うたを片手に 歩いていこう
ファインダーを覗けなくなった時に、デジカメの液晶画面を見ながら撮るという発想には至らなかった。撮影後にパソコンの画面を見続けることになるし、その作業での眼の負担を考えたらフィルムカメラからデジに移行できる気がしなかった。そして、今やわたしの眼鏡のレンズには眼を守るためになんらかの色が入っている。左目は人工レンズなのでコントラストの感じ方が以前とは違う。デジで撮ってレタッチするにも、色もコントラストも眼の方が狂っているのだ。だからもう仕事でやっていくのは無理だと思った。
せかいは、わたしを抹殺しようとしている。
そう思ったし、もう死ねばいいのにと何回も思った。それでもわたしはガラケーで食べ物を撮り続けた。せかいのすべてに怯えていたわたしにはもうそれしか撮るものも撮る手段もなかったし、そうでもしなければ食べることもする気になれなかった。そんなわたしが撮る食べ物の写真は、絶望的に下手くそだった。それでも、撮るしかなかった。生きるために。わたしには、やっぱり写真しかなかったのだ。
防音扉越しに聴きに行ったライブハウスでたくさんの音楽に力をもらっているうちに、二眼カメラを買うことを思い付く。二眼なら上部から像を両目で覗き込んで撮ればよかったから。その後、右目を眼帯で塞いで左目でファインダーを覗くという荒業を経てなんとなく左目でふつうに撮るようになっていく。でも、そうやって撮った写真はどれも「なんかちがった」。
カメラもフィルムも以前と同じだから、今までのような被写体を今までのように撮れば今までのような写真になる。でもそれは「今までの作品のコピー」だった。それまで、過去作を上回らなければ意味がない、過去の自分のコピーになるくらいなら死ぬ、という信念で活動してきたのだ。誰もを騙せたとしても自分自身だけは騙せない。出来ないことが増えて、たくさんの人が離れていった。せかいはすっかり変わってしまった、と、思った。視界に入るカメラマンを全員殺したいくらいの絶望や憎しみやその他の意味不明な感情でぐちゃぐちゃになりながら、それでも『せかいを小さくするってのとはちがうイメージがあるはずなんだ』と、もがいた。変わってしまったせかいを「どう見たら」いいのか、わたしは誰かを憎むために生まれたんじゃない、ネガティブな感情のその先にあるなにかを発したいんだ、と。
その答を掴むには、撮って撮って撮るしかない。それだけは分かっていた。
復帰展を経て、展示作品持ち帰り自由という形で、いつものギャラリーで個展を打つようになったある日、以前から交流のあったキュレーターの某氏が展示を見に来た。キュレーターというのは作品を売って作家を食べさせるのが仕事だ。そんな、作家には(売れたいならこういう作品を作れとか)厳しいと自称する人に限ってわたしには「やりたいようにやればいい」と言い、そのくせ、わたしと「仕事」をしようとはしなかった。
売り物になる作品を探して毎日いくつものギャラリーを回るのが仕事のその人が、売り物にはならない写真しかないわたしの個展にわざわざ時間を裂いて見に来て、最後に、「こういう人がいるから売れる人がいていいんだ」と言って帰っていった。うまく言えないけれど、それは、わたしにとって、10年越しに得た、ひとつの勝利だった。
「写真をお金に変えることへの野心」がなくなったのは眼の一件が決定打になったのは確かだ。けれど、そうなる前から自分がやりたい空間に「販売」という部品がうまくはまらないことへの漠然としたなにかはあった。だからまあ、眼が逝ったのも、自分の信じる道を進む途中で「ただしく起こった」のだと、今は、思う。
いろいろ大変だったけど、おかげでやりたいことはクリアになったし、あの日想像していたよりも色鮮やかなせかいにわたしはいて、きみがわたしを「写真家」だと言うなら、わたしは今でもまだ写真家でも、あるのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?