「映画の意味は自分の頭で考えて欲しい」との余白を受け取ったので咀嚼した言葉をお返しします。
私は映画と本が好きだ。
小学生のときに絵本の感想文で福岡県の読書感想文で入賞して嬉しかった
気持ちは今も隣にあるくらい。
誰かから受け取ったメッセージを自分の言葉の解釈に落としてもう1度、
他の誰かに残る形で文字に書くのが好きだ。
これまで映画や本の感想文をNOTEに書こうか否か迷ってきたが
必死で届けたいメッセージを届けるコンテンツ作成と
向き合っている人たちへのリスペクトも含めて、
もしも私が伝えたいメッセージを作り手から誤って受け取り、
誰か1人でも誤解を招く解釈で伝達してはならない。
影響力の低い1市民の発信とはいえ、そんな倫理観にさいなまれ、
感想は心で留めておくことが多かった。
ただ、先月公開された宮崎 駿さんの「君たちはどう生きるか?」については
「映画の意味は自分の頭で考えて欲しい」との余白を受け取ったので
咀嚼した言葉をこの場を借りてお返しします。
感想:「わからない」が故に傑作だった
結論、私としては傑作でした。
「人間として生きる」ということの
憎しみ、虚しさ、儚さ、美しさ、汚さ、ぎゅっと詰め込まれていた。
あまりに映画の中に詰め込まれすぎていて、
映画を見た後は「お腹いっぱい。分けわからん。」と思いましたが、
「わからない」を放っておくことが大っ嫌いな私は
なるべく理解しようと自分の内側にある感性と理性を作品に寄せてみて、
詰め込んだものを時間をかけてかみ砕いて血肉にしていく。
どちらかというと映画の後のそのプロセスがあったからこそ傑作だと思えた
考察した問い①:少年の起点となる感情はどこにあるか?
起点:少年は「愛されたかったのか?」「孤独を乗り越えたかったのか?」
~ストーリーのはじまりの私の解釈を含めた要約~
少年は亡くなった母の愛を失った現実を受け入れられず、苦しむ。
故に母の愛を失った苦しみに寄り添ってくれる義母の愛は拒み、
孤独に寄り添うことのない自分勝手な父親を憎む。
ただ、言葉で少年がそういった訳ではない。
少年は何も言わず、心の中でうずくトラウマに近い体験や絡み合う感情を飲み込み、暴走するのを飲み込んでいい子でいる。
言葉を飲み込んだ代わりに自分の頭を自分で殴り出血させ、
作戦通り母親を困らせ、父親の関心を自分に向けることに成功する。
少年がベッドの上で暴走する内なる感情と向き合う中で
アオサギが心の声をかき乱し、
少年が自分の心をコントロールできないように
向き合いたくない現実を突きつけ
少年の心をより取り乱す。
~ストーリーのはじまりの私の考察~
少年はアオサギと「戦う」ことを選択する。
これ、現実世界でもよくあることで。
でも、思い出してほしい。
この戦いのスタートは少年の現実を受け入れない
未熟な心からスタートしている。
「愛されたかったのか?」「孤独を乗り越えたかったのか?」
本当のお母さんに会いたい。
もしかしたら死んでいないのかもしれない。
もう1度愛されたい。孤独を乗り越えたい。
私も気持ちはわからないことはないので
適度に心は痛んだ。
でも、どれだけ心を痛めたって現実を受け入れることでしか救われない。
母は死んだ。
少年は孤独な気持ちに寄り添ってくれる存在さえもいない。
これはどれだけ逃げても事実なのである。
現実社会でも人間は自分が向き合いたくない心の声を
うるさく外から投げかける対象に
対しては人間は「逃げる」もしくは「戦う」選択をとる。
でも本当に必要なのは「受け入れる」とのことなのだ。
現実から目を背けず、
真実を伝えてくる対象と戦わない。逃げない。
受け入れていたら、雑音にしか聞こえず
本来は反応しないのだ。
「母は死んだ、あなたは今、愛される存在はいない」
-「そうですよ」
「お前は孤独だ、誰もお前の気持ちだってわかっちゃいない」
-「そうですよ」
で済むものをアオサギについて行き、
未来のために義母を探したいのか、
受け入れられぬ過去の中に
本当の母親に会いたいのかさえも自分でわからぬまま
自分の取り乱した心のまま異世界へと導かれるのだ。
取り乱していたからこそ、導かれたと言えるのかもしれない。
考察したい問い②
生死の境界線に起きる矛盾と少年の心はどう連動していたか?
義母を探すとの名目で足を踏み入れた場所は
「生まれると死ぬが同時に発生する異空間」に少年は導かれ、
義母を探す旅に出る。
~この異空間で出会う体験の私の解釈を含めた要約~
ワラワラという生命の卵と
生命の卵を無慈悲に食べつくすペリカンたち。
無慈悲なペリカンにも理由があることを知り、
羽が折れたペリカンを埋葬してあげる少年。
少年は自分の母親ヒミに出会い、
ヒミに助けられ、ご飯を与えられ、
守られる存在として母の愛を久しぶりに感じる。
義母と再会し、
義母に拒否をされるが義母のことを
「お母さん」と呼び、認める。
インコにつかまり、人質とされる。
天国のような空間で大叔父と出会う。
石を積み上げることで世界の均衡を保つように
後を継いでほしいと大叔父は少年に頼む。
少年は現実を受け入れ、自分を許し他者を許した
少年は旅のプロセスで自分の置かれた現実を
生と死の狭間にある外的な刺激ある環境で
自分を見つめ直し、自分を許した。
他者を受け入れ、他者を許した。
そして、許すことで自分が救われることも知ったのだろう。
「許す」との明確なシーンはなかったが
許すことで心にある自己矛盾がほどけ、
他者への許しにも繋がったと考えられる。
人間も本来はわけのわからぬ感情を持つことや
他者から向けられるわけのわからぬ感情や、
想定外の出来事の中に起きる矛盾を
受け入れて、許すしかない。許すことで救われる。
考察したい問い③:大叔父は何もので君は誰だ?
大叔父は石を積み上げて世界の均衡を保っているらしい。
天国のような平和と愛に溢れた場所で。
投影しているものが少年は幼き宮崎駿だとしたら
大叔父は現在の宮崎駿なのだろうか?
そう仮説を立てるのであれば、
石は必死の想いで世界の平和と愛ある世界を目指して
悪意なきものを積み上げて作品を通して
均衡を保ってきたと思ったが
悪意のバランスをとっただけであり、
また悪意ある力ある権力者たちの暴走は止められなかった。
そして、その要因は少年が後は継げないとの理由として述べた
この傷は「悪意」。
「愛されたい」「孤独を乗り越えたい」そう思ってつけた
自分への傷があるので石は積み上げないと拒否するシーンと
結べるだろうか?
悪意を取り除き悪意なきものとして美しい世界を描き、
悪と戦い、美しさを守ってきたが
自分の正義の根源が悪だったので崩壊した。これで終わりにするとの隠喩だろうか。
多少、解釈が強引な気がしてならない。。。
が、結論、石並べと大叔父と少年の関係性は私は解釈しきれぬでした、、
私が今24歳なので45歳くらいにまたこの映画を見返してみようと思います。
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悪意のない愛と平和のある世界を作るために自分の悪意を削ぎ落としてきたにも関わらず、悪意の均衡を美しい場所からとっていただけではなかろうか。自伝の映画にも関わらずタイトルを”僕たちはどう生きるか?”に出来なかったことが唯一の彼の弱さなのだろうか。
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少年は汚い世界に戻り、友情や愛を大切に生きると覚悟したことで
最後、ヒミから「お前を生めるなんて幸せじゃないか」と大きな愛の言葉をもらう。母親のヒミから自分が死ぬのをわかっていても、彼を生むために
生きる世界に戻りたいと笑顔で言ってもらえるなんて
少年はもう「愛されたい」「孤独を乗り越えたい」
そんな感情もわかないくらいに心が満たされたであろう。
大叔父は後世のために美しい世界を残そうと孤独に奮闘してきたにも
関わらず、子孫から拒まれる結果となったことが私には何よりも虚しく感じたのであった。
<最後に>
天才は天才のまま孤独に死ぬ。
私は天才が愛される社会を作りたい。
天才が力で支配するのではなく、力ある人が愛を受け取れるようにしたい。
私はこれまで、あなたが残してくれた作品を愛し、
より良い未来を生きるこどもたちに残すために力を使うと。
いただいた忠告を守りながら。
そう私の心で感じた。