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ロングサイクル大全

はじめに

 今日ロングサイクルはケトルベルスポーツの花形種目であり、その迫力ある魅力からキンブ・オブ・ケトルベルスポーツ等と呼ばれることもあります。特にロシア、カザフスタン、ヨーロッパ、北米を中心に大きな人気を博しております。フィットネスエクササイズとしてもその魅力は大きいですが、特にケトルベルスポーツとして、互いに競い合う競技としてのロングサイクルは年々人気となり現在では世界中を熱狂させています。

2018年アジア選手権韓国プサンより

 そもそもケトルベルは18世紀には市場で主に作物の計量をする秤として使用されていたとされております。19世紀に入るとその秤を利用してトレーニングしたり、サーカスの力自慢たちによる見世物として巨大なケトルベルをリフティングしたり、バリエーション豊かにケトルベルの歴史は発展していきます。
 19世紀後半に入るとロシアとヨーロッパでケトルベルが競技として使用され始めます。1885年に「アマチュア陸上競技サークル」 (Кружок любителей атлетики) が設立され、競技のケトルベルスポーツ (гиревой спорт)がはじめて行われたとされています。そして1948年10月24日、重量挙げ専門家の後援のもと、アスリートが2プードの重量で競技する最初の競技会が開催されたとされています。この時はまだ正式なルールはありませんでしたが、それ以降このような競技会が継続的に開催されるようになり、多くの選手たちと大衆を惹きつけていきました。前述のプードとは16.38キログラム (36.1ポンド) に相当し2プードだと32.76に相当します。1960年代に入るとケトルベルリフティング、もしくはケトルベルスポーツという名前でロシアと東ヨーロッパを中心に組織化され人気のスポーツとして発展していきます。しかしこの頃はまだロングサイクルは正式な競技種目ではありませんでした。この頃の正式種目はジャークおよびスナッチのみであったとされています。
 1989年に今日行われている形とほぼ同じルールで10分を競技時間の上限として行われるようになります。これとほぼ同時期に男子ではロングサイクルが正式種目として採用されます。しかし女子ではロングサイクルは正式種目として採用されませんでした。2010年代に入ってようやくシングルロングサイクルが女子の正式種目とされました。この後北米が牽引する形で女子選手でもダブルロングサイクルが正式種目となり人気と熱狂を集め、それに追随する形でヨーロッパ、そしてロシアでもダブルロングサイクルが正式な種目となりました。ケトルベルスポーツ発祥国であり世界一のケトルベルスポーツ大国であるロシアで2017年から競技がテスト運用され2018年に正式種目となりました。   
 そして2024年現在、ロングサイクルはマラソン競技としても楽しまれており近年競技人口が加速的に増えております。またロシア国内ではケトルベルジャグリングが正式な種目として採用され、ますます競技人口、競技バリエーションが増えました。ケトルベルスポーツは比較的若いスポーツで、ここ数年でより幅広く彩り豊かに進化をしてきました。これからもきっといろんな変化、進化をしてますます世界中に愛されるスポーツとして発展していくことが予想されます。

 インターナショナル・ユニオン・オブ・ケトルベル・リフティング、IUKLが主催する世界大会も毎年老若男女国籍問わず出場人数が増えております。現在、世界大会は通常4~5日間連続で行われ朝の早い時間から日が落ちた夜の時間まで長く開催されます。その間に出場する選手は500人近くにも及びます。そして最大で同時に6人が一斉に競技を開始します。会場中に響き渡る歓声、選手の雄たけび、ケトルベルが激しくぶつかりあう音、選手がバンプした時に鳴る大きな足音、非常に迫力があります。選手たちは皆大量の汗を流し、時には手のひらのマメが潰れて血を流しながら、時には涙を流しながら10分間プラットフォームの上で競技をします。

2017年世界大会韓国ソウルより

 そして競技が終わるとお互いに笑顔で称えあうのです。そこには言葉の壁も国籍の壁もなく、ただ一つ同じケトルベルスポーツという競技で心を通わせ互いに死力を尽くして戦い抜いたお互いを一点の曇りもない笑顔で健闘しあうのです。まさにノーサイドで称えあうのです。こんなにも美しくかっこいい競技が他にあるでしょうか。

 ロングサイクルは1つのケトルベルもしくは2つのケトルベルをラックポジション(胸の前でケトルベルを保持して静止している姿勢)へと持ち上げた後にジャークと呼ばれる動作によってケトルベルを頭上まで挙上する動作で、区別するために前者はシングルロングサイクル、後者はダブルロングサイクルと呼ばれることもあります。ロングサイクルはクリーンアンドジャークという名前でも呼ばれており、これはロングサイクルの動作がクリーンとジャークと呼ばれる2つの動作の合成によって構成されるためです。そのためここではロングサイクルを解説するにあたりクリーンおよびジャークの動作をそれぞれ解説した後に、ロングサイクルの解説をしたいと考えております。これを読んでいただいた全ての読者に、ロングサイクルの魅力、技術を余すことなく伝え、今後よりケトルベルスポーツという競技、ロングサイクルという種目を絶対に好きになってもらいたい!そういう気持ちで執筆しました。どうかこの思いが多くの人に伝わることを願います。

 そして本著を執筆するにあたり、私のロングサイクルのコーチであり親友であるイワン・パブロフ・ドミトリッチ、そして私がケトルベルスポーツ競技を始めるきっかけになった憧れのデニス・ヴァシレフ、アレキサンダー・コヴォストフ、世界大会とアジア大会の遠征中に素晴らしい思い出を共有してくれたセルゲイ・リュビンスキ、ラサディン・アンドゥリー、同じアジア地域で活躍しモチベーションをくれるパク・スーミン、韓国で開催された2017年の世界大会と2018年のアジア大会で素晴らしいおもてなしをしてくれた、そして2015年の日本国内の大会では同じフライトで競技した友人であり戦友のジャエ・ホー・リー、そして数々の国際大会を企画するだけでなく数々の冗談で私を笑わせてくれたヴァレンティン・イゴロフ、そして日本国内で私がケトルベルスポーツを練習、競技、セミナーをする環境と機会を与えてくださりそして一番はじめにケトルベルスポーツを教えてくれた恩師でありそして最高の飲み友達でもある高橋里枝様にこの場を借りて感謝の意をお送りいたします。ここには掲載しきれませんが多くのケトルベル仲間、ケトルベル友人に支えられ本著を執筆できました。本当にありがとうございます。

目次

クリーン

  1.  クリーンとは

  2.  クリーンの運動法則

  3.  クリーンの動作解説

  4.  ケトルベルの持ち方

  5.  代表的なクリーンの誤り

  6.  シングルクリーン

  7.  クリーン動作時の身体的要素

  8.  クリーントレーニングプログラムの構成要素

ジャーク

  1.  ジャークとは

  2.  ジャークの運動法則

  3.  ジャークの運動解説

  4.  ケトルベルの持ち方

  5.  代表的なジャークの誤り

  6.  ジャーク動作時の身体的要素

  7.  ジャークの足幅

  8.  ジャークの世界記録

ロングサイクル

  1.  ロングサイクルの動作解説

  2.  ロングサイクルの停止フェーズ

  3.  ロングサイクルの戦略的な目標設定

  4.  競技会に向けた戦略的なアプローチ

  5.  競技会終了後の適切な目標設定

  6.  トレーニングプログラムの構築方法

  7.  チョーキング

  8.  ロングサイクルの世界記録

ケトルベルクリーン

1 クリーンとは

 クリーンは1つのケトルベルもしくは2つのケトルベルをラックポジション(胸の前でケトルベルを保持して静止している姿勢)へと持ち上げる動作です。区別するためには前者はシングルクリーン、後者はダブルクリーンと呼ばれることもあります。
 ケトルベルのクリーンは2つのタイプに別れます。ひとつは地面から持ち上げてラックポジションまでケトルベルを持ち上げるやり方。ケトルベルスポーツではロングサイクルとジャークの競技開始時に1回だけこの方法でクリーンを行います。もう一つはラックポジションからケトルベルを体の後ろに振り、また再びケトルベルが前方向に動きを変えてラックポジションへ持ち上げるやり方。ケトルベルスポーツでは、ロングサイクルの時は競技開始時の1回を除き、全てこの方法でクリーンを行います。

2 クリーンの運動法則

 ケトルベルをクリーンで持ち上げることができるかどうかは以下の要因が関係します。

  1.  慣性

  2.  遠心力

  3.  重力

  4.  移動距離

  5.  筋力

  6.  パワー

  7.  空気抵抗

2.1 慣性

 物体には慣性の法則が働きます。慣性とは静止している物体は静止したまま、動いている物体は等速直線運動を続けようとする性質のことです。よってケトルベルクリーン時においては地面に置いてあるケトルベルをクリーンするよりも、ラックポジションからケトルベルを後ろに振り、再び前向きに円弧起動上を推進しようとするケトルベルをクリーンする方が容易です。

2.2 遠心力

 遠心力とは回転運動を伴う慣性力のことです。ケトルベルクリーンの運動時においては主に肩関節を視点とした回転運動を伴う慣性力のことで、遠心力が大きくなればなるほどケトルベルを持ち上げる際に必要なエネルギーは少なくて済むのでクリーンは容易になります。

2.3 重力

 スイング中のケトルベルは重力の働きによって身体の前方に位置する時には後方に移動しようとする力が加わり、身体の後方に位置する時には前方に移動しようとする力が加わります。

2.4 移動距離

 物体が移動する際の仕事量は、物体に加えた力と物体が移動する距離の積と定義されます。ここで説明する移動距離とはケトルベルがラックポジションへと向かって円弧軌道上を動く距離の長さです。よって移動距離が短いほど仕事量は少なくて済むので必要なエネルギー量は少なくなりますが、実際は短くなりすぎると遠心力を大きく利用することができなくなりクリーンは困難になります。ケトルベルクリーンにおいては後方に振った時のケトルベルの高さが重要になり、高さが高くなるほどその後の放物運動は大きくなるのでクリーンの動作は容易になります。

2.5 筋力

 筋肉が一回の収縮で発揮する力と筋肉が繰り返し収縮し続ける能力をさします。ケトルベルスポーツにおいては筋肉が一回の収縮で発揮できる力の大きさも重要になりますが、それ以上に繰り返し筋肉を収縮し続ける能力が大事になります。これら筋力は原則的に筋肉の横断面積の大きさに比例します。

2.6 パワー

 筋力と筋力の立ち上がり速度の積と定義できます。物体に力が加わると、物体(ケトルベル)は加わった力に比例した加速度を持ちます。よって筋力が高い水準であってもその力を素早く発揮できる能力(筋力の立ち上がり速度)が足りないと効率的にクリーンをすることが困難になります。

2.7 空気抵抗

 動いている物体は慣性の法則によって等速直線運動を行おうとしますが、この時空気抵抗や摩擦が影響すると慣性の力が弱まります。よって空気抵抗は少ない方が良いです。ケトルベルクリーン時においてはハンドルは矢状面に対して横向きよりも縦向きの方が当然空気抵抗が少ないので原則クリーンは容易になります。

3 クリーンの動作解説

 クリーンを行う際、ケトルベルは主に肩関節を支点として振り子のように遠心力を伴いながら移動します。ただし厳密には身体は完全な振り子ではなく、また支点となる間接も肩だけではないので、完全に振り子の原則が応用できるわけではありませんが、便宜上振り子の原則を元にクリーンの動作を解説します。またこの項目ではダブルクリーンの動作について解説しております。

 クリーンの動作は以下の通りに分類することができます。

  1.  グラウンド・トゥー・ラック・クリーン

  2.  ハンドインサーション 

  3.  キャッチ

  4.  ラックポジション

  5.  ドロップ

  6.  クリーン

3.1 グラウンド・トゥー・ラック・クリーン

 ケトルベルをクリーンする時、まず前方に持ち挙げようとする前に予備的に後方にスイングします。ケトルベルを身体の後方で保持し、そのケトルベルが停止している時(バックスイング時の最終地点およびフロントスイングの開始地点)ケトルベルは位置エネルギーを持ちます。そのケトルベルが重力によって下に引かれると加速しながら前方に移動します。(運動エネルギーを徐々に増やしながら、位置エネルギーを徐々に減らします。) 移動するケトルベルは、ケトルベルが移動する円弧起動上の一番下で最高速となります。そして反対側に移動する時(フロントスイング時) ケトルベルは減速しながら前方に移動します。(運動エネルギーを徐々に減らしながら位置エネルギーを徐々に増やします。) 空気抵抗がないとされる場合、ケトルベルはフロントスイングを開始した地点と同じ高さまで移動しそこで一旦停止します。厳密には空気抵抗を排除することは不可能なので、フロントスイングの開始地点よりやや低い高さでケトルベルは運動エネルギーを完全に失います。フロントスイング開始時のケトルベルの高さを高めることで、ケトルベルが遠心力のみで持ち上がる高さも高くなるのでその分クリーンの動作も容易になります。

 前方向に移動するケトルベルは、他に何も力を加えない場合、いずれ運動エネルギーを失い空中で静止します。したがって重力に従って再び徐々に後方に戻ろうとするケトルベルに対して力を加えてラックポジションの高さまで挙上する必要があります。力を加えることでケトルベルは動きを停止することなくそのまま円弧軌道上を推進することができます。
 そのケトルベルの軌道の最終点がラックポジションの位置だと良いのですが、そのままだと振り子の長さ(肩関節からケトルベルの重心までの距離)が変わらないため、ケトルベルは肩を支点にして回転を伴いながら上方向には持ち上がりますがラックポジションの位置にくることはありません。そのため途中で振り子の長さを変え、ケトルベルがラックポジションに近づくようにする必要があります。
 ケトルベルに力を加える際に、身体を後方に傾けるようにし、また後方へ跳躍跳びをするように足腰に力を入れます。この時、膝関節、股関節、足関節が同時に伸びます。(足関節を伸ばさないで行う選手もいます。)足腰に力を入れる際に肘を僅かに曲げるようにします。こうすることで効率よく振り子の長さを短くすることができます。

 振り子の長さが短くなった後ケトルベルは主に肘を支点にして回転を伴いながら運動します。この時、遠心力で推進するケトルベルは急に振り子の長さを短くされることによって、急激に加速しながら身体に向かって円運動をします。振り子の長さを十分に短くできない場合、ケトルベルはラックポジションの上方を通過して移動します。その際、ケトルベルは肩にぶつかって運動エネルギーを失った後、重力に従ってラックポジションへと落下する所謂二段モーションの動作になります。二段モーションになってしまわないように注意が必要です。放物運動を行うケトルベルが描く円弧軌道の終点がラックポジションになるようにします。これらのケトルベルが上方に向かって放物運動を行う際、上に向かおうとする力と重力が釣り合いが取れた時にケトルベルは一瞬空中で停止し、その後慣性力を失い落下を始めます。この時ケトルベルは放物運動を続けながら落下します。放物運動をする物体は水平方向には原則、等速直線運動で動きます。一度身体に向かってケトルベルが放物運動をした場合、その後は特に力を加えずとも自然にラックポジションに向かって落下してきます。この時力を加えすぎるとそれもまたケトルベルを肩にぶつける所謂二段モーションの要因になりかねないので注意が必要です。

3.2 ハンドインサーション

 ケトルベルをクリーンする時はハンドインサーションと呼ばれるケトルベルをラックポジションで持ちやすいようにケトルベルを持ち替える動作が必要になります。この動作はケトルベルが上方に向かって放物運動をしている間に行われます。通常ケトルベルはハンドル部分と比較して球体部分の方が重心が大きいためハンドルは上を向いておりますが、この放物運動の間は僅かに球体部分がハンドル部分よりも上を向きます。この時、手の平にかかるハンドル部と手のひらの摩擦が最小となります。この時にスムーズにハンドインサーションを行うことが大事です。

3.3 キャッチ

 ハンドインサーションを行った後はすぐにラックポジションでケトルベルを保持できるように準備しておく必要があります。あらかじめ体幹は直立よりもやや後傾気味にしてすぐにラックポジションの姿勢をとれるようにします。このケトルベルを受け止める時の姿勢が直立気味だと、やはりケトルベルが肩にぶつかってからラックポジションに落下するという二段モーションになりやすいので注意が必要です。ハンドインサーションを行う時にはすでにケトルベルはラックポジションへと向かって放物運動を行っているので、ここでは身体は不必要に力を入れているのではなく、ラックポジションの姿勢でケトルベルを受け止める準備をしておきましょう。例えるなら、キャッチボールでボールをキャッチするかのような感覚です。もしくはラックポジションの時と同じ形で待っている腕に向かってケトルベルを放り投げる輪投げのような感覚です。

3.4 ラックポジション

 クリーンのキャッチ後の姿勢であるラックポジション。疲労を最小限に抑えるためにラックポジションでは肘を上前腸骨棘付近に乗せておく必要があります。この動作を容易にさせるために、骨盤を後継させ、またやや前方にスライドさせるようにします。このことで上前腸骨棘と肘が近づきこの姿勢をとりやすくさせます。しかし骨盤を前方にスライドさせすぎると腰椎の屈曲が強くなり腰部への怪我のリスクが増えてしまうので注意が必要です。また、脚部の疲労を抑えるために膝が曲がってしまわないようにする必要があります。

ラックポジションで膝が曲がってしまう場合は以下の要因が考えられます。

  •  膝関節伸展筋群が弱い

  •  膝関節屈曲筋群が硬い

  •  股関節伸展筋群が弱い

  •  股関節屈曲筋群が硬い

  •  ラックポジションの位置が高く腰が反ってしまっている

  •  骨盤が前方にシフトしすぎている

 ラックポジションの位置が高いと腰が反るような姿勢になります。そうするとカウンターバランスで骨盤が前方にシフトします。骨盤が僅かに前方にシフトする程度なら問題ありませんが、前方に過度にシフトする場合、膝関節が曲がってしまいます。ラックポジションは身体を後方に倒す必要がありますが、腰を反るようにして行うのではなく骨盤を後傾させて行うようにする必要があります。
 ラックポジションでは多くの選手が、左右の指を重ね合わせてハンドルを支えます。この時左右のハンドルを密着させて支える選手もいればそうでない選手もいます。ただ全ての選手に共通していることはしっかりと肘と骨盤およびベルトが密着しているという点です。一番自分に合う方法を見つけましょう。

上写真、一番左のデニス・ヴァシレフはハンドルは密着させるが指は重ねあわせていません。真ん中ラサディン・アンドゥリーはハンドルを密着させ指も重ね合わせています。一番右セルゲイ・リュビンスキは指は重ねるがハンドルは密着させておりません。

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