5000円札と人生
大学4年生の夏、家族でとある場所に旅行した。
道の駅…よりはもう少しレストランっぽいところで地産の魚料理を食べ、ほくほく気分でトイレへ入ったのだが、その時床に横たわる長方形の紙切れに気がついた。
5000円札だった。
これを拾うか拾うまいか、拾ったとしてお店の人に届け出るかありがたく頂戴するか。
私の頭の中にはその3通りの選択肢が浮かんだ。
実に卑しい発想なのは百も承知だし、そもそもお金とは言えトイレの床に落ちているのだ。
普通拾わない一択だろと思った方もいると思うが、ちょっと弁解させて欲しい。
この時期の私は悩んでいたのだ。チャンスの掴み方について。
お金が落ちているのなら無視したりネコババしたりせず届け出る。それが正しいことであり、そうした日頃の善い行いの積み重ねが、自分の運となりチャンスを引き寄せるという考え方。
一方で、これは目の前に飛び込んできたチャンスであり、こういう時に図々しくチャンスを掴みに行けないヤツはこの先何をしたってダメという考え方。
この時の私はある種の就活脳というか自己啓発脳というか、そんな感じの思考が染み付いていた。そんなわけで私の頭の中ではこの両極端な思考が渦巻いていたのである。
結局迷った末に一度は5000円札を置き去りにしてトイレを出た。
後からもう一度行ってみて、まだ落ちていたらその時どうするか決めようと思ったが、二度目にトイレへ行った時にはもう、5000円札はなかった。ちょっとホッとした。
このとき私は両極端な2つの考え方に惑わされたわけだが、「両極端な考え方に惑わされる」のはこの件に限ったことではなく、割と最近までずっと私を悩ませてきた。
たとえば貪欲になれ、泥臭く進めと言う人も居れば、ゆるく生きていこうなんて言う人も居て、
夢や目標は持つべきだと言う人も居れば、ただ流れに身を任せて生きて行った方が上手くいくと言う人も居る。
他人のこうした両極端な名言や生き方にその都度影響され、結局どっちつかずでフラフラしてきた、私はそんな人間だったのだ。
ゴリゴリの成功者の前向きかつ力強い名言に感化されてボルテージMAXで走っていたら、タモリのゆるい名言に出会い、「あれ、この走り方は間違ってたのかな?」と思ってしまう、そんなことを繰り返していた。
だけど最近思う。
人には人のベストボルテージがあって、MAXにしてなきゃいけないわけでも、MAXの半分くらいにしてなきゃいけないわけでもないのだ。
私は今、毎日コツコツ筋トレを継続して、資格の勉強も始めた。
ここ最近の一番の悩みであった仕事に対する姿勢も安定してきて、非常に気持ちの良い状態にある。
決してガツガツしているわけでもなく、かといってゆるゆる〜としているわけでもなくて、きっとこれが、私のちょうどいいボルテージなのだ。
世の中には素敵な人やかっこいい人がたくさんいて、そんな人の数だけ、素敵な生き方やかっこいい生き方がある。
その全てを同時に真似することはできなくて、だから混乱して迷走していたわけであるが、たった一つ、そんな多種多様な生き方に共通点があるとすれば、それは各々が各々に合ったボルテージで生きていると言うこと。
私が真似すべきだったのは憧れの人たちの生き方そのものではなく、その人たちの共通点だったのだ。
そう気づいてからは、素敵な言葉や素敵な生き方にいちいち惑わされなくなった。
今自分は充実していると感じられるか、頑張れているか。それをきちんと自分の尺度で確認できるようになった。
なーんだ当たり前のことを、と思われるかもしれないし、私もこんな当たり前のことが見えていなかったなんて正直驚きだが、それでもこの度気づけたのだから、記録としてここに残しておく。
2021.2.14投稿