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感情と感謝のサンバ

 人間とは常にリアクションを求める生き物らしい、ということを納得したのは長じてからしばらく経った後のことのように思う。

そもそも感情表現って要る?

 そりゃ筆者にだって感情がないわけじゃない。ウンコネタが出てきたら一発で笑うし、気心の知れた仲なら感情表現もそれなりにする。

 が、そもそも普段の仕事というのは「やるべきをやる」オンリーで、そこに感情を差し挟む余地など1ミリもない。仕事のスタンスとして、求められたものを差し出す以外のことはしないしできない。むしろ仕事以外に割く労力と時間がない上、法律の縛りも監査・査察の目も厳しいのでリソースを節約したいという事情もある。年がら年中怒りながら仕事するやつもいるが、よくそんな体力に溢れかえっているものだ。うらやましいね。

 ただ人によってはプライベートと仕事を完全に切り分けていなかったり、他人との感情のやりとりをしたりする。そういう人間もいるのは知っているので、その欲求を私に向けさえしなければ「ほどほどにしておけ」と言うくらいで留める。が、問題なのは「そういう人間」であるところの後輩から頂いたご意見だ。

「無表情で怖い」

素材提供:いらすとや

 OK、君のいいたいことはわかった。明日からこれ着けて出勤する。

 相手の表情に変化がないと自分と同じ人間だと認識できなくて不安になる、という人種は往々にしているものだ。というかそっちの方が多数派らしい。知らんけど。

 つまり、後輩は「俺が困るからお前は笑うか何かしておけ」と言っているのである。感情表現であればなんでもよいというのであれば、また別の選択肢が発生する。

素材提供:いらすとや

 こういうのでも構わないということだ。私は疲れるので怒ることも笑うこともしたくないが、求められたのなら仕方ない。人間とは堕落する生き物であるから、職場にも少しくらい危機感が必要だろう。戸愚呂弟の言うことはだいたい正しい。

 ついでに筋トレも本腰入れて戸愚呂弟を目指そうか。あれは人体の不思議そのものみたいなキャラクターだ。


人は己の欲をルールと錯覚する

 殆どの場合「誰かに何かをしてあげたい」という欲には「喜んでほしい・感謝されたい」欲がセットになっている。というかむしろ、後者がメインの欲であり、前者はそのための手段である。

 一般的な道徳・倫理として「何かしてもらったら感謝しなさい」というのがある。まあ、それは上記の欲による原理をうまく動かす上では正しいリアクションなのだろう。感謝を示さない人間は恩知らずとしてコミュニティから追放されるリスクが上がるため、今後もコミュニティの恩恵に与りたいならひとまず言葉で「ありがとう」と言っておくのが無難である。

 かの偉大なるラッパー・エミネムも「ありがとう・おねがいします・失せろクソ野郎の三つが言えればおk」と言ってたくらい、最低限の感謝の言葉は大事だ。というか昨今まともに挨拶できないやつの方が多いので、挨拶ができるだけで人権を得られるまである。

 ただし、奉仕が一個人の欲求であるということを忘れた人間の押しつけがましさは傍迷惑なものである。一度怒らせると「俺の奉仕で喜ばないお前は非倫理的な人間だ」と攻撃してくるので大概面倒だ。その手の人間が一番恐れることは「自分が間違っていると証明されること」、および「幻滅されて周りが離れていくこと」である。

 そういうわけで、相手に聞く耳があるならこっそりと「ありがたいがありがたくないので次からはやり方を改めてくれ」と伝えるか、それがダメならコミュニティを離れて他の場所へ移り住むのがベストだろう。聞く耳をもたないやつはどうにもならないので、お互いの利害が衝突するのは仕方ないと思って諦めるしかない。


 余談だが、正しい知識が伴わないばかりに蕎麦アレルギー患者に蕎麦を食わすような真似をする狂人もまれによくいる(筆者注:世の中には毒に慣らせば毒が効かなくなる的なノリで食品アレルギーが治ると思っている奴がマジで一定数存在する。まともな医療知識のない一般人の方が一般的と思え)。そのような場面に出くわしたら問答無用で緊急避難するのが第一である。また余裕があれば法的根拠を揃えて然るべき窓口へ行くべきだ。

 経験則として、倫理をタテに自分の居場所を確保しようとするやつにろくな人間はいない。人がよさそうに見えても警戒と自衛を怠るべからず、最悪の場合は「善意で」死ぬことになる。

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