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ていねいな生活と怒り
ちょっとの間に・すぐに・さらに・恐ろしいことが起こる、政府によって。だからわたしはそれをSNSにシェアせざるを得ない。だって知ってほしいから。このままじゃ、どんどん生活が苦しくなっていく。
SNSだけ見てるとわたしはどんな人に見えるんだろうか?と思うときもある。たぶん怒ってばっかりの人、ううん、「人」にも見えないんだろうな。ただ情報を流すbotみたいな。
わたしも実はそう思ってる。たくさん情報を流してくれるアカウントの「肉体」を想像するのは難しい。だけど実は、ほとんどすべてのリツイートは自動じゃなくて手動だし、ほとんどすべてのいいねも自動じゃなくて手動なのだ。「手動」そこには人間の肉体がある。
今日は洗濯を干して、床を磨いて、カレーをつくった。これまで昼間は外に出て、仕事を片付けていたけれど、それをやめて家の中だけにいることにした。(感染症対策である)家にはわがままでかわいい犬がいて、しょっちゅうわめいたり、自傷したりするから、わたしは机にも向かえない。犬を抱いて、ソファに座って、ソファの手すりに不安定にPCを置いて仕事している。ストレスは半端ない。でも、はたからみたら「ていねいな生活」に見えるだろう。
「ていねいな生活」とは世俗から離れてなんぼ、という印象がある。お金とか、政治とか、そういうものと離れて、一人で静かに家事をする。それが一番美しい、みたいな。実は『クロワッサン』とかを読むと全然そんなことないなということがわかるんだけど、一部の(糸井重里とかの)つくりだす「ていねいな生活」にはそういう「強制力」があった。政治とかお金のことなんて、自分のはんちゅうにないことを考えるなんて、驕りだ、もしくは欲求不満だ。恥ずかしいと思え。自分の生活が満たされていれば、社会になんて不満を持たないはずだ…みたいな。
ばかばかしい考えだ。しかし反論しきる言葉をわたしは持っていなかった。わたしはTwitterで政治の話をしながら、LINEで人と政治の話をしながら、その実、自分がやっているのが「ていねいな生活」であることを恥じていた。
どんどんと減るフォロワーを眺めながら考え事をしていたそのとき、Twitterでこの文章を見つけた。
「ていねいに暮らす」とは、何も毎回出汁を取るとかだけではなく、身の回りのことにきちんと視線を向けることでもある。政治も選挙もそう。
— たんじふみひこ (@tanjibrico) March 25, 2020
人の命を守ろうとしない政府や行政に対し「何をやってるんだ」「いい加減にしろ」と怒ることも、大切な暮らしの一部です。#私たちは怒っていい
「ていねいに暮らす」とは、何も毎回出汁を取るとかだけではなく、身の回りのことにきちんと視線を向けることでもある。政治も選挙もそう。
人の命を守ろうとしない政府や行政に対し「何をやってるんだ」「いい加減にしろ」と怒ることも、大切な暮らしの一部です。
#私たちは怒っていい
この文章を読んで、なんだかすごく心が救われた。わたしがひとさまから見て、なんだか優雅で地に足ついてない「ていねいな生活」をやっていても、政治に怒っていいのだ。だって、「ていねいな生活」とは身の回りのことにきちんと視線を向けることだから。そして日本という国家に暮らすわたしの身の回りには、必ず、政治や社会があるのだから。
≪ 人の命を守ろうとしない政府や行政に対し「何をやってるんだ」「いい加減にしろ」と怒ることも、大切な暮らしの一部です。 ≫
この言葉を胸に刻もうと思う。だからもう一度言う。わたしはわたしのために生活を続ける。生活の中には、政治があり社会があり、それを厳しく見張り、おかしいことが起きたら声をあげることも、当然含まれている。わたしは正しい。わたしはまちがってない。
Mary Yoshi