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Love is Bird.
泣いた後みたいに目と鼻が乾燥している。泣いてはいない。
今日はAMの担当の大川さんと電話をした。いろいろな話をしたけれど(いろいろな話を聞いてもらえたけれど)、最後にお互いを励ますような話ができた。とても嬉しい時間だった。
今、この世界に物語なんて必要なんだろうか?そう考えていた期間が長らくあった。だけど今、間違いなく必要だと思っている。この理由についてはまた今度。
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今、わたしは、優しい男の子と女の子の物語を書きたい。シチュエーションを探している。ふさわしい二人の男女のシチュエーションを。さわやかな印象の話にしたい。色で言うと薄いオレンジから水色へのグラデーションのような。絶え間ない個人への賛美の歌にしたい。そう、個人への、賛美。
かけがえのない個人は大きな権力のうねりの中では脆く、あっという間に壊されてしまう。壊れた個人は押しなべて同じような鋳型に入れられてしまう。だけど違う。だから守りたい。守るために物語を書く。
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演出論。
演出をつけるとき、大変気をつけていても、俳優に「よしもとみおりの理想の人間・仕草」をやらせてしまうことがある。とくに男性俳優に対しては顕著だ。「よしもとみおりの理想の男・仕草」をやらせてしまう。≪見たいものへの欲≫が自然とそうさせてしまう。無自覚に。だから、結局のところ戯曲に書かれた人物がどうであろうと似たようなキャラクターになることが多い。
そう考えると演出というのは罪深い仕事だ。脚本家が頭をつかってつくりあげた多様性も、演出家の感性によって一瞬で均一な形につぶされてしまう。
一方、その演出家のワンマンに立ち向かうのが俳優という役割だと思っている。演出家の均一性にあらがって、一人一人が、かけがえのない個人として舞台の上に立つことではじめて、物語は本来の力を発揮できる。
脚本・演出・俳優の三権分立は必須。忘れないでおきたい。わたしはカリスマになりたくない。おそろしい権力を持った教祖になった演出家をやまほど見てきた。わたしはそうはなりたくない。
分業。演出家の作品における仕事は、本当はもっと細分化できる。細分化したうちの一つが、俳優と時に闘い、時に協力しながら≪キャラクター≫をつくるという仕事だ。
≪ストーリ-≫と≪台詞≫の二つは脚本家が担う。
そして俳優は物語が演出の一視点化によって均一に語られる可能性(おそれ)を打ち壊し、舞台の上に≪多様さ≫を持ち込む仕事を担う。
全員で、劇場より開けた場所へ、物語を届ける。
わたしはそういう演劇を愛している。
今、演劇をやっているすべての人を尊敬している。日本演劇の始祖・島村抱月がスペイン風邪で亡くなっていることを知り、余計に思う。演劇をやっている人がみんな何事もありませんように。
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愛と物語は極個人的なことで、極個人的なことはクリエイティブなことである。押しつぶされそうな世情の中、極個人的であること、クリエイティブであることに大手を振ってOKを出すために、何も不謹慎なんかじゃないって不安な人を抱きしめるために、恋物語を書いている。
いつかくる破滅までの一瞬の幸福として、男女の和合を描いてきた。でも、そうじゃなくてもいいよね。もちろん二人の愛には終わりが来るかもしれないんだけど、物語の最後はそこじゃなくてもいいよね。
結ばれてめでたしめでたし。なんて観客へ無責任が過ぎるだろ!と思っていた。でも多少は気持ちよいことしてやるか、というサービス精神が復活してきた。
日和見という意味ではない。≪見たいものへ≫がそちらへ移ってきた。シンプルにわたしがそう変わった。
今、パソコンに向かっている。現在進行形で胸の中にいる人について書くことの恥ずかしさがすごくある。だけど今しか書けないかもしれないから書きとめている。人のことを簡単に忘れられたりできないけど、人への気持ちはだんだんと薄まって、気が付いたときにはほとんど無形になってしまうことがあるから。
Love is Bird. 愛は鳥のように羽ばたく。いずれ住処を変えたとしても、あの季節だけは本物だったと、確信をもって言えるように。
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物語を書く。今しか書けないことを。今、物語を求める人のために。わたしにしかできないことがある。わたしにだけ書ける景色がある。その力をもって、あらがう。個人を押しなべて均一にしようとする権力に。同じような鋳型に注ぎ込まれないように。かけがえのない個人でいられるように。