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僕たちには敵がいるという話

前置き

 noteはくだらない。
 何が一番くだらないかと云うと、毎回記事を書くたびに中身に目を通してなさそうな方々から「スキ」を頂くことだ。本当に無為だと思う。

 当初、まだ僕がnoteに意欲的だったころ、noteにいる人々は文章で何かを表現したい人――いや、数ある表現方法のなかで文章を選んだ人たちだと思っていた。『表現方法を選ぶ』という行為=選択は、絵にしろ文章にしろ、立体にしろ、とても尊いものだ。自分がその表現方法でなら何かを伝えられる。そう思って人は創作のスタイルを選択するのだと僕は思う。

 しかし、こと文章に限っては『中身に目を通されないまま評価される』ということが頻繁に発生する。これはSNSで一つの問題になっていて、twitterなんかは遂に、記事の引用には「まず中身を確かめてから引用しろ」というダイアログが表示されるようになった。別冊日経サイエンスの記事では十年前の震災時点で、デマの広まるスピードは知識者の確たる情報が広まる速度に比べて二十倍早い、というデータが出ている。当然、その中の全員が詳細に物事を把握する人々であるはずもなく、人々は常に身勝手である。

 その身勝手さに対して「何とか殺してあげたいなあ」と思っている。もう十数年、その殺意を僕は抱いたままだ。

創作行為によって殺すべき対象

 前置きが長くなったけれど、今日はその殺意について話したい。これを読んでいる方が何かのものづくりに携わっていることを前提にまずお聞きしたいのだが、あなたは何のために今持っている表現を選びましたか?

 文章を書く人ならなぜ文章を書くことを選んだか。絵を描く人ならなぜ絵を選んだか。そういう問いです。「いやいや別に理由とかないでしょう」確固たる事情のない方々に喧嘩腰になるわけではないので、それが答えてでも全く構いません。その代わり、今日は僕の話をします。

「(中略)彼はそれをきっかけにして、現実というものの真の姿、〈リアル〉というものに直面したんだ。一般的に作家というのは、そうした〈リアル〉に触れた瞬間の体験を、一生にわたって書き続けるものなんだ」

神林長平「いま集合的無意識を、」より引用

 noteを放置しすぎてかなりのことを忘れているのだけれど、恐らくこの作品と作者のことを、僕はココに書いていたと思う。だから話すのは何度目かになるかもしれないが、これは僕が最も大切にしている言葉の一つだ。

 僕は現時点で、『作家』として生活しているらしい。少なくとも、それで確定申告や持続化給付金などの認印を頂いているので、そうなのだろう。僕は『作家』というのは職業ではなく称号だと思っているので、自分のことを作家だとは全く思っていない。代表作となる小説すらないし、発表作は片手で数える程度。実のところ同人でシナリオや台本を書いているだけのアマチュアだからだ。でもこれで食っているから、複雑である。

 僕が文章を選んだのは、殺したい相手がいるからだ。

 皆さんは京田辺警察官殺害事件をご存知だろうか。十数年前の事件である。絶賛放送中の、そして僕自身がめちゃくちゃハマっている『ひぐらしのなく頃に 業』の前シリーズが放送中の時期に起きたものだ。

 当時はこの事件を語るときに必ず『ひぐらし』の名前が挙がった。僕は熱心なファンではなかったから、あまりそれについては肯定も否定もしなかった。ただ、大学進学を控えていた時期に、僕は将来どういう人間になるかを選ぶ必要があった。僕はもちろん作家になりたかったのだが、当時は絵の勉強もしていたし、彫刻の勉強もしていた。僕は中学のころから文章を書くことが趣味ではあったけれど、文章よりも絵や立体のほうが魅力的だった。ただ自分に対して、魅力以外の動機がなかった。

 少し脱線するが、当時の僕の家庭環境は荒れに荒れていた。僕は理由もなく親に暴言や暴力を振るわれたし、コミュニケーションをきちんと取る親でもなかったので、他人とのふれあい方もわからなかった。小学校くらいまでは近所の友人たちとも遊んだけれど、中学になった辺りでは疎遠になった。学校もサボりがちで、真昼間から家の近くにある海に行ったり、家で映画やアニメを観たり、漫画や本を読んだり、ネットサーフィンをして過ごすこともあった。そういうわけで、僕は県内で最も頭の悪い公立高校に行き、入学して三ヶ月で二回停学になった。そのころ退学や停学は頻繁に起きていたが、一年の前期で二回停学になった生徒は僕だけだった(と少なくとも当時の先生や先輩からは聞いていた)

 このころ、僕には一つ真剣な悩みがあった。その悩みは、『家族を殺すかどうか』というものだった。最初にその悩みを抱いたのは小学生のときで、僕は学校から帰る途中、友人の藤波くんと清水くんに「人を殺したいと思ったことはあるか?」とたどたどしく質問したのを覚えている。ふたりとも「ある」と答えていた。

 どうして『家族を殺すかどうか』を悩むのか。それは単純に、僕は自分の環境が厭で厭で仕方がなかったからだ。そして自殺するかどうかもかなり悩み、まず『自分が死ぬか相手を殺すか』の悩みに結論を出した。僕は死ぬより殺したかった。殺す対象は家庭内暴力を振るう父と、知的障害者の兄だ。僕は母親のことは好きだったので、このふたりがいなくなれば母親は今よりいい人生を送るんじゃないかな、と当時は考えていた。同時に、殺人者の母親にもなるから、それがまた僕を悩ませた。今思い返しても正しい悩みだと思う。

 結局、僕は親を殺さなかった。いくつか理由はあるが、特に大きなものが二つある。まず一つは僕が愛読書にしていた『トライガン』という漫画の主人公が絶対に人を殺さないキャラクターだったこと、もう一つは僕が殺人を犯せば、自分がネットに書いた小説やキャラクターはすべて『殺人者の創作物』として社会に発表されてしまうからだった。

 僕が京田辺警察官殺害事件に対して、特別な思い入れがあるのはそれが理由だ。当時の自分とまったく同じ世代の女の子が、親を殺した。僕は正直、犯人である彼女に自分を重ねていたし、僕だって学校をサボってトライガンを読んだり小説を書いたりしていなかったら、家族を殺していたかもしれない。この事件に対して特別な思い入れがあるのはそのためだ。僕はトライガンという作品で救われたが、彼女は世間からひぐらしを読んで親を殺したと云われてしまった。

 今でも僕は覚えている。無責任なコメンテーターたちが、くそったれな大人たちが、本来自分たちが責任を負ってあげるべき十代の子どもに、その殺人に至る理由を「アニメや漫画などサブカルチャーの影響」と簡単に結論し、とても雑に扱ったことを。はっきりと断言するが、あれはマスメディア的な、情報というものによって行われる一種のレイプだった。彼女は殺人を犯したが、それに対する罰は下される。だが罰する権利のない人間が、十代の犯罪者を、まるで錦の御旗の下にいるように叩き上げた。

 今でも思うが、あの大人たちは表現者全員にとっての敵だろう。自分の作品のファンがだれかを殺したとき、その作品が彼らのスケープゴートになる。自分たち大人がどうにもできなかった問題を、だれかの作品による影響にしておきたい人たち。もうしばらくいないと思っていたが、あの件以降も彼らは定期的に現れるようだ。

 僕が殺意を向けるのは、あの事件の原因を「ある作品を読んだことで起きたもの」と結論づけ、無責任さを露呈する大人たちだ。どうにも、そのときから僕の中の怒りは家族ではなく彼らに向いているらしい。どうにかして僕の物語で殺してやりたいと思う。(ここで僕の云う『殺す』とは『失くしたい』という意味だ。人を殺すかどうか悩んだ話と殺人と作品を結びつけられた事件の話をしたあと、『作品を書くことで根絶したい』という願いを殺意に例えているのだが、このところ文章をまともに読めない人が多いようなので念のため注釈します。なんでこの俺様があんな教養のない連中のためにいちいち自分の文章の解説なんて書かなければいかんのだ?)

 今、たしかに云えるのは、僕が文章を選んでいるのは、物語を選んでいるのは、僕自身が物語に人生を救われたからだ。ありていに云ってしまえば。だから、ここからもう少し踏み込んだ話をしよう。何かを訴える上で、物語は僕にとって最高の手段だ。これに決着する。一番伝えたいことを、最も伝えやすいものが文章である。僕にとって物語は宗教。執筆とは信仰心のようなものだ。そして神は言葉に宿る。

 その上で、自分の作品によって死ぬ人が減ったり、人死にを作品のせいにするような莫迦な大人が減ればいいと思っている。物語や言葉といったものは、僕の人生のなかでそう使っていきたい。(GiZAIYA)

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