ショートショート 「雨」

 嫌な色をした雲。嫌な温度の雨。雨が降る時の匂いは好きだけど、ずっと外にいればその匂いもしなくなる。

「はぁー、疲れた…」

 ようやく家に着いた。この雨の中、30分も歩いた自分にお疲れ様。

 濡れた服を脱ぎ、濡れた身体を拭き、濡れた髪を乾かす。そうすればどうだろう。あれだけ嫌だった雨は心地良い物に変わる。

 雨音。

 自分に関わる“雨”を雨音だけにして、インスタントのオニオンスープを準備する。もちろんカーテンは閉める。雨の日の気味悪い薄暗さが嫌いだから。陽光には敵わないが、イキイキとした照明が部屋を照らす。輝きを失った外とは別世界だ。

 雨音を聞いて思い出すのは、運動会が中止になった小学4年生のあの日。


 運動会中止の連絡が母の携帯電話に掛かってきた。天気予報では、運動会の日だけ大雨の予報だった。先生でさえ「どうせ運動会中止だから、宿題多めに出そうかな!」と言っていた。

 毎年の様に弁当の品評会が開かれる運動会。我が家も、貧しいなりに品評会の日は弁当が豪華だった。いなり寿司、唐揚げ、甘い卵焼き、ナポリタンにエビフライ。プチトマトや、デザートにイチゴとパイナップルもあって彩りが良かった。母は、雨が強く降っているにも関わらず、「中止じゃなかったら大変だから」と朝早くから弁当の準備をしてくれた。「僕も手伝う!」そう言った俺を、真ん丸な目で見つめた母。「中止になったら、お部屋にレジャーシート敷いて食べようか」と柔らかく微笑んだ声が優しかった。


「母さん…久しぶりにレジャーシート敷いて話そうか」

 2年前に亡くなった母の写真をレジャーシートに乗せた。母の顔が遮られないように、写真の斜め横にマグカップを置く。

「はい、母さんのオニオンスープだよ」

 運動会で舞い上がる砂ぼこりの様な、あの日を思い出す匂いの湯気が二つばかり立った。


 畳に敷かれた水玉模様のレジャーシート。二人で使うには少し大きかった。豪華な弁当とピンクの紙皿、割り箸がレジャーシートに並ぶ。それだけで、子供心は足をばたつかせた。「早く食べよう!」と急かす俺。「アチチ…」と言いながらマグカップを二つ持ってきた母。「はい!オニオンスープ。スープがあると、もっと豪華に見えるでしょ?」と目の前に置かれたそれは、あまり好きな匂いではなかった。

 「いただきます!」と同時に、いなり寿司へ手を伸ばす。いなり寿司が大好きな俺のために、一番近い所にいなり寿司を置いてくれていた。子供だった俺は、そんな母の気遣いに気づくはずもなかった。母の分の事を考えずに食べる俺。母は優しく微笑んで「たくさん食べてね。ごめんね、いつも雑炊しか作ってあげられなくて…」「大丈夫、僕お母さんの雑炊大好きだよ!」オニオンスープを飲みながら目に涙を浮かべる母。「冷まして飲めば良いのに」「え?」母は、豆鉄砲を喰らったかの様な顔をしていた。「泣いちゃう程熱いんでしょ?フーフーしなきゃ」口を尖らせ息を吹き掛ける母の姿に思わず笑ってしまった。「僕知ってるよ、猫舌って言うんでしょ?お母さんって猫みたいだよね。猫舌だし、猫みたいに雨嫌いだし」まだ豪雨で賑わう外。「雨に濡れると身体冷えちゃうからね。猫さんも一緒。猫さんの身体はね、水を弾けないの。身体に水が浸透しちゃって冷えちゃうから、猫さんは雨嫌いなんだって」「じゃあ雨が降った時は、お母さんと猫さんのことギューってして暖めてあげる!」


「母さん…」

 89mm×119mmに収まった母を胸に当てる。部屋の中にいるせいか、こもった様に聞こえる雨音。まるで母の胎内にいるかのような安心感。

「あ…」

 小さな母を目の前に置き、代わりに自分のマグカップを手に取った。

「俺も猫舌なんだ。一口目飲んだとき舌火傷しちゃってヒリヒリするよ」

 息を吹き掛けオニオンスープを揺らす。何故だか、いつもより揺れて見える。

「それに、この匂いは、やっぱり、まだ苦手かな」

 母の苦手な雨が、89mm×119mmに降り注いだ。

「暖めてあげるね」

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