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小説原作の映画って複雑な気持ちになる

【れおんの沖縄日記 2019年12月23日】

忘年会スルーがTwitterとニュースを騒がせていましたが、わたしは2つ参加しました(とかいってこの2つしかないのですが)。

先日の忘年会でチャンプルーとアルコール片手に約4時間、

卒業論文と見たい映画の間で悶え苦しむ、学年がひとつ上のお姉様KさんとTさん、そんな2人を尻目に「初日にスターウォーズみてきたぜ」と嬉しそうな男性教授、学芸員と通訳の仕事をしているマダム、そしてわたしの5人で喋り通した内容を何回かに分けてnoteに書きます。

今回は小説原作の映画ってどう思っているかです。

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小説原作で映画化された作品をみる場合、原作を読む派と読まない派、さらに言えば原作を映画の前に読むか後で読むかで作品への印象が変わると思ってます(自明かと思いますが)。

5人とも原作を読む派ということで盛り上がりました。


例えば『ハリーポッター』シリーズや東野圭吾原作の映画作品は「そこ飛ばすのかい」と思うことが多い。あとは宮部みゆきの『ソロモンの偽証』は原作を読んでから映画をみたわたしにとって残念な印象をもった(と話したらKお姉様にハイタッチを求められた)。

小説を忠実に再現して映画を制作することはとても難しいのだと思います。だってわたしの好きな東野圭吾の小説は400ページとか500ページに及ぶのはよくあるし、ハリーポッターだってあの分厚さを映像化しようとしたら尺が足りるわけがない(感覚の話になっていますね。詳しい方コメントお願いします。)。『ソロモンの偽証』なんて500ページ近くの本が上中下巻ありますし。

原作の小説目線で映画を見てしまうと「そこ切るの?!」とか「あの場面が見たかった」とか 感じてしまうことが多いです。高校までは「再現性が高くないと嫌だ」と思っていました。しかし、いまは心穏やかになって自分の中では映画と原作は別の作品だと思って観に行くことにしています。というかほんと映画で表現方法が異なるのだから違う作品なのは当然です(それでも同じであって欲しいと心のどこかで思っている自分はいるようですが)。

「嫌ならみなきゃいいじゃん」と突っ込まれると全くその通りでそういうときもあります。ただ、それでも小説原作の映画は見にいきます。
盛り込めない内容があるのはわかった上でじゃあ映画だから感じたことは何か、映画監督や脚本家はどういう意図で構成を考えて映画として完成させたのかを知りたいと思うのです。

そういった意識は原作とは違う角度からわたしの感性を育ててくれるのかなと思います。

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お酒の場へ話を戻すとお姉様は東野圭吾の作品や『ソロモンの偽証』は…という感じでしたが、一方で伊坂幸太郎原作の作品は「お願いだからマジでみて!『アヒルと鴨のコインロッカー』みて!お願いだから!」とTお姉様に訴え、Tお姉様は引き気味に「わ…わかった…。あひるの…なんだっけ?」とスマホにメモしておりました。
わたしもばっちりメモしておきました(家帰って本棚見たら原作はあった。読もっと。)

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