コミュ障の改善に取り組んだ5年間の記録① 「コミュ障っぷりと5つの改善策」
今となれば誰も信じてくれないが、
僕は紛れもないコミュ障だった。
信じてくれるのは小中を共に過ごした地元の同級生と、高校時代の野球部のチームメイトくらいだろう。
まず一つ目の証拠は実家にある。
本棚に中学の卒業アルバムを保管してるのだが、そのアルバムケースの中に当時の寄せ書きが入っている。それが動かぬ何よりの証拠だ。
その寄せ書きには、卒業時=中3の時のクラスメイト全員からのメッセージが書いてあるのだが…なんと…メッセージの過半数が…「あまり話したこと無かったけど…」の枕詞で始まっている。笑
その殺傷能力たるや…お分かり頂けるだろうか?
人の命さえ奪いかねない切れ味である。
スクールカースト上のポジショニングが如実に現れている。
これは担任の先生の発案だった。
全員に1枚ずつ色紙が配られ(卒アルの裏表紙だったかな…記憶が曖昧…)、それを席順に回覧することで、クラスメイト全員のメッセージが集まるという仕組みだった。
今でも当時の感情を憶えている。
回覧されている自分の色紙を遠目でカンニングしながら「余白多過ぎツラ。死ねる。」と思っていた。
同時に、予想通りでもあった。
同級生約100人とは小学校入学から数えて丸9年も同じ学校に通った縁だが、僕のスクールカーストポジションは小3を境に転がり落ちた。
その経過を記事にするのも面白そうだから、気が向いたらこれもnoteに書こうと思う。僕がその間、どう変化したのか。周りがどう変化したのか。多感な時期の人間関係。
その多感な時期を経て、僕は小学校から中学校までを過ごしたの地元の"村"から出たくて、同級生があまり進学しない高校を選んだ。
さて、お次はその高校時代だ。
高校球児として3年間過ごした僕が、誰より一緒に過ごした仲間といえばもちろん野球部のチームメイトだ。家族よりも長い時間を共に過ごし、苦楽を共にした。
更に僕のポジションはピッチャーだったので、コンビを組む(野球用語で「バッテリーを組む」と言う)キャッチャーとは特に関わりが深かった。
野球に詳しく無い人に向けて補足すると、キャッチャーというのはピッチャーの『女房役』とも言われ、試合に勝つために二人三脚で頑張る役目がある。
その関係性はよく「絆」や「信頼」などと表現され、正に夫婦さながらの精神的な繋がりが必要&重要とされている。
そんな長年連れ添った、高校時代の"女房"に僕は引退後にこう言われた。
「ジローの事だけは最後まで良くわからんかった。」
3年間、何球彼に受けて貰っただろう。
何度彼とサインのやり取りをしただろう。
彼を信じて何度チャレンジしただろう。
ピンチの時、彼に何度励まされただろう。
恋愛ドラマの別れ文句みたいだ。
いや、思い出した。
実際に別れ際にもそう言われたことあるな。
笑い事じゃねぇど。
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僕のコミュ障具合、少しは感じて頂けたのではないだろうか。
すべてノンフィクションだ。
上記ストーリーの登場人物を証人喚問したっていい。
そんな私だが、19歳〜24歳の5年の歳月を掛け、下記の5つのステップを踏んでコミュ障を改善した。
STEP ① リアクションは大きく
② 良いと思う事は言う
③ 行間を読む
④ 声を張る
⑤ 笑顔の練習
次回からはこの5つについて、細かく解説していきたい。この記事が誰かの役に立てますように。
では。
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