まみまぬんでら
少し久々の投稿。
このわけのわからないタイトルは、最近読んだ村田沙耶香さん著の短編集「丸の内魔法少女ミラクリーナ」に収録されている「変容」の中でつかわれる、オリジナルの言葉。
言葉の意味は、作品を読んでもよくわからない。
今回は、ぼく自身のパーソナルな部分を書いていこうと思います。
長年自分のうちに溜め続けて、もちろん親しいひとに話したりした内容もありますが、そうでないものもあります。そしてかなり過激な箇所もあります。
キーワードは「家族」
ぼく自身はもうなんともないですが、結構ヘビーな内容です。事前にご承知のうえ、読み進めていただければ幸いです。何回か分けることも考えましたが、こういうのはひとまとめにして出した方がいい気がしたので、今回の記事のみにします。
今回これを書こうと思ったきっかけは、世の中には沢山の境遇や考えがえのもとに生きているひとを最近改めて思い知りました。
きっとこのぼくの記事を読んでいるひとにも、ぼくには到底計り知れないような人生を歩んでいるひともいるかもしれません。そういったひとたちの人生と比較したり優劣をつけたり、そういうことをしたいのではなく、「あ~、こんなやつも世の中おんねやな」くらいに思って頂けたら幸いです。
「俺って、こうこうこうでこんなやつやねん」
くらいのそんな軽い気持ちで書いていきます。
枕が長くなりました。
「もし、パパとママが離婚したら、どっちについてくる?」
これがぼくが覚えている限り、一番古い母の言葉の記憶。
ぼくの家族構成は、父・母・ぼく・弟の4人家族だった。
父は、去年の6/27に心不全で急死。
母と呼ぶひとは2人おり、いわゆる産みの母は、5年前に父と離婚した後、2年前に故郷である宮城県に越し、ひとりで住んでいる。
弟は大学から東京に住み、就職後もずっと関東住まい。
母と離婚後にすぐに再婚したひと(2人目の母)は、同じ市内にひとりで住んでいる。
実家と呼べる場所は、2年前に土地とともに売却し消滅。
つまり、散り散りってやつ。
冒頭のセリフと、この簡単な家族構成と現状だけで察していただけていると思うけど、まあ、仲悪い。
もうちょっと詳しく書くと、亡くなった父と産みの母。そして、ぼくと両親。弟と両親。
この三関係が悪い。
ぼくと弟は今は仲は良い。今はって書いたのは、お互い学生(特に思春期のころ)は仲悪くしょっちゅう喧嘩をした。しかし、弟はぼくよりひとまわりゴツいうえに、陸上部の短距離選手で筋トレが趣味みたいな男だったので、いつもぼくがボコボコにされた。おまけに大学も法学部出で今は行員。兄の威厳とは。
けれども、お互い自立して大人になったいま、過去のことは水に流し、血を分けた兄弟として、互いに助け合いながらの関係でいる。
後妻の母とは、特に良いも悪いもなく。なんせぼくが社会人になってからできたひとだし、もともと父の病院(父は獣医であり、開業医)で働いていた看護師で、面識は殆どなかったけれども、ずっと父を助けてくれていたひとだから、感謝はしている。弟も同じ気持ちだ。
「もし、パパとママが離婚したら、どっちについてくる?」
ぼくの家族について説明するなら、この言葉がすべてだと思っている。
ものごころつくかつかないころから、弟ともどもたびたび母からこの言葉を言われ、なにかあるたびに、朝だろうと昼間だろうとみんなが寝静まっている夜中だろうと、ものすごい怒声を飛ばしあいながら喧嘩をする両親。
そのたびにいつも負けるのは母で、そしてそのストレスの捌け口としての矛先はぼくたち兄弟。
父から母への暴力。そしてその母からぼくたちへの暴力。そんな毎日。
心から仲が良く、お互いを愛し合っていた光景など、ただの一度も見たことがない。そんな毎日。
幼いころから、父からのストレスに耐えかねた母からの言葉や肉体的な暴力の数々。
ぼくが人生で殺してやりたいと心底思ったのは、そんな両親だった。
「お前性格歪んどるな」と実の息子に堂々と言った父親に刃物を向けたこともある。
「あなたなんて産まなきゃよかった」と叫んだ母親の顔面を思いっきりぶん殴って、頬骨を砕いたこともある。
でも、そのときも、これを書いているいまも、正直別に微塵も後悔していない。やり方としては、正しくなかったかもしれないが、間違ってはいないと思っている。
いまはそんな殺意はなく、死んだ父とも亡くなる1年前から関係は回復していったし、突然死んだときは、本当にショックだったし、悲しかった。
母に対しては、もう嫌いだとか殺意だとかそういう感情を全て通り越して、無の境地。とにかく、もう残りの余生を父や父の親族、そしてぼくら兄弟のことなど気にせず、静かに暮らしてくれたらいい。それ以外の気持ちはない。いや、もう頼むから俺に関わらないでくれと思っている。
「何故離婚しなかったのか?」
社会人になってから、いつかの母との喧嘩で訊いたことがある。
「あなたと弟を育てるため。片親だと金銭的に大変だから」
という答えがかえってきた。
「そんなのはハッキリ言って、子どもを盾に都合よく体裁と世間体と自分たちの保身のための言い訳でしかない」
そう言い返した。
ぼくの親戚や友だちにも、片親のひとはたくさんいる。もちろん、彼らの家庭が実際どれほど大変なのかはわからない。ひとの親にすらなったことないのに、片親で子どもを育てることがどれだけ大変なのか、もちろん知らない。
けれども、それでも、少なくともぼくの周りの片親のひとたちは、みんなまっすぐ育って、面白くて優しいひとたちばかりだ。片親の子だから、不幸だとは思わない。
なによりも本当に子どものためを思うなら、何故ぼくと弟に相談しなかったのか。
小学校の高学年くらいにでもなればある程度わかるし、というか散々ちいさいころから離婚離婚って言葉が使われる家庭で育ったら、嫌でもわかる。
もし仮にそういう判断ができないくらい小さかったら、とりあえず離婚して、成長してそういうことがわかるようになってから説明すれば良かった。
結局どちらもせず、「子ども」を盾に言い訳にして、お互いが我慢しつづけた結果、片方は自分の病院の看護師と不倫(真実かは知らない)、片方はぼくが大学生くらいからうつ病を患う。
あげくのはてには、そんな両親のもとで育った子どもは2人とも性格が歪む。
「それでこの現状の何がいいんだよ」と母に言ったら、ぐうの音も出ないといった顔になった。
そもそも、ここまで永年ずっと仲が悪い2人が、何故結婚したのか。
母ははっきり言って、いわゆる田舎育ちの世間知らずな箱入りひとり娘っていうひとで、まあ、ひどい。あらゆる意味で。
被害妄想にかけては、この世で右に出るひといないのではってくらいひどい。
逆に父は本当に頭のいいひとで、ひとのことを見る目も持っていたひとだったから、そんな父が何故母と結婚したのか。
社会人になってからその理由を知った。衝撃を受けたが、なんてことはないよくある話だった。
そもそも、今ほど交通の便も連絡する手段も豊富ではない時代、どうやって大阪住まいの父と、宮城住まいの母が出会ったのか。
きっかけの場所は北海道らしく、お互い学生だった2人がたまたまとある観光地で出会い、仲良くなったらしい。
けれども、今のご時世のようなメールもLINEもない時代、距離も遠いからしょっちゅう会えるわけでもない。
そんな2人は、文通でお互いの仲を深めたらしい。
実際に会ったのは本当に数える程度で、ほぼ手紙のやりとりのみでお互い好きになり、そのまま結婚にまでなったらしい。
別にぼくは、仲良くなる手段も好きになる理由も、ひとそれぞれだから、とやかく言うつもりはない。
言うつもりはないけれども、でも、それで実際のリアルなお互いの性格や考えや価値観のすり合わせもせずに、ほとんど勢いで結婚して暮らしだして、お互いの嫌なとこが見え始めたら、そりゃうまくいくわけない。
アホくさ。ここまで聞いてそう思った。我が親ながら、なんて浅はかなんやとショックを受けた。けれども、そういう流れであれば、確かにあの仲の悪さも納得できた。
それから子どもが2人生まれ、どんどんどんどん育て方やあらゆる価値観に亀裂が入り、大きくなり、今日に至ると。
弟にも話したら、全く同じ反応をしていた。そして同じようにすぐに納得した。
でも、最後は離婚した。
かれこれもう、7年も前。当時仕事で愛知県に住んでいたとき。
突然母から報せがきて、父が倒れたとのことだった。
原因は脳出血。そのときも、もしかしたら助からないかもとのことだったが、なんとか一命をとりとめた。
しばらく後遺症により、呂律がまわらない。記憶が混濁して曖昧になっている。半身が麻痺している。などがあったが、麻痺以外は回復した。
麻痺に関しても、日常生活が出来るところまでは、本人の訓練による努力で回復した。しかし、仕事である医療の技術はほとんどが不可能になった。
そもそも何故こうなったか。答えはシンプル。医者の不養生。それ以外のなにものでもない。偏食にして運動不足。睡眠時間もバラバラなうえに超が3つくらい付くほどのヘビースモーカー。ずっとそんな生活していたら、そら倒れるがなと。弟ともども、可哀そうではあるが自業自得やなと思った。
けれども、流石にそんな父を放っておくこともできないので、母がずっと看病をすることになった。
あんなに父を嫌っていた母が、こんな形でとは言え、父につきっきりで看病をする。これはもしかして、思わぬ怪我の功名か?と、ぼくたち兄弟、そして他の親戚一同微かな希望を抱いた。
しかし、それはあっけなく消えた。
最初こそうまくいきそうな気配はしたものの、すぐにまた喧嘩しだし、ついにはヒステリック&パニックを起こした母が離婚(と同じく見舞いにきていた病院の看護師と再婚したらという父への謎の提案)を申し立て、父もそれを承諾。
かくして2人は離婚し、ほどなくしてすぐ父は再婚した。
ちなみに、ぼくたち兄弟へは両方とも事後報告。とはいえ、もう家から出ているし、むしろ今更かよと弟ともども辟易していたから、どうでもよかった。
しかし、2人の諍いはこれで終わらず、ここから4年近くに及ぶ慰謝料のやりとりによるゴタゴタが起きる。要するに、母が父に対して希望する額の慰謝料をもらえなかったからもっとよこせという内容で、裁判沙汰にまでなった。
それもぼくたち兄弟には知ったことがなかったから、どうでも良かったけれども、そうはいかなかった。
長男であるぼくにはなにも言わずに、法学部である弟に、2人してこっそり色々相談していたのである。どころか、その流れで弟のプライバシーなとこにまで、およそ実の親がそれ言うかっていう突っ込みをしだし、ついに弟もブチギレ。
「本気で殺してやろうかと思った」と怒りに戦慄く弟。
その話を聞いたぼくもまたブチギレ。
散々幼いころから、「あんたが長男なんだからしっかりしなさい」「ちゃんと両親の助けになりなさい」
と耳のタコでタコパができるくらい親戚連中ともども、ぼくに言ってきておいて、いざとなったら自分は蚊帳の外で、弟頼みかよと。
「今後金輪際あいつに関わるな。そんなことしたら俺が絶対に許さないからな」
と、2人に怒声とともに脅しをかけた。その通りに、2度と弟にそういう関りをすることはなかった。
少し話は変わるけれども、ぼくは新卒で入社した会社を3年前に退社した。
理由を話すために、それから更に1年と少し前にまでさかのぼる。
社会人になってから、出来るだけ実家には帰りたくなかったが、学生時代の友だちがみな関西住まいのため、とりあえずの寝泊まりの場所として実家に寄っていた。
そんなある冬の日、いつものように実家で時間をつぶしてTVを観ていたら、後ろから突然母が「ねえ、見て」と言って、自分の腕をさし出してきた。
「うっ…」
ぼくの目の前には無数の切り傷の痕。そう、リストカットをしていたのだ。
「マジかよ…」と内心動揺をしていたぼくをよそに、突然不気味に高笑いしだす母。
「あのひと(父)の大事なこの家を、私の血で汚してやるんだから!!!」
ざまあみやがれと吐き捨てながら笑い続ける母。
これはヤバいと戦慄を覚えた。
このときはもう既に、クリニックに通っていて、薬も飲んでいるとのことだったが、いわゆる躁鬱の躁にあたる側面だった。
かかりつけの医者からも、もし本人(父)がいたら、恐らく刺し殺しているほどの精神状態とのことだった。
それからしばらく、実家に帰るたびに様子を見ていたが、薬などで比較的に落ち着いている状態が続いているとは言え、このままひとりにしておくのはマズいなと考え、ちょうど仕事でも色々あったから、「ここが決め時かな」と思い、仕事を退職。
それから実家に戻り、母と暮らすことに。
しかし、覚悟はしていたものの、やはりというか、想像以上に重度の精神疾患者と暮らし、毎日いやでも顔を突き合わせ続けるのは尋常じゃないストレスだった。ことあるごとに些細なことでも喧嘩がたえなかった。
これはひとりではキツ過ぎると感じ、父にも相談することにした。で、当初は父の計らいで、ぼくの救済措置を考えてくれたが、それも急に白紙にされる。
流石に精神的に追い詰められていたぼくは、それで父に対してもブチギレて、そこから半年近く絶縁状態になり、それが引き金で、ぼくの心も壊れた。2か月ちかくほぼ家にひきこもった。けれども、家には母がいるわけで、もちろんそれそのものがストレスだったから、悪循環だった。
すべてに絶望したし、生きる意味も見いだせなかった。しかし、根が臆病だから死にたいとは思わなかった。それはこわかった。ただ、生きたいとも死にたいとも思わなかった。
今思い返しても、きっと少なからずあのときもうつに近かったと思う。
そんな日々を過ごしていたら、ある日会社員時代に住んでいた街(市)2つから封書が届き、中を見たら、住民税支払いの書類だった。合計した額を見たら真っ青になった。まず間違いなく払えない。
働いていたときの貯金だとか退職金だとかも、ひきこもってたときに使いまくったので、ほとんどなかった。
急に現実に戻された気になり、ちゃんと払いきらなきゃ迷惑かかると、変に真面目な部分が出てきて、働かなきゃとなった。
しかし、出来るだけ短期間でまとまったお金を貯めるにはと考え、出した結論が旅館に住み込みで働くだった。いわゆるリゾートバイトってやつ。
そこからあれこれ探した結果、栃木県の那須塩原地方にある老舗の旅館にすることに決めた。
正直住み込みも初めてだし、旅館の仕事も初めてだし、なにより栃木も那須塩原も初めてで、不安だらけだった。
しかしずっとひきこもってばかりで、すっかり負け犬根性が身に染みて、このままではいけないともずっとわかっていた。こうなったらもう荒療治で徹底的に自分の根性叩き直そう精神で飛び込んだ。
期間としては約3か月間。那須塩原の山奥の僻地。観光地以外なんもなし。
結果としては、行ってよかった。そこで出会い仲良くなったひとたちも個性的で面白かった。意外にもぼくと同年代で、こういうリゾートバイトしているひとが多いことを知った。いわゆるアドレスホッパーのようなひとたちで、そういうひとたちとの出会いも刺激的だった。
仕事も辛かったし大変だったけど、同僚に恵まれた。とにかく、自分とは全く異なる環境で生きてきたひとたちの話は本当に面白い。
ただ、一度だけ仕事中にものすごくひどい熱中症による脱水症を引き起こし、全身痙攣と強烈な痛みと吐き気に襲われぶったおれた。本気でこれは死ぬと思った。
すぐに救急車に運ばれ、一晩入院して、退院したあとも数日安静にしたら復活した。生きているって素晴らしいと思った。
そんな激動の3か月を過ごし、その給料でしっかり住民税も払った。
気がつけば、年の暮れだった。
その翌年からすぐに、派遣登録をし、まずは生活を安定すると決めた。
が、その矢先に、父から(正確には父が雇っている弁護士)手紙が届き、春には実家を土地ごと売却するから出て行ってくれというものだった。
脳出血の件から、奇跡的に日常生活レベルまで復活した父だったが、以前のように獣医としての仕事は出来なかった。それを雇っている他の医師たちがカバーしながらやっていっているような状態だった。
しかし、本人も再婚して新しい暮らしがあり、リハビリなどもしなければならない、でも実家のローンはまだ残っており返済があった(ちなみに父は別でマンションを借り住んでいる)
で、そのローンを完済するために、実家と土地を売れば、おそらくそれでまかなえるだろうとのことだった。
そのために出て行ってくれと。
しかし、実はその話はその前年の夏頃から持ち上がっていた話ではあった、けれども、それから一切連絡がなかったから、売却しなくてもなんとかなったのかと思い(事実、新しく雇用する医師が増えれば仕事も増え収入が増えて、売却しないかもと父本人が言っていた)、その話を忘れかけてすらいた。
そんな折に、急にその話が持ち上がって、しかもあと2か月で出ろと。
流石に急すぎるし、働き始めたとはいえ、金銭的に厳しいのは変わりなかったので、なんとかもう少し待ってくれと事情を弁護士に説明し、父と弁護士で協議した結果、5月のGWまで待ってもらえることになった。ただし、水道ガス光熱費は払えよとなった。
母に関しては、今まで何度か働いて(は辞めて)で貯めた分と、父からの慰謝料をもとに、宮城に帰ることになった。
2月の中旬、ついに母が旅立つ日がきた。
数日前にまたも金銭関係で喧嘩したが、それもひとまず落ち着き、最後はぼくへの謝罪と感謝を述べ、逃げるように出て行った。
そこからは、ぼくもGWまでに引っ越すべく、働くことに専念した。
しかし、同じ市内での引っ越しとはいえ、やはり引っ越し関係のお金は非常に高くつき、結果としてにっちもさっちも立ちいかなくなり、絶縁状態であった父に頭を下げてお金を借りることになった。
けれども、結果的にこれがきっかけで父との関係も少しずつ修復し、毎月の借金の返済を兼ねて、月一で父と食事に行くようになった。
去年の6月の父が亡くなった当日、ちょうど月末で、もうすぐ7月でまた父との食事の日どりの連絡しなきゃなぁ、と出勤中にぼんやりと考えていた。そしたらまさかその日に急死するもんだから、なんというか、わからんもんだな。
ちなみに再就職するまで派遣の仕事を通じて、運送会社やアパレル、百貨店の洋菓子店や和菓子製造の工場、塾講師など様々な職の経験をつめた。
再就職先のアパレル会社も、接客業をいう点では、自転車専門店時代と同じだが、転職活動開始当初は全く違う職を考えていた。どうせなら今までと違う環境も悪くないと考えた。
しかし、派遣の仕事で、会う人会う人から「話し上手だし、説明の仕方が丁寧だから、接客業が向いている」と言って頂いたので、そんなに言われるならやっぱ向いてるのかなと思い、接客業中心にシフトした。
でも、そこもパワハラだモラハラだなんだかんだで、結局辞めてしまったけれど。以前別の記事でも書いた通り、そこに入社したことも退職したことも、なんだったら、パワハラなども含めて、いい経験だったと思っている。いいっていう表現が適当かは、自分でもよくわからないが、すくなくとも後悔はない。
そして母のことだけれども、宮城に帰ってからもたまに電話のやり取りはしている。
向こうでもクリニックに通いながら、なんとかパートで仕事をしながら生活は出来ているらしい。
しかしその電話も、最初の何分かはいいけれども、だんだんと煩わしくなっていく。
なんせ長い。正直興味のない話題ばかり、多分少しでもぼくと喋ってたいからなんだろうが、とても億劫になる。段々途中から適当な相槌ばかりで殆ど話は聞かなくなる。
それからよほどのことでもない限りは、電話もしないようになり、ついにここ最近は全くしなくなった。
距離もあるし、時間もある程度たっているから、幾分かは自分のなかでも変化があるかとも思ったが、やはり今でも母とコミュニケーションとるのはストレスだった。
本人にそれを正直に告げたら、またメンタルが不安定になるだろうから告げないが。
最近、色んなメンタル本はじめ、本を読み漁っているが、とにかくどの本も一貫しているのは、
「たとえ実の親だからって、大切な人生を捧げることはない。犠牲にする必要はない。嫌なら関係を絶てばいい」
と書いてあり、本当に救われた気持ちになった。
今までは、やっぱりぼくも正直どこかで世間体を気にしていた部分はあった。
「長男なんだから、しっかり親の面倒を見なければならない」「親孝行をしなければならない」
小さいころから、繰り返し繰り返し、本当に繰り返いし繰り返し言われ続けて、そうしなきゃ人としてダメなんだ。そうしなければ、自分は幸せになれないなってはいけないんだ。そう自分に言い聞かせ、自分で自分を苦しめてきた。
でも、もうそれもやめた。
うつになって仕事辞めて、ひきこもって、それらを経験して、これからはちゃんと自分を大事にしようと決めた。
そう思えるようなひとに出会えた。
勘違いされたくないのは、こんな環境で、こんな思考で生きてはきたけれども、親や家族を大事にしているひとのことは本当に心から尊敬している。
ぼく自身がそうでなかったからこそ、余計に羨望の思いも混ざりながら、出来ることなら、こういうぼくの家庭のようなことなど起きないでほしいと思っている。だれもしあわせにならないから。
でも、少し前に弟と、お互いの結婚観や家族観などを話したときに、弟は結婚も家族もしあわせなものと思えないし、子どもも俺は嫌いだからいらない、と言っていた。
それを聞いて、正直ぼくも気持ちはよくわかった。そりゃものごころついたときから「離婚」の言葉が平然と飛び、しょっちゅう目の前で両親が喧嘩している。それを見て、結婚がしあわせなものなんて思えっていうほうが無理がある。
ぼくは幸いなことに、叔父と叔母、つまり従妹の両親は、まさに文字通りうちの両親と正反対で、本当に夫婦の仲が良かった。もちろん家族全員すごく仲良かった。まさにぼくが憧れ、欲しかった家族像そのものだった。それをやっぱり幼いころから、同じくらい見てきたから、みんながみんな仲悪いわけではないと子ども心にも思っていた。
けれども、弟も同じ環境で育ってきて、その考えに至ったわけだから、やっぱり他人事ではないし、むしろもしかしたら、ぼくと弟の考えが全然逆だった可能性もあったわけで、ぼくが夫婦や家族が仲いいなんて思わないという考えだったかもしれない。それは大いにありえた。
たらればでしかないけれども、でも、やっぱりそう思わずにはいられないから、たとえ弟がそう考えていても、ぼくはそれを否定するつもりはない。もしかしたら、今はまた考えが変わっているかもしれない。
なんであれ、たとえどういう考えでどういう生き方しようとも、たったひとりの弟なんだから、助け合えるときは助けあって、でもお互いの人生に過干渉はせずに、自分たちのそれぞれの人生を進む。そういう関係であり続けるだろう。
そして、母に対して思うのは、嫌悪とか憎悪とか殺意とか、もはやそういう感情はない。はっきりというのであれば、興味ない。とにかくもうぼくのことも弟のことも、そして父の一族のことも放っておいて、余生をしあわせに静かに暮らしてほしい。ひとりで過ごすも再婚して誰かと過ごすのも、好きにしたらいい。それだけである。
ぼくはぼくの人生を生きる。今までそれなりに、こういうしんどい環境に縛られ苦しみ、もがいてきたけれども、それでも、そんな人生でもぼくの人生、悪くないなと思っている。だからこそ、これからは自分を大事にしあわせになるべく生きていく。
気が付けば、9700近い文字数。圧倒的過去最多。
ここまでもし読んでいただいた方がいれば、本当にありがとうございます。
やはり、こういうことは書くか迷いますし、表現の仕方とかも考えましたが、とにかくありのまま、そのときそのときのぼくが思ったこと感じたことをそのまま書くほうがよいと考え、ここまで書きました。
最後にひとつ、これは文中にも書き、実際に子どもがいるなかで離婚を考え、相談を受けたことのある友だちにも言った言葉を書かせてください。
夫婦の争いに、自分の子どもを巻き込むな。ましてや言い訳や盾にするな。月並みな言葉だけど、子どもは親を選べない。好きで自分たちのもとに生まれてきたわけではない。それなのにその子どもの人生まで親のエゴで振り回すな。めちゃくちゃにするな。
長々とありがとうございました。
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