2017.7月
父が入院した。私の家族は祖父、父、母、妹2人。6人です。
つまり、三姉妹。娘だらけの家族。
病院とわたしの職場が1番近くて、着替え、お見舞いにはほぼ毎日通った。
集中治療室(ICU)の看護士さん、担当のドクターとの時間は私の心の支えだった。
職場で父が入院していることを伝えてもあまり深刻に受け止めてもらえなかった。難病だと話しても変わりなく仕事量もそのまま。
思い切って、時短勤務を提案したら繁忙期でないから良いよと言った次の日から1時間はやく帰える生活にシフトした。
集中治療室は第一親等までしか入室はできません。妻、子供。
父に会いにきた親戚、関係者はたくさんいましたが、
集中治療室という場所は生きるか死ぬか
生命の一番危機の時にいる場所です。お隣は毎日のように交通事故で緊急搬送された方がうなり声を上げている。
反対側ではおじいさんが意識不明で眠っていてそのご家族が泣いている。
父はだいたい真ん中にいつもベッドの上に寝ていた。
彼だけ頭はしっかり意識があり、身体の神経がうまく働かないため体が動かせず、喉を切開され呼吸をしていた。自発呼吸もできないくらい、神経が全く動かない。
表情で機嫌、意思、伝えたいことを読みとっていた。
看護士たちは排泄、身体を拭いたり、私ならどうしたら良いか分からないことをテキパキこなし、寝ている父に話かけていた。
「耳は聞こえているからたくさん話しかけてね。」
「パパ、今日は○月○日⭐︎曜日だよ。天気は晴れてる。」
後日談だが、父は意識があったので全部聞こえていて日付感覚、季節が7月に変わっていたのも分かっていたけど話せなかったらしい。
集中治療室の壁に看護士さんが手作りの画用紙で季節のお花とカレンダーの作品が貼られていて毎日チェックしていたらしい。笑
確かに、目は開いていた。(閉じることが少し難しいとも言える)目が乾燥しないように目薬もこまめに看護士さんは点眼してくださっていました。
ドクターも「ギランバレー症候群は治る病気だからね。富山では症例が少なく、この病院では初めてのことで最善をつくす。」と言って私は励まされた。
10万人に1人がかかる病気。
父はギランバレーの原因究明になるのであれば、自分の体に起きているデータを学会などで使用しても良いと事前に一般病棟で承諾していた。
すごく父らしい行動だ。彼は教師。
自分の身に起きたことをすべて提供し医学の発達に、自分ができることを行動したのです。
いつの日かより良い薬、治療、原因究明のためならと。。
仕事、面会終えてから、読書と休憩がルーティン化。
こんなコーヒーブレイクも長い入院生活を支えるには良い息抜きになっていたと思う。
(この頃、食べても痩せて周りからどんどん痩せていくと心配されていた。)