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20240613 日記360
さようならいいね欄
Twitterはフォロワーのいいね欄が9割(PHP文庫)
— ケイスケ (@gkeisuke) May 28, 2024
Twitterでフォロワーのいいね欄がみれなくなってしまった……。
誰かと仲良くなろうとする時、いいね欄から趣味や共通の話題のラインを探る良くないインターネット仕草に頼ってきたので、これからは生身でぶつかっていくことを要求されることになる
— ケイスケ (@gkeisuke) June 12, 2024
Twitter界の風見鶏として、フォロワーから強い意見が出た時に、誰が同調してるのかをいいね欄から探って風向きを確認してたのに、これからは生身のインターネットをやっていくしかなくなってしまった
— ケイスケ (@gkeisuke) June 12, 2024
リプライやDM、引用RTみたいな直接的な方法ではなくて、いいねを押して空中リプライをする、和歌のやりとりで自分の想いを伝えあう平安時代の貴族のような奥ゆかしい距離感でないとフォロワーたちとの繊細で複雑な関係性を築き上げることはできなかった
— ケイスケ (@gkeisuke) June 12, 2024
割と本気でいいねを主体とした言葉にならない部分のコミュニケーションでフォロワーとの関係性を築き上げてきた実感があるので、悲しい気持ちがある。
やってることは他人のいいね欄を覗き見ているだけなのだけど……。
フォロワーのいいね欄、あくまでも公開情報という前提があったから覗きに行けたので、いきなりみれなくされたものとはいえ、ツールなどを使って非公開情報を覗きに行くのはインターネット倫理違反の判定になる
— ケイスケ (@gkeisuke) June 13, 2024
でも、いいね欄は公開情報として晒されているからこそ価値があるものだとも思っていて、APIツールで割って覗くことに意味は無いなと思う。
RTで周りに広めるわけでもなく、何らかの感情からいいねを押した自分と、押された相手にアクションがあるだけなのだけど、そのいいねを留めておく場所が外部の目に晒されているからこそ、その人の美意識が現れる場所がいいね欄だと思っており、俺はそこから得られる情報を結構信頼していた。
何なら俺は他人にみられることを前提にいいね欄を構築しているところがあったので、ダイレクトにえっちな画像などはいいねと思っても押さないセルフプロデュースを行い、清純派のキャラクターを演じていたところがある。
本当はエッチマンであるという俺の本質の部分以上に、エッチマンであることを隠そうとしている部分にこそ、俺の美意識は存在しているのだ。
自分はリスクを背負わず、フォロワーにえっちな画像を収集させて、いいね欄からそれを盗み見るわるいフォロワー
— ケイスケ (@gkeisuke) June 12, 2024
↑俺のことです。
現実世界ではできない、Twitterでしか実現し得ないコミュニケーションの手法でもあったと思うので非公開情報となってしまったのは悲しい。
やってることは他人のいいね欄を覗き見ているだけなのだけど……2。
2024年は生身のインターネットをやっていくしかないのかもしれない。
bacho
— 吉田 (@sub_nwm) June 4, 2024
@gkeisuke
— 吉田 (@sub_nwm) June 4, 2024
bacho/ビコーズ
補足はいらないと思われるhttps://t.co/2xYXvAoJZL
硬派なTwitterをやってるので、普段はいいねした人に〇〇には乗らないのだけど、純粋に俺の音楽や世界を広げてくれた1人であるヨシダの兄貴からオススメの音楽を賜りたかったのでいいねを押すと、bachoの『ビコーズ』という曲をオススメされる。
あまりにも補足がいらなすぎた…………。
自分のことを歌ってるような衝撃に久しぶりに見舞われた気がして、衝撃にエネルギーが満ち溢れている。
それから1週間、アルバムを買ってずっとbachoの曲を聴いていました……。
ライブの映像を観たら、こんな歌ってていいんかと思うくらいずっと観客と一緒に歌ってて、もはや観客をステージにあげてマイクで歌わせたりしている。
浅学すぎて恥ずかしいのですが、シンガロングという言葉があるのですね……。
でもいいんだよな。俺のことを歌ってるんだから。一緒に歌って言葉や決意を強くして、一緒にやっていくことに強烈な意味があるんだから。ライブに行ってないのにそう思ってしまう。
8月に府中のライブハウスに来るらしいので、是非ライブに行こうと思います。
トゥインクルクス
— ケイスケ (@gkeisuke) June 11, 2024
高垣彩陽さんと豊崎愛生さんのコラボニューシングル「トゥインクルクス」が発売となり、フラゲ日に秋葉原へ買いに行きました。
新曲自体が久しぶりで、最近はスフィアの新曲もデジタルリリースだったりしているので、お店に足を運んで、衣装展示をみたり、いろんな特典を買い集めたりできる体験自体が既に嬉しかったです。
お互いの持ち曲からカバーに選ばれたのが『私の時計』と『See You Tomorrow』であることをライブで聴いた時、連続で片膝ずつに矢を受けて崩れ落ちてしまったんですよね。
2曲とも決して毎回ライブで歌われるタイプの曲ではない(特に『私の時計』は、大好きなのになかなか歌うライブに行けなくて、MusicRainbowでようやく聴けた思い出がある)のだけど、二人で歌う曲としては強い納得感もある。
トゥインクルクス、ライブで聴いてから大好きになった。久しぶりのシングルで歌うのが、未来へのきらめきであったのが嬉しい。
MVも、かわいらしさだけでも大人っぽさだけでもない、両方が同居しているのが素敵だった。電球がつくやつすき。
私の時計、豊崎愛生さんの高音域を抑えるような歌い出しが聴こえてきて、やっべえ……となってしまった。
チャットモンチーの橋本さんの作詞で、劇的ではない日常の中の幸せを歌った楽曲だからこそ大好きだったのだけど、時計が進んだ今の二人が歌うからこそ沁みるものがあったね……。
See You Tomorrowは、俺としては就職した直後の通勤時に繰り返し聴いていた思い出が強い曲だったのだけど、歌う二人の声も、聴いている俺自身も大人になって、楽曲の中の登場人物も一緒に大人になっているように聴こえたのが新鮮な体験でした。
全曲良かったけど、高垣彩陽さんと豊崎愛生さんが二人で歌う歌う私の時計をめちゃくちゃライブで聴きたくなってしまったので、リリースイベント当たるといいな…………。
違国日記
月曜日に『違国日記』を観に行きましたが、あんまり良くなかったです……。
怒りのあまり公開直後にも関わらずブチギレたツイート連投してしまい、後から観に行ったフォロワーには申し訳なかったと思っています……。
『違国日記』周りの人たちの感想があんまり良くなさそうなのを薄目でみてたが、観ないわけにもいかないくらい好きな作品なので観にいったところ、良くはなかった
— ケイスケ (@gkeisuke) June 10, 2024
なぞるべきアウトラインは多分にそこまで大きくは間違っていないのだけど、可能な限り全部のシーンをやろうとした結果、何を表現したいのがとっ散らかっていて、この映画が取りこぼしてしまったところこそに、違国日記という作品の好きなところがほとんどあったなという感想になってしまった
— ケイスケ (@gkeisuke) June 10, 2024
原作再現という言葉が、原作へのリスペクトから違う媒体の表現で新たな角度から本質を削り出すものではなく、表層のシーンをなぞることで、原作のアウトラインを外れないようにすることに集約されていくとしたら、めちゃくちゃ嫌だな……と思ってしまった
— ケイスケ (@gkeisuke) June 10, 2024
原作は大切に読み進めた一作ではあるのだけど、めちゃくちゃ予習して観に行ったとか、セリフやシーンを明確に覚えているというワケではなかった。
それにも関わらず、この映画が取捨選択で選ばなかった部分ばかりが想起されるような鑑賞体験で、自分が思っていた以上に『違国日記』という作品が大切だったことを気づかされたのは良かったことかもしれません。
えみりさんが朝さんに彼女ができたことを伝えるシーン、単体としてはとても良かったのだけど、連なりとして活かせてる感じはなくて、森本さんのシーンなんかは改変された結果、かなり最悪な形で表現されてしまったように感じたので、ただ触れとけばいいって訳でもないですよとも思った
— ケイスケ (@gkeisuke) June 10, 2024
演者の皆さんが良かったので、思いのほか観てる最中は穏やかな気持ちではあったのだけど、森本さんのシーンで「は?」となってしまってから心が穏やかではなかった。
原作にあった医学部不正入試問題とは問題が変わっているのだけど、その森本さんの怒りを間借りした、無力感を覚えるような不条理を描きながら屋上で叫んでスッキリという映画の描き方は、ある意味、そういう不条理を受け入れろといってる風に受け取れてしまった。
瀬田「朝がなにを見て変わっていくかと考えた時に、まずは槙生との関係が大きくありつつも、えみりと森本さんの存在は大きいと思いました。森本さんのエピソード(※原作では志望していた大学医学部で不正入試が発覚し、女子ということで不利に扱われる)は、原作者であるヤマシタさんとお話した際に、『現実に無視されてきたことでもあるので、フィクションではできることなら無視しないでほしい』とおっしゃっていたので、そこは残したいなと。映画の舞台を2023年にしたので年代に合わせて原作と少し設定を変えて描きました」
そもそも、映画で描いた筋に大きく関わるエピソードではなかったはずなので、こういうエピソードには触れておかなくてはいけないという要請で入ったに過ぎないような描かれ方に感じてしまった。
ああいう触れ方をするくらいなら映画としては森本さんは出さなくて良かったと思うし、これはえみりさんの彼女の話にも同じことが言える。映画として向き合う覚悟の問題なのだと思っている。
勝つためのピッチングではなく、失点をしないためのピッチングをした結果、9回7失点で降板みたいな映画だった
— ケイスケ (@gkeisuke) June 10, 2024
だからこそ、わざわざ『違国日記』というタイトルでやる意義を感じない映画だったというのが一番大きな感想だったかもしれない。
確かに、回想や心象風景を繰り返していく中で演出されていく漫画なので、そのままに映像化をするのが難しい題材であることは間違いないのだけど、だからこそ、槙生ちゃんの言葉を借りるのであれば「死ぬ気で、殺す気で」映画という表現媒体でこの作品に対峙する姿が観たかった。
まさか、あの原作のシーンを取捨選択せず無秩序に詰め込んだ羅列を『日記』ということにするんじゃないだろうな……と思って観ていたら、最後に続きが書かれなくなった白紙の日記が風でめくれるシーンが流れて、マジでクソダサいな…………はよ終わってくれ…………という気持ちになってしまった。(その後にエンドロールが流れた)
新垣結衣が演じることで安心感を得たと『違国日記』瀬田なつき監督が語る - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン) https://t.co/QosiP7sssR
— ケイスケ (@gkeisuke) June 10, 2024
こういう風に描きたかったんだろうなという点とか、漫画における回想と言葉のリフレイン、映画における時間の連続性という違いについて、概ね観たあとに話していた通りのことが語られていたので、その上で良くなかったと感じたのは、やっぱりこのタイトルでやる必然性の部分のように思う
— ケイスケ (@gkeisuke) June 10, 2024
監督のインタビューも読んだけど、概ね映画を観終わった後に後輩と「こういう意図だったんじゃないか」と想像しながら話していた通りのことが語られていた。
予算やらスケジュールやらいろんな事情があるのは仕方ないが、この作品において「砂漠で撮りたかったけど難しかった」ことが語られてしまう時点で、身勝手ながらこちら側としては映画としての敗北だと思ってしまった。
画や演出に特筆すべきところがあるように感じなかったのは、そういう諦観が透けて見えたところもあるような気がしている。
また、演者たちは掛け値なし素晴らしかったのは、その役作りに原作の違国日記の魂が息づいていたからで、曲がりなりにも原作から抽出された脚本だから演者の力によって顕現されたからこそなのだとも思う。
あれが監督が受け止めた『違国日記』に対する全てをぶつけた作品なのだということであれば、合わなかったというか、俺とは違うものが見えているのだと諦めるしかないな……と思う。
今日のいいね
はてなブログに投稿しました
— せーはく (@sehaku_) June 13, 2024
子どもが生まれました - せーはくの備忘録 https://t.co/LJc9kPg4gW#はてなブログ
ご報告です 思う存分いいねしやがれ
本当におめでとうございます…………!