赤いジャンヌ・ダルク 謝雪紅(前編)
初めての人物に関する投稿になります。今回、紹介するのは私の最推しの女傑である台湾の革命戦士(台湾共産党初期メン・台湾民主自治同盟主席・政協委員などを歴任)・謝雪紅(1901~1970)です。近現代・アジアの女性でだれよりも強く、そして、不屈の精神を持っていたと私は思います。アニメキャラに例えるならば、ブラックラグーンのバラライカ姐さん並みに強いと思います。暇があるならば、お読みください。
幼少期の謝雪紅
謝雪紅は、1901年10月17日に台湾の彰化県(当時の台中州)に製帽工場の手工業者である父・謝鞄と母・陳銀との間に五男三女の4番目の子として生を受け、本名は謝阿女という。幼少期の彼女は家庭が非常に貧しく、六歳のころから、露店でバナナを売り、母の製帽や家政婦の仕事を手伝い、十二歳になる頃には両親が相次いで病死したため、その葬式代を工面するため、親族(諸説ある)に下女(新婦仔)として売られてしまう。十三歳の時、台中の商人・洪春栄の妾になるも愛情は全くなかった。そのため、16歳になった彼女は家を飛び出して台南の帝国製糖工場で女工になる。その後、麦わら帽子店を経営していた張樹敏と結婚する。1917年に張とともに仕事で神戸に来日し、三年間にわたり麦わら帽子の販売をしていた。その間に謝雪紅は、中国語・日本語を習得した。これが謝雪紅にとって大きな契機となった。なぜなら、当時の日本は大正デモクラシーの時期であり、社会主義思想に出会ったのもこの時期かもしれないからだ。
政治運動に参加
1920年に張の麦わら帽子販売事業が業績不振に陥ったため、謝雪紅は台湾に戻り、台中でミシン商会の外務員の職に就き、1922年には独立し、わかばや洋服店を経営するようになった。当時の台湾は政治運動の勃興期であり、謝雪紅も台湾最初の本格的政治結社である「台湾文化協会」に参加し、初めて政治運動に加わったのである。ちなみに、この台湾文化協会は台湾人に対して啓蒙・教育工作を行い、台湾人が統治する台湾を目指す政治改良運動であった。それに加え、謝雪紅は、自らが経営する洋服店を隠れ蓑にして、文化協会が行う住民への教育工作を行っていたとみられている。その後、謝雪紅は文化協会と袂を分かち1924年頃に張と共に上海に渡った。ちなみに、中国に渡る船上において後に恋人となる林木順に出会い、上海で共に中共の活動に身を投じながら、恋仲になり、謝雪紅は張と別れることになったのである。
当時の上海は中国共産党の一大拠点であり、謝雪紅は、共産党系の大学である上海大学社会学系に1925年6月に入学し、革命思想を学んだ。そこで台湾文化協会の左派や中共の重鎮に出会い、多くの人脈を構築した。
上海大学入学後にモスクワ留学試験に合格し、謝紅雪は、林木順と共に唯一の台湾人留学生として1925年10月頃にモスクワに行き、2年間、東方大学で学業に励んだのである。ちなみに、日本共産党の指導者である徳田球一、佐野学、渡辺政之輔らも同時期にモスクワにおり、親密な関係を築いている。後に謝雪紅が日本共産党の連絡員に選抜されたのもこの時の縁が要因だと思われる。
(モスクワ留学では台湾出身者は、日本組に配属され、謝雪紅は中国組と仲が悪かったようである。その証拠として徳田球一がモスクワを離れる時に愛用していた手提げ鞄を謝雪紅にプレゼントし、彼女その後、この鞄をいつも手許に置き、228事件で敗れ、台湾から逃亡する際も持っていったというエピソードが残っている)
台湾共産党爆誕!!
1927年11月に謝雪紅と林木順は、モスクワの東方大学の課程を修業して上海に戻った。彼らは、コミンテルンから『日本共産党台湾民族支部』を結成する指令を受け取ったので、結党の準備をするために上海台湾学生聯合会を結成し、上海大学の学友であった翁澤生(中国共産党所属)が主体となり上海台湾読書会(社会科学研究と中国語習得を隠れ蓑にした結党準備工作)を開催して同志を獲得していったのである。その後、活動の場を上海のフランス租界に移し、反日ビラを公共の場所に撒く等結党準備を進めていった。その後、中国共産党や日本共産党の協力を得て、遂に、1928年4月15日、上海フランス租界にある写真館の2階に左翼活動家九名が集まり、台湾共産党創立大会が秘密裏に行われたのである!!
そして、同年4月18日に台共は、最初の委員会を開き、下記の如く党最高幹部の人事を決定した。
また、同年、4月20日には台湾共産党は、正式に結党宣言を対外的に発表したのである。
台湾共産党の壊滅と再建
1928年年4月20日に結党宣言をした台共であったが、結党直後の同年4月25日に日本の警察による台湾人独立派の取り締まりの巻き添えに合い、幹部の多くが逮捕される『上海読書会事件』が発生する。その結果、謝雪紅と林木順が住む家にも警察が立ち入り、謝雪紅は、逮捕される。この時、林木順は幸運にも屋根から逃亡し成功している。しかし、これが彼女と林木順の今生の別れであった。
その後、謝雪紅は、日本の留置場で残酷な拷問を受けても口を割らなかったため、証拠不十分のため釈放され、台湾に強制送還された。
この上海読書会事件は、台湾共産党に深刻な影響を与えた。それは、各幹部の任務が逮捕などで果たせなくなることに加えて、上海や台湾にいた男性党員が次々と逃亡してしまったことである。例えば、台湾で工作に従事していた蔡孝乾らは、中国に逃亡して中共に合流した。上記の要因で台湾共産党は結党からわずか1週間あまりで、壊滅状態となったのである。まさしく、人生ハードモードです。
1928年6月2日、台湾で釈放された謝雪紅は、政治活動から身を引くことができたにもかかわらず、一歩も退こうとはしなかった。彼女は、台中の親戚の家に居候しながら、台湾文化協会や台湾農民組合及び台湾共産党の残党と連絡を取りはじめ、台湾共産党再建の準備を進めていったのである。
その手法とは、既存の合法的な政治団体である台湾文化協会と台湾農民組合内部の積極分子を活用し、組織を乗っ取り、大衆政党に作り変えるというものであった。その結果、農民組合の主要幹部の多くは、謝雪紅の説得で台共に入党するに至り、台湾共産党は、急激に力を伸ばしていったのである。
新しい恋と国際書局
台湾共産党を見事再現した謝雪紅は、書店を隠れ蓑に、左翼系の新聞や雑誌を販売する国際書局(国際書店)を1929年に開店させる。経営者は、謝雪紅と楊克培(日本大学政治科卒。1928年台共入党)であり、楊克培は、実はこの時、謝紅雪に夢中になっていたといわれているが、この恋は実らなかった。何故なら、この時、彼女が恋していたのは、楊克培の父方の従兄弟で彼女の7歳年下の医大志望の国際書局•アルバイト•楊克煌であったからだ。その後、楊克煌は、228事件では謝紅雪と2人で台湾から逃亡し、中国各地を転々としながら、生涯の伴侶となるのである。
この国際書局は、台湾共産党の本部として機能すると同時に多くの台湾人に社会主義思想を流布し、台湾共産党の勢力拡大に寄与したのである。
長くなってしまったので第2部に続きます!
素人の文書をここまで読んで頂きたい本当にありがとうございました。色々至らないことが多くあると思いますが、次も読んで頂ければ幸いです✨
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