銃口の向く先を誰も知らない-暴走Pについての小さな殴り書き
論理性など知ったことか。
今まさに人が一人死ぬかもしれないんだぞ。
マシンガンポエムドールの弾丸は誰を蜂の巣にしたがっているのか。
プレイヤーか。
それもある意味真だろう。
いや、ある意味どころか、それこそが尤もらしい真かもしれない。
cosMo@暴走P自身か。
そういう話をしたかったし、したくなかった。
初音ミクの話を抜きにして、暴走Pと、あと自分語りをする。
暴走P楽曲、あるいは暴走Pクラスタ(狂信的ファン・考察厨・ありがたくもない迷惑囲い、なんでもよろしいのだが)の異常性を挙げるとするなら、この「そういう話をしたくないし、したくない」という空気が一個人でなく集団で共通のものである、ということである。
これは「共有している」とはやや異なるものである。暴走Pクラスタは一枚岩とはまったくもって言い難い。これは私自身が「かつてやや纏まっていたファンコミュが自然/意図的に瓦解・分散していく様」を内部から見ていたということを根拠にしている。それ以上でも以下でもない。
とりあえずこの主張を是とさせていただくが、つまり「暴走P以外の誰か声の大きなインフルエンサーからファンクラスタ全体へと共有された」空気ではないだろう、ということだ。
あるいは「やや纏まっていた」時期であればそれに値するようなインフルエンサーも居たことは居たのだが、現在観測できる範囲では最早それらしき人物はいない、と言い切っていいと思える。私自身がブロックされてて見えないだけとかなら知らん。
要するに「暴走P本人の楽曲から個々に解釈した結果」が、「ある話をしたいししたくもない」に帰結するのである。
『初音天地開闢神話』への反応は、自分も記事を書くにあたり他人の解釈が気になりそれなりにいろいろ見て回った記憶があるのだが、人によってそれぞれの角度、解釈があり、ぶつけ合わせれば確実に相容れないだろうと思われるものも多々あった。
当然主観も込みになるが、「困惑」という感情・反響も大きかったように思う。
「どの口でそれを言うのか」…と書くと非常に批判的なのだが、2018年に出したアルバム初音ミクの消失RARを経てなお、マジカルミライテーマソングという、結果的には輝かしくあるべき作品が出せるのか?
確かに良い想いもしただろう、が散々な目に合ったこともまた事実で、それを数年前に総括的に発表しておいて、今更何も無かったような顔で、何もかも済んだという顔で、その楽曲を出せるのか?
一口に「クラスタにとっての困惑」といってもおそらく解釈同様様々な形があるだろうが、自分にとっての困惑を無理やりにでも形にするなら、だいたいこのようなものになると思う。
今書いていて思ったのだが、『初音天地開闢神話』という楽曲は、他のマジミラ主題曲と比べて主観性がかなり弱いように感じられる。他の楽曲を網羅しているどころか歌詞も怪しい身で何をと言われたらそれまでだが、初音ミクを(から)送り出すにしろ手を取り合うにしろ突き放す(される)にしろ、他の楽曲にあるような主体性というか現実味だろうか、が薄いように思われる。まさに現代から見た神話なのだ。
マジミラの感想でテーマソングについては良くわからない、と述べるものが散見されたのは、なんとなくそういうところなのではないかと思う。
別にcosMoが本腰を入れて制作をしていないとか、そういうことを言いたいわけではない。ただ、「(2021年当時の)現在、すべてを見て一番伝えたいことを込めた」楽曲というわけでもないのでは、ぐらいには思っている。
だってたったの2ヵ月程度しか空いていないのだ。『初音天地開闢神話』投稿から、『マシンガンポエムドール』発表まで。
ああ、こんなことは思いたくなかったのに、「やっぱり」来てしまったのか。当時はそう思った。
大地震が起こりうる、と予測していたら本当に来てしまった時の感じ。
いや、「化石燃料が尽きるかもしれない」「とはいえ年々発見されてはいるしきっと大丈夫じゃないか」「やっぱりダメだったよ」そんな感じだろうか。
正しく伝わる比喩が思いつかないが、とにかくクラスタ全員予想はできていたはずで、だが考えたくはなかったのだ。
今も暴走Pは理解されない痛みに苦しみ続けている、なんてことは。
『終点』から8年。何も好転していないなんて分かってはいたのだ。勝手に分かった素振りされても困るだろうが。
じゃあどうすれば好転するのか?なんてことももう私の頭では思いつかない。当人がやれることはやったはずなのだ。諦めて気持ちの整理を付けること以外。
…要するに、「諦めたのかな」と私はどこかで思っていたわけだが、どうもそうでもなかったようだった。
時々、ここまで自分らしさというものに拘泥する彼の方がおかしいのではないか? 他のボカロPは適当に折り合いをつけて楽しくやっているのではないのか?と考えることがあるし、もしかすると外から見てもそう思う人がいるかもしれない。
自分は他のボカロPをここまで熱心に追いかけたことはないが、作家や歌い手など別畑の人であれば経験がある。だがそれを踏まえてどう考えてみても、暴走Pほど「その人らしさ」というものがごく狭い要素でのみ強く認知され、それが基準となって全ての作品をジャッジされるというアーテイストは過去になかった。
それはつまり、常に「過去作と比較してどうか」というところに作品の感想が帰結する、ということである。
その過去作が「消失シリーズ」であり、全ての作品が「速いか、そうでもないか」「煩いか、そうでもないか」の二元論で判定されてそれでおしまいになる。
無論それは極論も極論であり、真っ当な感想を述べている人も無数にいる。だが、他のボカロPはどうだったっけか、と思考を巡らせなければならないほどには、そのような感想ばかりが毎回目立つのだ。
まあ、きっちり何かの数を数えたわけでもないため印象論ではあるのだが、Twitterでパブサを不定期的に掛けている身としてはその傾向は少なく見積もって10年変わっていないと言ってよいと思う。
だから暴走Pにはプレイヤーへ銃口を向ける理がある。
声が小さいからと言って何も知ろうとしなかった貴方達へ。
だから暴走Pには信者へ銃口を向ける理もある。
声が小さい彼より更に声が小さい私達へ。
だから暴走Pには己へ銃口を向ける理すらある。
声が小さいボクへのトドメとして。
問題が混沌化しているのはこれが初音ミクらしきなにかの手を介するという点で、逆にこれがなければ上のような論理で収まりが良かった筈だ。
一番書きたくなかったことは書いたので、一旦ここで筆を置きたい。
誰かその痛みに名前をつけてください。