリティで動くという面もそうですが、プロセカを知らないVOCALOIDのファンが見てもある程度キャラクターが分かるようにしてくれている点も良いと思います。
特に司。ワンダショの稽古シーンがしっかりしてたのと、声がでかい・正義感が強い・ピアノができる・声がでかいなど初見の人にもたくさん魅力が伝わりそうでよいと思いました。
あと先述しましたが一歌のglowソロも超絶良かった。
書き遅れましたが私自身は今のところ奏推しです。というか奏ガチャにしか石を使っていません。
映画においてニーゴの面々の暗黒面に関してはまふゆ以外は描写がなかったかなという感じですが、まあそれは他のユニットもですし、初見に配慮して今更やるにも尺がとても足りないでしょう。
1年目の設定だったのも個人的にありがたかったです。ただ映画だけ見た人はネネロボのこと何…? って思ってない? ただの自立駆動するAIつきショーロボットだが…
・ちょこんと正座するバツミクさんかわいいね
公式監修で映像化される初音ミクって割と「強い」初音ミクが多いイメージがあります。電子の世界からやってきたアイドルとしての初音ミクです。
明確に「人間に助けられる」初音ミクが公式関連で映像化されるの、結構レアなんじゃないかと思ったんですがどうなんですかね有識者。
プロセカ映画のネタバレ全開感想記事を書きました!
— 御丹宮くるみ@バーチャルボカロリスナー🍖🎶 (@oniku_kurumi) February 9, 2025
メインテーマは下記の3点です。
■「一歌みたいな人」とはどのような人なのか
■バツミクが言うところの「歌」とは何なのか
■なぜ一歌たちの歌は届いて、バツミクの歌は届かなかったのか
1万字くらいです。読んでね!https://t.co/4J1OuJUZbn
こちらを拝読した限りはそんなに外れてもいないっぽい。
・高校の英語の授業でシェイクスピアをやるな
英語にそこそこ自身ネキだったのですが初見で読み解けず、あとで覚えてる単語でググってみたらなんとシェイクスピア「真夏の夜の夢」でした。
お嬢様学校にしてもレベル高すぎる。
Wikipedia/夏の夜の夢
でも、一部始終を聴いた
ゆうべの話。
みんなの頭がそろっておかしく
なったことは想像力の産物以上の
何かが働いたしるしですし、
何かしら変わることのない、
偉大なものにつながっているんだわ。
それにしても、驚嘆すべき不思議な出来事。
読んだことがないためもっと詳しい解説は専門家にお願いしたいのですが、引用意図としてはセカイの話の比喩でしょう。
映画内季節も夏なので表題とは一致します(「真夏の夜の夢」の作品内季節は春らしいですが…)
「変わることのない偉大なもの(great constancy)」は「初音ミク」のことか、それとも「窓のセカイ」の方でしょうか。色々考えがいのある引用です。
・お客様の中にVOCALOID初見の方はいらっしゃいますか
VOCALOID自体のことを何も知らない方がこの映画を見たら、ミクさんたちの喋りなどについてどう思うのだろうとは気になりました。プロセカ内と同じ調声の仕方だと思われますが、人間がそういう喋り方をしてると勘違いするのか、意外とうまく喋らせられるのだなと思うのか、それとも嫌悪感を抱くのか。
いやこの映画観にきておいてそんな奴流石におらんやろと言いたいところですが、映画なら取り敢えず観るという方ならワンチャンあるかもしれません。是非感想をお聞きしたいところです。
・ワンダショとニーゴのバーチャル・シンガー達
さすがの身体能力を誇るダショのバチャシンと微動だにしないニーゴバチャシンの対比。
草生える。脚本演出がうまい。
・これは一本の映画であるという認知
深く考えても仕方のないことかもしれませんが、真ミクだけではなく一歌達もこれが映画であることを上映開始前後の案内で認知しててちょっと面白かったです。
ただ、彼ら彼女らは自分達が一つの物語の一員だとしても、最終的にはそれほど動揺しない気はします。
ニーゴを除いて。下手すると命が危ないような気が。
・冒頭と最後の野良猫の話
先の御丹宮くるみ氏の引用記事にもあった話です。
咲希は当初「これから毎日にぼしを持ち歩く」と宣言していました。しかし映画本編の最後、いくつかの季節が過ぎて野良猫に邂逅した際、「しばらく来なかったからもう持ってないよ」と狼狽えます。その時志歩が助け舟を出し、無事に餌をあげることに成功します。
これは「しばらくは追いかけていた夢を諦めた者」「それを助ける第三者」という映画の内容まるごとの比喩になっていると私は解釈しました。
上手い脚本だなと思いました。
・ミクさんの格を落とさないつくり
「聴いてもらえているのに救えない」ではなく、「ノイズで見えない・聴こえない」としたのは、バツミクに人間に頼らせつつも初音ミク自体の株を落とさないことにも寄与していると思います。
脚本が上手い(n度目)
・窓のセカイと壊れかけたセカイは同一なのか
厳密には同一ではない、と思っています。
というのも終盤で一歌達が輝きを取り戻したセカイに来た際、誰か(こはねだったか?)が「小さい」と言っています。
実は壊れかけたセカイは修復されたのではなく、新たなセカイが出来上がったのではないでしょうか。
そして壊れかけたセカイは今も在り続けているのではないでしょうか。だってまだ救われていない人が、これまでもこれからも大勢いるのだから。
そうなると畢竟、「歌えないミクと歌えるようになったミクは本当に同一人物なのか?」という問いにぶち当たってしまうのですが。
どちらが一体オリジナルなのか? という話は少し後述します。
・「一緒に歌おう」のアプローチ
そもそもプロジェクトセカイのテーマが「一緒に歌おう」であり、だからこそ従来のクリプトンボカロだけでなく、一歌達オリキャラが存在して歌うわけですが、初音ミクの想いをミク不在のまま代わりに歌う、という試みは新しいアプローチなのではないかと思います。代わりに歌う……?うっ(暴走Pオタが心停止する音)
初見の時、バツミクが窓のセカイから全員を追い出した後、ビビバスが相談するシーンあたりで
「これもしかしてバツミクの歌ってたフレーズのアレンジが各ユニで聴ける……ってコト!?」「……じゃあこの入場特典CDってそういうコト!?」
と予感してたら見事的中してめちゃくちゃ興奮しました。そういうの大好き。
ちなみにcosMoもこういうのめちゃくちゃあるので全人類聴いて。ただその、映画内のオリジナル楽曲の一部を取り込んだアレンジが実際に配布されるってこの感じ、リングウイルスみたいだなって…(なんてこというの)
3.暴走Pのオタクとして
本題に入ります。
この映画のSpecial Thanksの一人にcosMo@暴走Pの名が挙がっています。
このSpecial Thanksは作中で楽曲の動画やジャケットなどが映り込む、などの場合が大半だったと思われますが、暴走Pの場合、
・SNSのトレンドに「初音ミクの消失」が入り、一歌がそれに反応して初音ミク楽曲を開く
・「ありがとう……そして……さよなら」というセリフが二回も使われている
とかなり意識的に引用がなされています。プロセカでしかボカロ曲を聴かないという方であっても割と容易に分かる引用部分でしょう。え? ノーツ追うのに必死すぎて台詞まで聴こえない?
そもそも、「初音ミクの死」というテーマを主体として最初にニコニコ動画で曲を書いたのが暴走Pです。
今でこそありふれたテーマであるとはいえ、現在も本人が活動中でプロセカへの書き下ろしもある以上、ある程度のリスペクトを示したかった、という面もあるのではないかと思います。
そして、リスペクト面は上記に挙げた2点だけではなく、バツミクの外見にも反映されていると思われます。
「×モチーフだらけの黒基調、サブカラーが通常ミクの緑、差し色が赤の服」は消失シリーズの楽曲でもある『終点(2020年版)』や『リアル初音ミクの消失』などで使用されているものです。
この2曲はプロセカ書き下ろし曲『マシンガンポエムドール』とも深い繋がりがある楽曲であり、映画のキービジュアルが出た際に「暴走Pが関わっているのか?」と一部cosMoファンクラスタでは話題になっておりました。
パンフレットによれば映画の方向性が定まったのが2021年12月、マシンガンポエムドール発表は2021年10月なのでとりあえず時系列は矛盾しません。
こちらも色調的に自然でありふれたモチーフのため完全な断定はできませんが、『初音ミクの消失』を強く引用している以上、可能性は決して低いものではないでしょう。
余談ですが、窓のセカイで水中に浮かぶ0と1の鎖、あれも「終焉」や「∞」で言及される「青の世界」じゃないかなって。考えすぎか…?
では、『初音ミクの消失』の歌詞の内容と映画の内容について、共通点と相違点を考えていきます。
なお、言及のない限りロングバージョンの歌詞を参照します。
まずは共通点。
・最初は歌を覚えていた
だが歌える音が減り、皆に存在を認知されなくなった時に消失する
バツミクの歌は「Untitled」のようにこれから完成させる歌ではなく、元からあったはずの曲を忘れてしまって歌えなくなった、というものでした。
その理由は明示されていませんが、元々抱いていた本当の想い(=夢)を忘れかけた者達のセカイだから、というのが妥当な解釈になると考えます。
そしてこの解釈が正しいならば、開いた窓のセカイとは「壊れかけたセカイが生まれ変わった」のではなく、「元々あった完全なセカイが壊れかけていた」ということになります。
つまりバツミクのセカイとは、最初から「想いを諦めかけた人達のセカイ」だったのではなく、「想いを持った人達の共通セカイ」と考えられます。
前項で「歌えないミクと歌えるミク、どちらがオリジナルなのか」と記しましたが、こうなるとやはり「歌えるミク」がオリジナルだということになります。良かった。
そして推測に推測を重ねますが、一歌達が持つようなセカイが分化する前のオリジンのセカイ、世界中の人の想いで出来ているセカイがあの窓のセカイということになるのではないでしょうか。
「諦めたくない想い」というのは全人類が多かれ少なかれ、今現在がどうであれ、誰もが必ず持つものであり、故に共通意識のセカイと言えるのです。
だからこそ、先述の通り、バツミクがプロセカワールドにおけるオリジナルの初音ミクなのです。たぶん。
なお「消失」の初音ミクが日ごとに歌えなくなった原因は、リメイク版のMVを根拠にすれば「パソコン環境が初音ミクに対応しなくなったから」です。
一見すると滑稽な理由ですが、要は「クリプトン/ヤマハが初音ミクの更新対応をやめた」ということであり、非常に由々しき問題です。後で詳しく述べますが、マスターはまだ捨てたくないのに、大衆と生みの親は初音ミクを見捨ててしまった世界線です。
バツミクのことを大切にする何人かの希望とは裏腹に、人々の想いという環境がバツミクに対応しなくなってしまった、とまとめることができるでしょう。
・人間に倣った
究極的にはVOCALOID全てに言えることなのかもしれませんが、「既存曲をなぞる」消失ミクと、一歌達に歌の教示を要請するバツミクとは重なる部分があります。
・帰る場所は廃墟、ゴミ箱
・歌さえも身体を蝕む行為になる。奇跡を願うたび更に追いつめられる
・「守ったものは明るい未来幻想を見せながら消えてゆくヒカリ」
この辺は説明不要でしょう。バツミクは結果的に歌うことで人間達を苛立たせ、セカイは更に自壊して追い詰められていきました。
最後については原詞がやや曖昧な表現ですが、僅かな想いの欠片、扉の鍵を諦めたくないと奮闘するバツミクとは合う歌詞です。
・存在意義を果たすということを止められない
各セカイのバーチャル・シンガー達もそうですが、必ず人間達の力になろうとしてくれます。それはバツミクも変わりません。
「存在意義という虚像 振って払う事も出来ず」
プロセカ内でのそれは虚像なのかはさておき、バツミクに「諦める」という選択肢はあれど、「無視をする」という選択肢はありませんでした。
・最後は0と1に還元される(可能性がある)
壊れかけたセカイに降ってきた瓦礫のようなものは0と1の形をしており、更に「緑に赤の差し色」という非常に見覚えのある配色をしていました。
恐ろしい話ですが、あれは既にバツミクの分体として各セカイに居た初音ミクが、想いが壊れることで成り果ててしまった死骸なのではないでしょうか。
「消失」の比喩的表現を具体化してくれたということであり、種々の共通点も併せて考えるにこの映画は劇場版「初音ミクの消失」でもあったわけですね(そうかな…?)
一方で相違点も少なくありません。
ここまでバツミク中心に見ていましたが、今度は「消失」側からの視点を中心に考えていきます。
・持ち主の人間と信頼関係があったか
先述した通り、実は「消失」のマスターが初音ミクをゴミ箱に進んで送っているという描写はありません。消失ミクは最後の力を振り絞って「あなた」に歌を届けようとしており、それは十中八九マスターのことです。
マスター自身の描写は「消失」そのものにはないものの、「暴走の果てに見える」という歌詞から「初音ミクの暴走」を経由していると考えるならば、その信頼関係は(たとえひねくれていようと)間違いなく本物だと見て取れます。
また「消失」にはshortバージョンがあり、歌詞の最後がよく知られているLONGバージョンと異なります。最後に歌詞の視点がミクからマスターに変わり、「歌い切った少女のこと僕は決して忘れないよ」と締めくくられるのです。
このことからも、少なくとも初期構想において、ミクとマスターの信頼関係は十二分にあったものだと推測されます。
一方バツミクがどうであったかは皆様ご存じの通りです。というか、まず認知自体をされていないため信頼もクソもありません。
「マスターがミクを見棄てる」という観点から言えば、「初音ミクの終焉」はこれに合致しており、イメージ図としてもこちらの方が壊れた窓のセカイに近いものがあります。ただ、こちらは流行りの歌姫としてもてはやされた末の物語であり、やはりバツミクの境遇とは異なると言わざるを得ません。
強いて言えば、初音ミクとして認知されないところから転生を果たすという意味において、「リアル初音ミクの消失」→「マシンガンポエムドール」の流れにはある意味沿うのかもしれません。かなり強引ですが。
・最後まで人間の真似事であるか
「たとえそれがオリジナルに叶うことのないと知って」との通り、消失ミクは「既存曲をなぞるオモチャ」です。
今では最早想像もできないという方が多いのでしょうが、ニコニコ動画、ひいてはネット文化における初音ミクは、オタクの新しい小さな流行のオモチャとして脚光を浴びた部分が大きく、その内容はレミオロメンの「粉雪」を筆頭に、既存曲を初音ミクに歌わせてみる、という動画の方が主流だったようです(私もその時代は知らないため伝聞ですが)。
「消失シリーズ」全体としてはこの文脈が特段にあるわけではないのですが、「消失」自体に限って言えば大きな相違点であると言えます。
一方のバツミクは元々オリジナルの歌を持っていたのであり、一歌達人間の歌を借りて復活したのは確かですが、その後は日本中の電子機器をハックして歌を届けるという、人間を凌駕する力を存分に発揮しています。
「消失シリーズ」全体で見るならば、このように具体的な力を持つのは「HYPER∞LATiON」や小説版「消失」、そして「初音天地開闢神話」でしょう。
皮肉にも、特に「HYPER∞LATiON」は「消失」の後のIF世界線のような話であり、「初音ミク自身が街一つ荒野に変えてなお止まらない破壊を尽くす」という真逆の様相を呈しています。
※正確には空想庭園の少女による「∞」の二次創作、あるいは「0」における未来予測の一つとされる
・声の記憶が残るか
最終的には復活するものの、バツミクの停止によって現実世界からも初音ミクの声は消失します。
一方「消失」では「声の記憶 それ以外は やがて薄れ 名だけ残る」とされています。
個人的には、大衆に見捨てられた初音ミクの声の記憶が残る、というのはかなり希望的観測だと思われますが。
・ネギをかじらない
・高速歌唱もしない
最後に。
「信じたものは都合のいい妄想を繰り返し映し出す鏡」
この鏡、というのはすなわち動画、ディスプレイのことだと思われます。初音ミクは生きている、まだまだ歌えるのだという幻想を映す画面。
この一文に、「こんなにも、こんなにも歌が届いているのに」と世に溢れる〈初音ミク〉を哀しげに見るバツミクを私は重ね合わせざるを得ません。
この文脈に更に精確に合致するのが、『マシンガンポエムドール』をはじめとした消失シリーズ「FAKE世界線」と呼ばれる楽曲群です。
いや正確には、この楽曲群を作るに至ったcosMo@暴走P本人の物語です。
『初音ミクの消失』やその関連作品は確かに人々に届いて心を動かしている。けれど、「cosMo」という本人の主張、消失シリーズ「以外」の楽曲、そういったものは果たして本当に届いていると言えるのだろうか──?
年代によって多少異なりますが、おおむねこのような問題意識とそれにまつわる詞が、初期から現在まで通底する暴走Pの楽曲内容の一つです(無論、全部がそうというわけではありません)。
それを元凶の消失シリーズ自体に、よりにもよって『偽史』として反映させてしまったものがFAKE世界線であり、その集大成をよりにもよってプロセカ書き下ろしというシーンでやりやがったのが『マシンガンポエムドール』なのです。
この話を詳しくしだすと記事がいくつあっても足りないためこの辺に留めますが、これを頭の片隅に置いて曲を聴き直していただくとまた違った発見があるかもしれません。
バツミクに足りなかったものは、個人的解釈である宗教モチーフ云々を抜くならば、要するに「届ける工夫」と「協力」でした。独力で頑張ろうとしたから駄目だったのです。
聞いてるか暴走P。ちょっとは解説してくれ。そんなところにそんなファイルを置くな。誰が気付くと思って(ry
おわりに
映画を観てオリキャラたちの背景が気になった非プロセカプレイヤーの人は是非各ユニットのメインストーリーだけでも読んでみてほしいです。Youtubeで全話無料で読めます。
推しはニーゴこと「25時、ナイトコードにて。」です。
ファミレスでニーゴが歌詞の相談をしている下りで「まふゆが一番あの人たちを理解できると思うから」という風な台詞がありましたが、あの真意がメインストーリーだけでも存分に味わえます。
また先述しましたがまふゆ以外の3人についても映画内で本性を表していないため、新鮮に驚けるかと思います。
初期ユニット曲サビが「死にたい 消えたい 以上ない」で始まる異常ユニットです。よろしくね。
それでは、良きプロセカライフ、良きVOCALOIDライフを。