孤独に震える夜も君は独りじゃない。だって私がネトストしてるから。
確かに考えてみるとハーフの子供時代って想像つかんスね。
ちょうど自分ハーフなんでどんなオリエンタルでエキサイティングでグローバルな子供時代だったかこれから話していくっスね。
オーストラリア人の家には絶対にデカトランポリンかプールがあるってよくいうんだけど、(大阪人の家には絶対たこ焼き器がある的な)
あれマジで、オーストラリア人のいとこの家にはクソデカプールがあってよくクリスマスに貰ったバービー人形と一緒に泳いでた。
同い年のいとこのサムはスパイダーマンが好き過ぎて四六時中スパイダーマンのマスクを被ってたんだけど、一度そのマスクを被ったままプールに飛び込んで窒息死しそうになってた。
ニュージーランド人のパパは性格が陽気過ぎて、14歳の私を楽しませようとJeepのバンパーに私を乗せて大河沿いの舗装されてない道を爆走してた。産まれて初めて本気で死ぬかと思った。バンパーに命懸けでしがみつく私に運転席から「Have fun??😃 」って聞いてきたパパの笑顔がマジで忘れられない。
お婆ちゃんのシルビアは馬が大好きで、牧場を持っててそこには白馬のジョイボーイが居た。お婆ちゃんはジョイボーイを2人乗りの小さい馬車に繋いで、私を隣に乗せ国道沿いの草原を力いっぱい手綱を引いて走らせてた。
ふと横を見ると国道を走る車を次々に追い抜かして行ってて、あれ何キロ出てたんだろう。
馬車が車を追い越すって可能??
そんなアグレッシブルでオーサムな家族に囲まれて育った私はさぞ明るくてぶっ飛んだ子なんだろうと思うっスよね。私もそう思うっス。
でも実際は、日本の住宅展示場に行くのがめっちゃ好きな不気味な子供でした。
小学校高学年までは「普通」にめちゃくちゃ憧れてて、核家族が出てくるCMとか流れたら食い付いて観たりしてた。
小さい頃からお出掛けすれば行く先々で「あらハーフ?」って合言葉みたいに言われて来たし、大人達は嬉しそうに多様性を謳ってるけど子供の世界では普通にハーフだからいじめられたりしてて、日本に居たらガイジンさんで、オーストラリアやニュージーランドに居たらアジア人のハーフで、どうすりゃいいねんマジで。って思ってた。
持て余した帰属意識の使い道に困り果てたっスわ。
てか、確かにお喋りは得意じゃなかったけど、現代文とか100点取ったりしてたのに外国人呼ばわりはどうかと思うっスよね。あの時、少なくともクラス内では日本人の筆者の気持ちを外国人の私が1番分かってたっスよ。
改変可能な外見や能力値じゃなくて、身体に流れる血が理由で周りと違う場所に分類されてしまうあの何とも言えないどうしようも無さ。
カップ焼きそばの湯切り失敗して麺を全部シンクにぶちまけた時みたいなどうしようも無さ。
そんな自分が将来一般的な幸せを手に入れられるとは到底思えなかったけど、住宅展示場に居る時は違った。
置かれたパンフレットには何処にでもあるようなシンプルな家具の前で何処にでも居るような核家族が笑ってる。
私の人生の何処にも無いもの。
展示場の中の小綺麗な部屋に真っ白な壁、大き過ぎず小さ過ぎない、ごく一般的な家族のごく一般的な幸せ。住宅展示場のモデルルームの中に居る時だけは、いつか自分もそんな普通の幸せを手に入れられるような気がした。
高校に入って始めた派遣のバイトで埼玉の誰も知らない奥地の住宅展示場で15時間アンパンマンのスタンプラリーの受付させられるまでは。
バリしんどかった。真冬の住宅展示場を抜ける北風の冷たさは血管まで凍らせるっスわ。
今でこそ漫才や人と話す時、ハーフとか、女の子とか、うつ病とか、分かりやすさを求められるからそういう見出しをアイデンティティみたいに話して自分を形容してるけど、そういったものを度外視した先に見えてくるアイデンティティは分類し難く多面的で透明で、生命に対して限りなく無差別だ。
帰属意識に従う事を少し辞めるだけで孤独は押し寄せてくる。
でもそれを開示したり、何かしら他の形に表現する事は孤独の共有になる気がする。
分配は出来ない共有。
孤独ってのは貴方だけのもの。私だけのもの。
分け合う事は出来ないけど見せ合えるね、それだけでも、あなたとなら嬉しいね。
「普通」に憧れんの辞めたら、自分より先に他人に好きな人が増えたの不思議。
今めっちゃ1人でずっとこのブログ書いてるけど、なんか、一人じゃない気がしてきたっス。
今日はいつもよりいっぱい知り合いのフルネームGoogle検索してみよ♪