発達障がいのある子どもの将来の「働く」を考える その2
前回の文章を読んだら、話が飛び飛びになってたので、少しずつ整理しながら書きたいなー。。。
まず最初に前回の続きの働く事がどれほど幸せに繋がるのかという部分から
1.お金を得る事
2.誰かの役に立つ事
という部分から。
1.お金を得る
お金を得るというのはどういう事だろう?そもそも私たちは資本主義の社会の中に生きている以上、お金がなければできる事はかなり限られる。
障がいがあってもなくてもそれは変わらない。
ではお金があると幸せなのかというと、それもイコールではない。
芸能人なんかはお金をたくさん持っている方でも薬物にハマったり、大きな問題を起こして引退を余儀なくされた方もいる。
逆にお金がなくても幸せになれるのかというと、それは難しいと言わざるを得ない。
なぜかと言うと、この情報化社会の中で、社会で暮らす中で一般的な基準というものを知ってしまっているからだ。
私自身は青年海外協力隊でチリに行っており、チリの方々はそこでとても少ない収入で幸せに暮らしている。
それは周りもそうだからと言う部分が大きい。
考えてみてほしい。
所々はげた土壁の家に住み、冬に隙間風が吹き込むドアの隙間は1cmくらいあり、20年もののTOYOTAの車に颯爽と乗り込み、月に1度みんなでピクニックに行くのが楽しみという状況。
これは決してチリの方をバカにしたいわけではない。ちなみに私はとても楽しかった。
そこで暮らそうと思う日本人ももちろんいる。
正直何もしがらみがなければ、そこで暮らしたいと思える程に楽しい生活だった。
でも、日本でそれをしますか?と聞かれればやはり嫌だ。
それは何故か?
文化が違うので一緒に楽しんでくれる人がいないからだ。
子供たちもそんな生活をしていたら、将来それを嫌だと思う時期がくるかもしれない。
つまり、ある程度綺麗な家にすみ、10年くらいで車を買い替え、時々お金を消費するような場所に出かけるくらいはしている人が多いのだ。
そして、それくらいはするお金が欲しい人が多く、それが出来ないとお金に関して不便を感じてしまう。
そこに障がいの有無は関係ない。
つまり最低限はお金がないと文化的な生活が送れず、その最低限というのは意外と安い金額ではない。
そこまで考えた時に障害年金や生活保護だけでは難しく、それなりの金額を稼げる仕事があるのなら働きたい人は多いだろう。
昔行った障害者就労の研修で、少しずつ平均的に工賃を上げた施設で1万円、3万円、5万円、10万円と工賃が上がっていくとき、働いている方はどのような変化を見せるのか?という話を聞いた事がある。
簡単なデータをとっていたが、1万円の時はココが痛い、今日はきつい、この仕事は楽しくないなど様々な理由で休んだり、働かないで良い理由を探されるそうだ。
3万円になった時、休みが徐々に減り、仕事に責任感をもつ人が出てくる。
5万円になると、自分の事だけではなく、他人のためにお金を使ったり、他人に配慮したりするようになる。
10万円になるとリーダーシップを取り、現場をまとめ上げる人が出てくる。さらに一般の職員より全然仕事ができるスーパー利用者なる方も出てくるそうだ。
これはあくまで平均的なデータであり、全ての人に該当するわけではないが、概ねそのような傾向がみられるという事だ。
ちなみに私も就労系の施設で働いていた事があり、スーパー利用者がいた。
その利用者がした仕事にはクレームは来ない。
職員がした仕事に時々クレームが来る。
少しでも手が空くと、遅れている仕事を見つけてヘルプに入る。
その利用者の方は職員を加えてもトップ3に入るくらいには仕事が出来た。
平均ではないが月によっては受取額が10万円を超えることも少なくなかった。
ちなみに口癖は「給料上げて」である。
このようにお金という事だけを考えても働くと言うことは、障がいのある方にとって幸せに繋がる理由の一つにはなるだろう。
つぎにもう一つの
2.誰かの役に立つこと
について考えてみる。
役割とは人の生活においてかなり重要である。
誰の役にも立つことが出来ないと考える事は人によっては人生の意味がなくなるくらいの大きな出来事ではないだろうか。
ちなみに話は逸れるが私は生きている事そのものに意味があると考えている。
自分自身も何かをなすからではなく、生きていればそれでオッケーであり、そのうえで何をしていくか考えるようにしている。
しかし、もし自分自身が社会の役に全く立たないと考えるような状況になったらつらいだろうと思う。
さて、話は戻るが誰かの役に立つはどういう事だろうか?
直接的に役に立つ?間接的に役に立つ?税金を納める?家事を手伝う?感謝される?様々な意見があると思う。
個人的な意見かもしれないが、誰かの役に立つと考える事は結局は「自分自身を認める事」につながるのではないだろうか。
つまり「自分自身を認める事」に繋がらない「誰かの役に立つ事」は幸せに繋がらないのかもしれない。
最近の傾向を見ていると個人の事が優先されるような意見がある。
しかし、その個人の中には友達だったり、家族だったり最低限の人間関係が存在する。
個人主義の方々も少なからずその人たちのためになることは望んでいるのかなと感じる。
ここでタイトルの内容に戻るが、
「働く=幸せ」ではない。
しかし、それによってさまざまな喜びや楽しみ、文化的な生活、自己肯定感を得るきっかけになるのではないかと思う。
だからこそ、、、障がいがあったとしても簡単に働くことをあきらめてほしくない。
障がいのある方の働くを考える事はとても難しい問題だ。
世の中には本当に素敵な方もいて、そのような方の元で働いている障がい者の方もいる。
障がいのある方を受け入れる事で得られる利益を得、必要なくなれば切るという人もいる。
まだまだ自分自身でも十分に整理できていない。
しかし、障がいのある方が働きやすい職場は一般の人にとっても働きやすい職場になるはずだ。
誰かを特別扱いすることなく、みんなにとって働きやすい職場というのがあれば理想である。
「発達支援事業所 ひらそるの芽」はそのような職場を目指していきたい。