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わたしも国民だったなら『劇場版 美しい彼〜eternal〜』感想

【はじめに】
このたび『劇場版 美しい彼〜eternal〜』を観てきました。
本感想では映画に対する批判・批評や原作と映画を比較する箇所が多々出てきます。映画が100%良かったという方で、かつマイナスな意見・感情・考察を見たくない方にはおすすめしません。(内容的に、平良と清居の恋愛模様だけが描かれていれば満足できるという方にもおすすめしません)
原作と実写は別物として考えろ!実写はパラレルワールドとして受け止めろ!と言われたらきっとそれが正解なんだと思いますが、それを分かった上でなおどうしても諦めきれない泥のような思いを綴っています。自分の気持ちを言語化し整理するためのものであり、決して作品への悪意はありません。
※章構成の都合上、シーンの記載は時系列順ではありません。
※劇場版はまだ二回しか観ていないので、台詞の言い回しや細かな流れについて曖昧になっている可能性があります。
※パンフについては売り切れで購入出来なかったため未読です。

1.『劇場版 美しい彼』が描きたかったもの

1-1. ロマンの追及によるリアリティの喪失

最初は個人的に好きだった箇所について述べようと思う。
平良と清居の周辺人物に関して、原作の解像度が上がるぐらい魅力的に映るような描き方がなされていたのでそこは素直にもうめちゃくちゃ嬉しかった。
キャスト発表の段階では思っていたイメージと結構印象違うなあという感情もあったので、実写ではどういう雰囲気になるのかと思っていたが、野口さんも安奈も桐谷も、原作で描かれていた要素やイメージを組み込んだうえでより人間的魅力が感じられるような人物像に仕上がっていたのでとても嬉しい。個人的には、特に特に特に野口さんが好きすぎる。「ラーメン食べたい!!!!!("い"にアクセント記号)」があまりにも良すぎて、初見時は劇場で爆笑してしまった。野口さんは間違いなく今作のMVPだと思っている。
シーンでいえばお風呂と鏡を合体させるという一石二鳥なアイデアには思わず拍手を贈ったし、ちょっとずつ変化していく平良と清居の日常で構成される前半部分については、「あーっあそこをここに持ってきたんだ」「そこをそう描くんだ〜」など時折原作と照らし合わせたりするなどして観ていてとても楽しむことが出来た。

その一方で、劇場版では全体を通して平良と清居、そしてそれに伴う事象をいかにロマンチックに美しく撮るかということに重きが置かれすぎていて、私が原作『美しい彼』で好きだったリアリティ部分がかなり削ぎ落とされていたように感じた。

まず、アヒル隊長の使い方である。
原作で、平良がただ一方的に救いを求めイマジナリー師匠とすることで自身の生き方の指針にしていたアヒル隊長は、センシティブ場面でお色気シーンのワーオ的立ち位置に使われる。さらに観客に「これ以上は見せられないよ!」を表すため、ぷかぷかとお風呂から流されていく(S2ではリボンで目隠しをされている)
この演出によって、「私達はいま平良と清居のあれこれを盗み見ているんだ」と突如自覚させられることになるのだ。いや勿論見ていることに変わりはないのだが、私達の視線イコールアヒル隊長の視線だとはっきり自覚させられるのである。
この演出を含め劇場版(+S2)は総じて、アヒル隊長を美彼ファンの概念・集合体のように映しているのだと感じた。

次に、設楽が清居を拉致した時の拘束具が結束バンドから赤いリボンに変更されている点である。正直ここが一番納得いっていない。
試写会で酒井監督が「囚われの姫(プリンセス)」をイメージして演出したと仰っていたようだが、清居を姫だと思っているのは正直制作陣やファンだけではないのだろうか。
設楽という人物の性格をどれだけ考えてみても、彼があれだけ大事にしていた自分と推しの出会いを繋ぐ赤い糸(リボン)で清居を拘束するとはどうしても思えなかった。それこそが設楽のヤバさだと解釈する人もいるかもしれないが、私はかなり設楽に感情移入して作品を見ていた自覚があるので、あの彼がそんなことをするわけないだろうという意識が高まってしまったのだ。

あの時点での設楽は確かにかなりねじ曲がってしまっているが、それでもまだ安奈に対する最後の望みを捨て切れてはいないという状態だ。自分と安奈が繋がっている/繋がれると信じている。
設楽の防波堤を破壊したのは清居だが、あくまでも破壊しただけである。設楽は清居を、安奈を確実に呼び出すための都合のいい餌として利用していただけにすぎず(設楽からすれば、ここで自分から安奈を拉致するのでは意味がないのである。安奈と自分が繋がっていると信じるために、安奈に安奈の意思で来てもらうことが重要なのだ)彼にしてみれば自分と安奈の連絡手段となってくれた清居はプラスチックの結束バンドレベルの存在でしかないのである。神聖な赤い糸で結ばれているのは、あくまでも自分と安奈だけなのだ。
そう考えると、この演出は清居に対する制作陣のフェティシズムの表れでしかなく、設楽の人物像を加味した演出であるとは到底考えられない。
もし私が設楽だったら、思い入れのある赤いリボンが清居を美しく撮るためのエッセンスとして使われたと知った日には、多分公式ごと跡形もなく爆破してしまうだろう。

そしてその後にやってくる平良と設楽の取っ組み合いのシーンである。ここについても、正直かなり歯痒い思いをしている。
平良をありったけ格好良く撮りたい、平良の狂信者っぷりをインパクトある画として魅せたい、というその気持ちは分からないでもない。
しかし、設楽と平良を比較して平良の方が頭ひとつ抜きん出てヤバいと思わせたいのであれば、画として魅せる前に説得力を持った思想としての気持ち悪さをしっかりと描く必要があるのではないだろうか。

原作比較の章でも重ねて後述するが、平良の気持ち悪さの根幹は平良の抱く思想とその思想が表れ出た言葉にこそ宿ると思う。
原作にしろ劇場版にしろあの場面での平良の暴力は、なにも狂信者決勝戦の勝敗をつけるために行ったものではない。何よりも大切な清居を守るために取った行動、つまり彼氏力が爆発した結果である。にも関わらず、劇場版の取っ組み合いシーンでは、あの瞬間の暴力が彼氏力だけでなく平良の狂信者としての格上さも内包しているかのように演出されているのだ。
設楽との狂信者対決に彼氏力という名の暴力は一切関係ない。どちらがより信者として強くイカれているかを競うためには、互いが互いの思想を開示しぶつけあう必要がある。原作でそれがなされているように、暴力の前にまずしっかりとした対話を描き思想と言葉で設楽を圧倒させなければならないのだ。

平良の暴力については、ドラマのS1でも描かれている。S1第3話(清居視点だと第5話)で、清居が城田からトマトジュースをぶっかけられ、それにブチ切れた平良が城田に殴りかかるシーンだ。このシーンは、平良/清居それぞれの視点によって見えている世界が異なるという手法を取ることによって実に素晴らしい演出になっていたと思う。

ここであのシーンの暴力の意味について、改めて振り返ってみたい。あのシーンでの平良の暴力は狂信の先にある自己の救済だった。

「違うよ先生。清居を助けたんじゃない。むしろ逆だ。清居のおかげで、自分は自分を助けられたんだ」

ドラマ『美しい彼』シーズン1 第3話より

ドラマでも原作でも言及されているように、あの時の平良の暴力は清居をただ助けるためのものではなく(結果的に助けたし、少なからず平良の「自分なんかが清居を助けるだなんておこがましい」精神も入っているのだが)今まで汚水を流されていくだけだった自分を、清居への狂信という絶大な力に頼ることで救うためのものだったのである。狂信の力による自己救済を象徴するシーンなのだ。晴れて清居の彼氏となってから清居を守るために振るった平良の暴力とは、そもそもの意味合いが全く違うのである。

では、なぜこんなにも劇場版での取っ組み合いシーンに忌避感を感じているのか。それは、意味が違うはずの場面をエモさのためにオマージュすることで、劇場版における暴力の意味や演出がドラマでの狂信者イメージに引っ張られてしまい、結果として彼氏としての平良の行動と狂信者としての平良の行動が暴力の一点に集約されてしまったからだろう。
多くの人は、劇場版を見て、高校の頃我を忘れて城田を殴った平良をそのまま思い出したのではないだろうか。そして「あの時の平良だ〜ッ!」と興奮したのではないだろうか(中盤で清居が「お前、変わった。城田を殴った時のお前はもういないのか」的なことを言うので彷彿とさせられて当然なのだが)
しかし実際には、我を忘れながら自分を守るため狂ったように戦った高校時代の平良と、はっきりとした意思を持って清居を守るために戦った劇場版の平良とでは暴力の意味合いが違ってくる。であれば、劇場版の演出もそれに沿ったものにしなければならないのではないだろうか。

そして、そもそもの話敵(ここではあえて敵と呼ばせてもらう)の種類自体もまるっきり異なっているのである。
S1の敵である城田と、劇場版の敵である設楽は人間としてのジャンルが全くの別物だ。スクールカースト上位の城田と、レベルや思想は違えど平良と同じ狂信者仲間である設楽。前者ではまるっきり立場の違う相手に下剋上をする必要があるので、物理的暴力という手段に頼るしか選択肢はなかったが、後者では逆に同じ土俵で戦う必要があるので物理的暴力よりも先に相手を諭すための精神的暴力(言葉)を行使するべきだったのだ。どんな相手とどんな土俵で戦うかによって、必要となるメイン武器は異なってくるはずだ。それらを混同して描くべきではない。

エモさとロマンを追及するのが悪いわけではないし、それによって得られるカタルシスが作品の魅力を増幅させることは往々にしてあるだろう。しかし、それらの追及によってキャラクターの本質が損なわれることがあってはならないと強く思う。

1-2. 外側から見る物語、内側から見る物語

エモさとロマンチックに溢れたシーンでいうと、ラストの音楽室以降の流れがまず挙げられるだろう。
懐かしの母校に忍び込み、思い出の音楽室であの頃出来なかった写真撮影のやり直しをする。そして書面での契約よりももっと重い、永遠の契りを交わしあった二人の結婚式は厳かに執り行われ、神父である先生が証人となり、思い出の空間を駆け回る二人は存在しなかった(しかし誰もが存在してほしいと願ったであろう)高校時代の思い出と混ざりあってゆく──。

このシーンに、私はなぜか未来ではなく過去の匂いを感じ取ってしまった。
S1のオマージュと挙式とエモをやりたかったのは凄く分かるのだが、存在しなかった思い出の二人と現在の二人が重なり合う演出を見ていると、あの頃の二人の残像が今もまだ思い出の場所で生き続けている(ある意味では意思を持った霊のように)そんなふうに思えてしまったのだ。あのシーンを見てこんなにも後ろ向きなことを思っているのは私ぐらいだと思うのだが、思ってしまったものは仕方がない。

そういった映像表現は、別れるカップルがまだ幸せだった頃を描く時や、主人公がもう二度と会えない愛しの人を思い返す時、走馬灯など……どちらかというと切ない場面でぴったりハマるような気がしていたので、これからの人生をともに生きていく、未来ある二人のラストを飾る演出としてはどうなんだろうと小さな違和感を抱いていた。
しかし、よくよく考えてひとつ気づいたことがある。
そもそもあれは、最初から平良と清居視点のシーンではなかったのかもしれないということだ。
あれは制作陣による(ひいては制作陣によって自動的にその流れに組み込まれたファンのための)高校時代のひらきよを振り返るシーンだったのではないだろうか。二人が「俺たちこんなことがあったよな」「こんなことがあったから今こうして結ばれたんだよな」と自分達の過去の思い出を一つ一つ振り返ろうとしていたわけではなく、作り手側やファンがもう二度と戻れない、けれど最高に輝いていたあの頃の二人を振り返っていたのではないだろうか。つまり、スタンドバイひらきよだったのだ。過去の思い出を背に輝かしい未来へと進んでいく二人の背中に「エターナル!」と手を振るための、別れと祝福のシーンだったのだ。

それをどう受け止めるかは観客それぞれに委ねられていると思うが、ストーリーの外側(制作陣やファンのメタ的視線)から内側(キャラクター)に向かって作用していく感覚は、つくづく私向きではなかったなあと痛感させられている。「ここで一緒にひらきよの歩みを振り返ってね」ポイントで私は自動的に入り込むことが出来なかったのだ。なぜなら私は、思った以上にひらきよの人生を、ひらきよ視点で見ていたから。

二人の視点で考えるなら、あの時点での平良と清居はあそこまで過去の感傷に包まれようとはしないのではないだろうか。
もちろん平良はファインダー越しに清居を見ればいつだって十七歳の頃に引き戻されると言っているし、あれはそういった平良の感情を観念的に演出しているシーンでもあるのだろう。しかし、それは視線や感情の向け方の話であって、思い出を懐かしんだりやり直したりすることとはまた違うのではないかとも思う。
目の前の道を歩き続けることに精一杯なあの時点のあの二人にとって、出会った頃の思い出はあそこまでエモーショナルに映らないのではないだろうか。どうしても私には"こちら側"の視線が入っているように見えてならない。

学校のシーンだけでも、かなりS1のオマージュになっている演出が多かった。それ自体は凄くいいと思う。私もオマージュは好きだ。ただし、全部が合わさると演出のくどさが際立ってしまうような気がする。
作り手側が楽しいのは凄く分かるのだが、オマージュは観客にメタ視点を捉えさせる手法なので、作品の種類ややり方、量によっては見る側が作品の外にいるような感覚にさせられるのだなあと改めて実感した。(ただ、作り手と観客が同じ視点で見ている場合起こりにくい現象だと思うので、今回に関しては私みたいな人間以外はそんな感覚などこれっぽっちも抱いていないのだろう。みんな当たり前に二人の結婚式の参列者としての自覚があるのだから)
そういったもの全部を踏まえると、やはり制作陣とファンによる盛大な結婚式・お別れ会感ばかりが際立ってしまっているように思えて、本人達目線で二人の人生譚を純粋に楽しんでいただけの自分からすると、その二人を包み込むいわゆる清居会メンバーのような視線には到底なれなかった。これが私の美彼非国民である所以かもしれない。

2.恋愛描写と成長描写

2-1. 平良にプロとしての自覚は芽生えていたのか

劇場版では、平良のプロとしての意識の芽生えがあまりはっきりと描かれていなかったように感じている。
最初は、平良が安奈/桐谷/清居の三人の写真を撮らなかったことについてかなり疑問を感じていた。わざわざ清居のピンショットに変更する必要性が分からなかったし、そのことでむしろ平良のプロとしての意識の芽生えが見えにくくなってしまったような気がしていたのだ。
それなら、途中から清居も入れて三人で撮るという話になったところで野口さんに「お前も撮ってみろ」と言われ、「むっ無理ですそんな、だって、お、俺が清居を撮るなんてっ」と引き下がってしまう平良に清居からの「撮れよ」の一言──引力めいたものに引き寄せられて平良はシャッターを切る覚悟を決める。そんな流れでもよかったのではないかと思った。

しかし、鑑賞後原作を読み返してみると、三人の写真であっても結局撮影中の平良は清居のことしか目に入っていなかったので、私のこの感じ方は見当違いなのか?別に清居のピンショットでも何も変わらなかったのか?としばらくはグルグルと頭を悩ませていた。
けれど、何度読み返してみてもやはり原作ではプロのカメラマンとして清居を撮る覚悟の芽生えがきちんと感じられる一方で、劇場版を思い返してみるとそのイメージがかなり薄いのである。
この差はおそらく、平良の台詞にあるのだろう。原作の平良は、

「そ、それに野口さんから聞かれたのは『プロとして撮りたいもの』で、でもプロのカメラマンに混じって誰よりも美しく清居を撮れる自信なんてない。技術もない」

凪良ゆう『憎らしい彼』 徳間書店,2020年,299p

と、プロのカメラマンとして写真を撮ることについてしっかりと意識しているのが分かる。

「撮りたいものは清居だけ」「清居を誰よりも美しく撮る」という決意に着地する点は原作も劇場版も同じだが、原作が劇場版と決定的に違うのは、自身のこだわり(撮りたいものは清居だけ)とプロを前にした自信のなさ(清居を撮る勇気はない)の狭間でもだもだして引き返そうとする平良が、清居との対話で自分の気持ちを吐露したことによって、今の状態から変化しなければならないのだとはっきり自覚するところではないだろうか。 そして、そんな平良を見かねた師匠の野口さんがそのままでいいからとりあえずこっちに来い!とプロへの扉を開いてくれるのである。

さらに言えば、原作での平良の撮影シーンは清居以外に安奈と桐谷が加わっているのはもちろんのこと、野口さん含め大勢のスタッフに囲まれた緊張感のある中で行われる。
しかし、劇場版の平良の撮影シーンでは安奈や桐谷、野口さん(恐らく他のスタッフも)がその場で撮影の様子を見ている様子はない。その後のイメージビデオ的な撮影シーンも含めて、完全に二人きりのロマンチックな世界として描かれている。
これは高校時代のプライベートスナップと何が違うのだろうか?

原作では、あくまでも平良はプロの環境に囲まれて撮影をしていた。プロとして撮ることを否応なく要求されながらも、清居以外の撮影対象がその場にいながらも、ファインダー越しにふと清居の横顔を見れば、いつだって十七歳のあの頃に戻って素直な気持ちでシャッターを切れるという流れだった。それにこそこのシーンの意味があったのではないのだろうか。
やはりそう考えると、清居のピンショットではなく三人の写真を撮る必要性がきちんとあったのだと思う。

この流れがまさに平良の変化・成長に繋がる描写だと思っていたので、なぜここを変えてしまったのだろう……という気持ちに未だ苛まれている。
劇場版での撮影シーンは二人のアドリブに任せ、ほとんどのスタッフが外に出て撮影したとインタビューかなにかで語られているのを見たが、それではなおのこと二人だけの世界ではないか。二人だけの世界ではない空間で、引きずり込まれるように二人だけになれる流れが好きだったのに。
二人だけの世界で十七歳の頃に引き戻されるのはそりゃプライベートスナップの時となにも変わらないんだから当たり前だろう、と思うことしか出来なかった。

また、撮影前に清居から「撮れよ」と言われるシーンだけで全部伝わるだろうが!と言う人もいるかもしれない。
しかし、それは削られた野口さんの台詞やそこに至る流れを観客が脳内補完することで、無意識的に意図を汲み取るための協力をしているからではないだろうか。美しい彼知識の一切ない劇場版が初見の人に、平良のプロとしての覚悟は実際どこまで伝わるのだろうか。(演出の余白を推し量ることでちゃんと伝わっているのだとしたら申し訳ない)

河川敷で「お前なんであの二人の写真撮らなかったの。撮ればよかったのに」と言う清居に「撮りたいのは清居だけだ」と宣言するシーンも平良の覚悟に該当するのかもしれないが、ここの台詞も本来原作では野口さんと清居の両者にぶつけるものだった。
しかし清居のみにぶつける流れに変更されたことで、二人の恋愛感情に纏わる気持ちだけが吐露されるシーンになっていたように思う。
これからプロのカメラマンの卵になろうとしている平良の内なる欲望を認めた結果の言葉というよりは、ひらきよをロマンチックに見せるための台詞と化しているように感じられ、そこから「プライベートとしても"プロ"としてもポートレートは清居だけを撮りたい」といったような文脈を読み取ることは、こちらがかなり協力して歩み寄らないと難しかった。
最初から最後までカップルの痴話喧嘩と仲直りをやっているのであって、平良のアイデンティティに纏わる成長描写がほぼないのである。

そう思えてしまうのは、作中での恋愛描写の量に対して、写真に対する平良の内省的感情が劇場版で十分に描かれていないからなのではないだろうか。重ねての言及になるが原作では、

「……そ、それは、その……野口さんに聞かれたのは『プロとして撮りたいもの』って意味で、プライベートで撮るものとプロとして撮るものは、俺は、ち、違うと思うんだ」

凪良ゆう『憎らしい彼』 徳間書店,2020年,224p

「そ、それに野口さんから聞かれたのは『プロとして撮りたいもの』で、でもプロのカメラマンに混じって誰よりも美しく清居を撮れる自信なんてない。技術もない」

凪良ゆう『憎らしい彼』 徳間書店,2020年,299p

などプロとしての写真の向き合い方に苦悩している様子が見られるし、

わからない。わからない。夜空の星の気持ちが、地べたの石ころにわかるはずがない。けれど、それではいけないのかもしれないと初めて思った。

凪良ゆう『憎らしい彼』 徳間書店,2020年,300p

と、強制的にではあるが平良は現状打破の必要性を自覚している。恋人の気持ちは推し量らなければならないのかもしれないと、これからも清居の傍にいるためにはプロとして清居を撮るための覚悟を決めなければいけないのかもしれないと、恋愛と仕事、両方に対する覚悟の芽生えをここで初めてはっきりと自覚するのである。

劇場版でもプロである野口さんの写真に嫉妬する描写はしっかりとあるし、平良の写真に対する感情はもちろん見て取れる。
だが、たとえば原作「撮りたいものはありません」発言について平良を問い詰めた結果、清居が家を出るという清居拉致監禁事件の前夜祭となるシーンも、劇場版では安奈と桐谷のスクープのあと自分達も離れた方がいいとあっさり同居解消を選択する平良に「お前、変わった。城田を殴った時のお前はもういないのか」と清居が詰め寄り、実に恋愛的な意味でのすれ違いにより家を出るシーンに変更されている。(ここはS2の平良との整合性により変更せざるを得なかった箇所であろうが、その点については後述する)

このように、平良の写真への向き合い方に関する描写とそれに伴って湧き上がるであろう感情が(もちろんそこに恋愛的な意味も内包されてはいるのだが)、少しずつ恋愛オンリーの描写・感情に変更されていくことで、そのワンシーンだけを見るなら何も問題なくとも、全体を見ると全てが恋愛に繋がっているかのように見えてしまうのである。
「撮りたいのは清居だけ」がどういう意味での宣言なのか曖昧になってしまい、最終的に全てが清居との恋愛絡みに集約されるイメージを受けてしまったのは上記のような理由だ。
本来、平良の写真に関する出来事やそれに伴う平良・清居の複雑な感情をきっかけに動くシーンが、平良の写真とは関係のない出来事によって動かされてしまうため、平良も清居も恋愛感情の一点のみで動いているように映ってしまうのである。

プロ意識の芽生えが省かれていることに関しては、ひょっとするとS2で「同じステージで清居を撮りたい」というプロとしての自覚に値する台詞をすでに言わせているから、劇場版ではその流れをまるっと省いて挫折からの復活だけを描いたのだろうかとも思った。が、それではやはり描写不足な気がしてならない。
先程も言及したように、S2を見ている人や原作既読の人は無意識に脳内補完をするのでそれでもいいかもしれないが、劇場版から入った人にとっては平良のその覚悟が一切伝わらないということになってしまう。

S2第4話で「撮りたいものはあります」とはっきり野口さんに宣言し「同じステージで清居を撮りたい」と清居に言ってしまっている以上、少し前で言及したような原作台詞を劇場版に入れると辻褄が合わなくなるのは分かる。
しかし、全く同じ内容ではなくともそれこそ少し改変して

「お前は同じステージで俺を撮りたいんじゃなかったのか」
「お、俺にはやっぱり無理だって分かった。プロとして撮るものと、プライベートで撮るものは、違う。俺は、清居を撮りたくない(=「清居を誰よりも美しく撮れる自信がないからプロとしては撮りたくない」の意)」

のような台詞や流れを組み込むことも出来たのではないだろうか。(劇場版ではもう完全に二人の恋愛にフィーチャーして描くんだ!と振り切ってしまっているのだとしたら、何も言えなくなるのだが)

S2の「撮りたいものはあります」→「同じステージで清居を撮りたい」は原作の流れとは違うが、逆にプロを目の当たりにする前の平良の意識の甘さを描写しているようで、新しい着眼点だしよい改変だったとは思っているのだ。
だからこそ、その台詞はS2で終わらせることなくしっかりと引っ張って、劇場版の軸に据えてほしかった。
プロとの違いをまざまざと自覚させられ一度は挫折するけれど、他者との関わり合いの中で今まで押し殺してきた自分のこだわりと欲望を再確認し、今度は本当の本気で"プロとして"清居を撮るんだ!と決意する流れを観念的でロマンチックな演出に頼らずにもっと見せてもらいたかった。その方が恋愛としても自身のアイデンティティに対する向き合い方としても、美しい流れになっていたような気がする。
書いていて思うが、私はひらきよの関係性以上に平良個人(清居個人)が変化・成長していく様子を楽しんでいたらしい。
(※誤解を与えたくないので最後に書いておくが、もちろん小説と脚本の作り方は全くの別物なので、今言った全ての流れを台詞やモノローグで説明しろ、などと横暴なことを言っているわけではないのは分かっていただきたい)

2-2. 視点について〜清居のフィルター越しの平良〜

2-1では平良のプロとしての意識の芽生えが感じられないという話をしたが、ここではもっと構造的な話をしたい。劇場版における視点の話である。

劇場版ではS1と違い最初から最後まで一貫して平良視点で物語が進んでいくのだが、なぜか後半(特に清居が拉致されて以降)からは、平良視点であるにも関わらず時折清居視点が入り込んでくるような感覚を覚えたのだ。このような感覚を抱いているのもまた私だけかもしれないが。

詳しくいうと、後半の拉致事件以降の平良は「清居が見たい恋人としての平良」「清居の理想とする恋人としての平良(変わってしまうものの中で唯一変わらないでいてくれる存在)」といった部分ばかりが描写されているような気がして、2-1でも言ったような平良個人としての成長描写が清居から向けられる恋人としての視点に吸収されてしまったような気がしたのだ。
本作は主人公をほぼ明確に平良に固定しているため、ヒロインである清居が平良の被写体として平良の物語の中に入り込んでいくという作りをしているのだが、それにも関わらず、要所要所のサビと思われる部分では清居のフィルター越しに見た平良が描かれるというまるで入れ子構造のような印象になっている。

制作陣が全ての登場人物に対して分け隔てない愛を持って制作しているのは重々分かっているが、清居をヒロイン以上のプリンセスとして強く捉えているのが事実である以上、たとえ平良視点で進む物語であっても、清居にとってロマンチックに映るシーンは清居の目線から見たストーリー構成や画作りをしてしまってもおかしくはない。
私は実写『美しい彼』シリーズの中ではS1が至高だと思っているのだが、S1があんなにも素晴らしかったのは、視点変更という手法を取ることで小説という原作の雰囲気を残し、お互いの目線・感情をごっちゃにせずに上手く描くことが出来ていたからだろう。

これはべつに、映画でも清居視点を入れろと言っているわけではない。それはドラマという一話ごとに区切りのある媒体だからこそ出来たことでもあるし、劇場版冒頭「俺の、俺だけの──」からラスト「──美しい彼」に繋がるという演出を考えてみても、視点を完全に平良に固定し清居を徹底してヒロインとして描くのは構成として一貫している。
しかしだからこそ、本作が平良を主人公としているからこそ、むしろよりいっそう平良の人間としての成長を描いてほしかったのである。

清居のフィルター越しに見る恋人としての平良はむしろ最高だし、この二人の恋愛描写にはそれが必要不可欠だ。ただ、それだけでは駄目だと思う。
平良と清居は、本作における人間としての解決課題がそれぞれ違うのだ。

清居の課題が「過去の経験により自分に対する周囲の感情の変化を恐れている。唯一視線・感情の向け方が変わらないでいてくれる存在と出会いぶつかり合う中で、みっともない感情に振り回される自分の心を認め、自分のことも相手のことも受け止められるようになる」であるなら、平良の課題は「自分の清居への気持ちが変わらないのは当たり前。だからこそ自分の気持ちが少しも変わらないのに、清居の気持ちや周囲の環境ばかりが変化していく過程に戸惑う。それでも清居とともに生きていくために、自分の本当の欲望を認め、環境の変化と手段の獲得を自覚的に受け入れていく」であると思っている。

つまり、ヒロインである清居の課題は本作でほぼクリア出来ているのに(というか平良が解決してくれているのに)主人公である平良の課題はむしろ中途半端な状態までしか解決出来ていないのである。
「清居に対する平良の気持ちがこの先も変わらないこと(清居視点・恋愛描写)」「写真に対する平良の向き合い方が明確に変わっていくこと(平良視点・成長描写)」を同時にやらなければならなかったのに、平良視点のまま前者だけをやってしまったせいで、恋愛描写は十分なのに成長描写が不十分という結果になってしまったのである。

さらにもう少しだけ本音を言うと、S2で少し描かれた清居の舞台に関する話の続きも、平良の成長描写と対になる清居の成長描写として、劇場版に入れてほしかったなと思ってしまった。主人公が平良で、清居がヒロインであるのなら難しいのかもしれないが。劇場版はかなり詰め込まれている印象なので、尺の都合的にも厳しい面があるだろうが。
しかし、S2で少なからず両者のプロとしての悩みや自覚に関する描写を入れていることを考えると、やはり劇場版では恋愛描写に振り切ったものを描くつもりだったのだろうか。
そうだとしても、S2〜劇場版にかけてがもう少し違うバランス配分であれば、平良・清居ともに人間としての深みがよりいっそう感じられるようになっていたのではないかと思う。

3.上記を踏まえたうえでの原作比較・考察〜原作の個人的好きポイントについて

ここでは原作『憎らしい彼』の個人的に重要だと考えている台詞/シーン等を振り返りながら、1〜2で語った内容と照らし合わせたり、原作の好きだった部分について改めて語っていこうと思う。

そもそも自分は写真家になりたいのだろうか。
清居にプロを目指せと言われたときは、それしか清居のそばにいられる手はないと盛り上がったが、フォトコンの一次で落ちて身の程を思い知った。しかし写真以外に自分になにか取り柄があるのか。なにかやりたいことはあるのか。それ以前になにができるのか。

凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店,2020年,90p

この文一つを取っても、清居にプロになれと言われて動いていた平良が自分の意思でプロになることを自覚する話をやろうとしているのが見て取れる。


自分がどれほどネガティブでも、これが万に一つのチャンスなのはわかる。商業カメラマンも木村伊兵衛賞も、エベレスト登頂くらい遥かな高みだが、野口のアシスタントにつくことは確かな一歩だ。

凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店,2020年,108p

ここは平良が野口のアシスタントになるシーンだが、原作での平良はここで自分から目の前のチャンスを掴みに行こうとしている。
この先一進一退を繰り返しはするけれど、この時点ですでに原作の平良はプロになるための自我をわずかに持ち始めているのである。S2第4話のラストでも、形を変えてこの流れは描かれている。(そこを劇場版で薄れさせてしまうのが、私の中での不満点なのだが)


『綺麗な顔で綺麗な演技だった。悪くはないけど惹かれもしない』

凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店,2020年,147p

尺的に難しいのは分かるのだが、やはり清居が自身の仕事について悩む描写は劇場版でもう少し組み込んでほしかった。
3巻が二人の仕事メインの話であるのなら、2巻はちょうどその過渡期にあたる部分なので、脚本にする際のバランスが難しいのも分かる。
だが、すでに何度も言及しているように、今回の劇場版は二人の恋愛描写に尽力しすぎた結果、平良と清居それぞれの仕事に対する苦悩がかなり省かれていたように感じたのだ。

たとえば、野口さんが清居の写真を撮るシーン。
直接的に言及されるわけではないが、「綺麗な顔してるね」とだけ言われ(ここは上記の引用部分を野口さんに組み込んだのかもしれない)安奈と違ってかなりあっさりと撮影が終わったところに、清居の芸能人/俳優としての未熟さを描写している気がした。
だが、そこでとどめるのではなく、清居が「え、これで終わり?」と悩むシーンの一つでもあればまた作品の見え方が変わっていたのではないだろうか。(初見時、野口さんからの終了の声がかかった瞬間「うわ、こんなあっさり撮影終わられるとか、絶対清居悔しがるだろうなあ」と思ったら、そこに対する感情の表出がなにもなかったのでかなりびっくりした)

平良のカメラも清居の舞台も、自身のアイデンティティを形成する重要なものである。平良にとって今までのカメラは現実逃避の手段であったし、清居の方も過去の経験により大勢の観客から向けられる視線と同じレベルのものが平良一人から向けられることに、ちょっとした依存レベルで執着していたので、それぞれのアイデンティティを形成してきたアイテムには少なからずポジティブな意味以外も含まれていたが。
では、そのうえでなぜ清居はあれほどまでに舞台に立ちたいと願うのか。平良からその視線を一身に貰えて満足しているのなら、わざわざ舞台に挑戦しなくたっていいではないか。
それでも舞台を諦めないのは、単純な話である。舞台が好きだからだ。平良のことも好きだが、舞台が、演じることが好きなのだ。大勢の人間から生の熱狂的視線をもらうあの快感を諦めたくはないのだ。劇場版安奈の言葉を借りて言うなら「桐谷くんも好きだよ、でもお芝居も好き」だ。

平良だってそうだろう。最初こそ清居に言われたから、清居と生きていきたいからとプロのカメラマンになる道を目指し始めたが、やはり平良だってそれだけではないはずなのだ。
人並み以上に他人の腕に嫉妬するし、自分の写真に対して自意識過剰なまでの自尊心を抱えている。表向きの自信がないだけで、それを披露して世間に認められればちゃんと自分事として嬉しいと思うのだ。
つまりこの二人はこちらが思っている以上に、自分に対して貪欲な二人なのではないだろうか。お互いでしか満たせない部分を持ちながら、それと同時に自分が自分として生きていくための核をきちんと持っている。そのうえでお互いがお互いを影響させ合うことで、恋愛だけでなく仕事の面でも次のステージへ到達出来るようになる。
そんな二人の関係性こそが、「美しい彼」の魅力だと私は思っている。


「わたしは自分を天才なんて思ったこと一度もない。どっちかっていうと、普通の暮らしすら送れなかった普通以下の人間だって劣等感がある。ぶちまければ、そこがあたしの原動力なの。普通に親がいて、普通に幸せに生きてきた清居くんにはわからない」

凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店,2020年,201p

安奈のバックボーンがさらけ出されるこのシーンはとても好きな部分である。劇場版では安奈のバックボーンを描かない(というより尺的に描けない)代わりに、逆に原作で詳細に描かれることのなかった安奈と桐谷の再会シーンを描いており、その点はとてもよい再構築だと感じた。

原作の安奈が「桐谷くんが引退するならついていこうと思ってる」と言ってしまうまでに弱さをさらけ出すのに対して、劇場版の安奈は、引退すると言った桐谷を「それは違う」と止めるし「桐谷くんが好きだよ、でもお芝居も好き」「桐谷くんがわたしの星。桐谷くんからもらった言葉で生きていける」と覚悟の決まった台詞を言う。
描かれてはいなかったが、きっと原作の安奈もあの再会の瞬間桐谷に同じようなことを言ったに違いない。桐谷に会うまでは最大限に弱さをさらけ出していても、ひとたび桐谷に会えば恋の活力も仕事の活力も取り戻すことが出来るのだと思う。劇場版と原作が互いを補完しあうシーンとなっていたことがとても嬉しい。

ただ、安奈に関連するシーンで一つ欲しかった部分をあげるとするならば

「……清居くんは、今のままじゃ駄目だと思う」

凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店,2020年,202p

この清居に対して言葉を投げかける部分である。
先程も言った通り、原作の安奈はここで自分の心の弱みを見せ、清居の強さ(という名の役者としての弱み)について指摘する。そして原作の清居は、強さゆえに弱さをさらけ出せない自分の性格について悩むのである。

このシーンがないこと自体もそうだが、劇場版の清居はそもそも強さのせいで弱さを見せられない自分の性格についてあまり悩んでいる様子が見受けられない。原作ほど表現者としての苦悩は抱いていないのである。
自身の性格に対する課題はまるまる清居の仕事に対する課題に直結する部分なので、ここを描かないのであれば、別の形でもいいから清居の仕事に対する苦悩を描いてほしかったように思う。


「わかるけど、でも駄目だよ。絶対に駄目だ。苦しすぎて相手を殺したくなったら、その前に自分が死ねばいい。相手を殺すよりずっと簡単だし、自分も楽だと思うよ」

凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店,2020年,239p

1-1でこれでもかというほど語ったが、やはり平良の異常性はタガの外れた暴力性ではなくその思想にあると思う。清居も言っているが、殺人者になりかけている人間に自殺を勧める平良は色んな意味で凄い。
設楽と言葉を交わし対話をする中で(そしてそれを清居という第三者が客観的に解説することで)平良の異常性が際立つという原作の流れが本当に大好きだったので、やたら格好よくて物理的に強く見える暴力シーンを狂信者としての平良のヤバさに直結しているように見せる、という劇場版の演出は個人的にはどうしても受け入れることが出来なかった。画としてのインパクトは凄まじいかもしれないが、どうしても安っぽさを感じてしまう。
取っ組み合いの前に清居を抱き抱えて「清居、いこっ」と笑いかけるシーンも、そこら辺にいるただのサイコパスのように見えてしまい、平良の気持ち悪さはそんな分かりやすいものじゃないだろう!と叫びたくなってしまった。

平良と設楽はあくまでも思想の対立をしているのだ。それは暴力ではどうしたって最終決着がつかないし、そもそもつけてはいけないことだと思う。
原作で起こってしまった暴力の応酬はどちらが信者としてより気持ち悪いかの頂上決戦ではなく、対話にてほぼ勝敗が決した結果の敗者設楽による自暴自棄と、それに対する勝者平良の応戦なのだ。
言葉の節々に滲み出る気持ち悪さで圧倒し、思想で設楽を上回る様子を劇場版でももう少し見せてほしかった。
一目で分かりやすい格好良さと異常性を纏う前に、そこはかとなく纏わりついてくる気持ち悪さがあってほしかった。
だって平良一成だから。それこそが清居にとって一番理解しがたくて、一番好きな平良一成を形作る部分だから。


「……これから、よろしくお願いします」
 平良が頭を下げると、
「ああ、うまくやってこう」
 野口がうなずいた。この人が自分の師匠なのだと、これからはこの人の下でいろいろなことを学んでいくのだと、初めてちゃんと自覚した。

凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店,2020年,295p

この部分はもう本当に大事すぎるぐらい大事だと思っている。
2-1で平良のプロとしての自覚の芽生えについての話をしたが、劇場版の平良は野口を師匠として自覚することなく終わってしまっていたのでそこがとても悔しい。なんとなくの流れで師匠だと思い続けるのではなく、はっきりと師匠であると自覚することもプロ意識の芽生えに繋がる大きな要因の一つだろう。「……これから、よろしくお願いします」の一言だけでもあれば、その部分が見えたのになと思う。


「なにいきなり泣いてんだよ」
「わ、わからない。でも、あ、ありがとう」
 (中略)
 子供のころからおしゃべりは苦手だった。人は怖いものだった。そのうちこちらからも避けるようになって、唯一の逃げ場所だった写真の中で人を消してきた。
 そんな自分に、こんな写真が撮れるとは思わなかった。

凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店,2020年,309p

アイデンティティの肯定と、人間としての成長を描く最高のラストだ。そしてここは少し前の部分で清居が言った、

「多分、おまえのおかげなんだろうな」
 (中略)
「涙と鼻水と鼻血で顔面ぐっちゃぐっちゃ。あんなみっともない姿を人前にさらしたんだ。あれを思い出したら、もうなにも恥ずかしくないし怖くない」

凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店,2020年,284p

と対になる部分であると思っている。
この清居の台詞にも平良と同じく自分自身を認めることによる人間としての成長が描かれており、そしてその成長にお互いの存在が密接に関わっているのだと分かる。この終わりが実に美しい。(劇場版ではシーツのシーンで平良が清居に「ありがとう」と言っていたので、ここのシーンを持ってきたのだろうかとぼんやり推測している)

4.まとめ

さて、ここまで長々と語ってきたが、これらはもちろん一ファンとしての願望にすぎないし、なにもここで挙げた不満点を全て完璧にクリアして原作をそのまま再現してほしかったなどとは微塵も思っていない。
小説を映像用の脚本にするということは削って繋いでをひたすら繰り返す作業だと思うので、映像化するには不向きな部分や、尺の都合上入れていられない要素なども沢山あっただろう。映画だからこそ出来る表現や、原作者以外の人間によって再構築される部分も原作のある映像作品の魅力だとは思う。
実際凪良先生も、昨年の坪田さんとの対談で

私は原作と同じものを映像にしてくださっても、満足できなかったと思うんです。同じならば、小説を読めばいいですし、せっかく映像になるならば、坪田さんや酒井(麻衣)監督ならではの、新しい視点、原作になはい魅力を取り入れて欲しかったんです。

凪良ゆう×坪田文 「美しい彼」コンビによるスペシャル対談(前編)より

と語っている。
その気持ちは、恐れ多いが一素人創作者としてとてもよく分かるし(私も自分の書いた小説などを漫画として再構築してもらったり、素晴らしい台詞や演出を追加してもらったりすると家中を駆け回りたくなるほど嬉しくなるし、私以外の視点から捉えてもらえるからこそ満足出来るところがある)原作者ご本人がそういうスタンスであるならば観客である私に言えることはなにも……と思わないこともない。
だがしかし、私が今回個人的に納得いかなかった部分は、全て原作の根幹だと思っていた部分だった。新しい視点や原作にはない魅力を表現するのは大前提として、根幹が描かれていなければ一ファンとしてはどうしても納得することが出来ない。
だから、今回感じた要素がほんの少しずつでも違う形で描写されていたのなら……と今は思っている。

少し話は脱線するが、作品の世界になかなか入っていけなかった私とすんなり入っていけた人との間には、一体どんな違いがあったのかについて考えてみた。
それは「国民」としての意識があるかどうかではないだろうか。
観客が、キング平良とプリンセス清居のエターナルを願うひらきよ国の国民であることを前提にすると、今回私が感じたようなモヤモヤ(特に1章で語った内容)は感じずに済むのかもしれない。

私は原作エピローグにある二人で雑誌を読むシーンも出来れば見たかったなと思ってしまっていたのだが、恐らくエンドロールでの「ファインダー越し撮影:平良一成」のクレジットが、原作でいうところの雑誌のシーンに該当するのだろう。私はこの演出について、平良撮影の清居が掲載されている雑誌を、観客である私達が読んでいたかのように錯覚させる効果を狙っているのではないかと考えた。
しかし、私が本来見たかったのは平良と清居が二人きりで雑誌を読んでいるシーンなのだ。そこに「私」という人間は1ミリも介在させたくなかった。

他にも、前述したようにアヒル隊長がファンの目線のように描かれていたり、学校シーンでこちらが結婚式の招待客になれるような演出がなされていたり、平良と清居ふたりの物語の中にファンが組み込まれていく感覚がかなり強い作品だったと思う。だからこそ、ひらきよ国の国民である自覚が強い人にとっては素晴らしい鑑賞体験になるのだろう。一種のアトラクションのようなものである。
その一方で私のように国民意識がない人間にとっては、その輪の中から弾き出されてしまったような感覚が色濃く残り、モヤモヤしてしまう原因となるのかもしれない。

私は基本的に映画の応援上映が苦手なタチなのだが、上記の要素はこの感覚に近いのではないかと感じている。応援上映ではないはずなのに、まるで応援上映のように自動的に作品世界に「参加」させられている気分になるのだ。参加させられるのが一概に悪いわけではない。見るまでは参加型だと思っていなかったのに、実は参加型だったという部分がもやりの原因である。
この鑑賞体験をどう捉えるかが、本作の受け止め方に繋がってくるのかもしれない。

しかし、これだけあれやこれやと好き勝手を言ってきたが、一深夜ドラマの枠から始まった本作がこれだけ多くの人の目に止まるヒットタイトルへと成長したこと自体は、とても嬉しく思っている。
そんな作品のこれ以上ないぐらいのハマり役に八木さんが抜擢されたこと、これは八木さんの人生における紛れもないターニングポイントだった。
私自身も八木さんの出演が決まったおかげで原作と出逢うきっかけをもらえたし、これだけ長々とした感想を書けるぐらい心を動かしてもらう機会をもらった。劇場版にしても、ただの虚無であればそもそもこんなに真剣な感想は書いていない。
私自身それだけ「美しい彼」という作品が好きだったのだ。そこまで入れ込んでいるつもりはなく無自覚だったのだが、劇場版を見たことでそのことに改めて気づかせてもらえた。

限りある尺の中でなんとか原作の持つ魅力を再現しようとしてくれている努力を感じたうえで、それでもなお納得出来ないところや私向きでない演出箇所も多々あった。しかし、それはそれとして、劇場版を含めたこの作品が今後も多くの人の心を揺り動かすものであればいいなと切に願っている。

八木さん、萩原さん、他キャストのみなさん、制作陣のみなさん、ここまでお疲れ様でした。みんながそれぞれに忙しい中、最後まで一丸となって真摯に作品と向き合ってくださったことに感謝と敬意を表します。

美しい彼、ありがとうございました!
(ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!)


参考文献
ドラマ『美しい彼』
ドラマ『美しい彼 シーズン2』
『劇場版 美しい彼~eternal~』
凪良ゆう『憎らしい彼』徳間書店 2020年
凪良ゆう×坪田文 「美しい彼」コンビによるスペシャル対談(前編)
https://tree-novel.com/works/episode/71a6f82274a768b079b968fa7a87cdeb.html


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