ひかりのほうへ
この半年間、いろいろなことが起きました。
長らく続けてきたことのひと区切りがありました。
数日間、自分の座標を見失った気がしていました。森の中に迷えば、返って直感を発揮することになるということもあるでしょう。
すぐにこの方角で間違ってないという確信が芽吹いて、自分を後押ししているのも分かりました。
背中から押されているというよりも、ど根性ガエルのぴょん吉が胸を引っ張って、自分をそこへ連れて行こうとするように。
木が成長をしていくために、葉を風に当て、ときには腕のような大きな幹を落とすことがあります。自分自身が生きるために必要なことだからです。また、自分を自分の本当の形におくことは、生態系を保つために最も重要です。
ここを超えなければ、次はない。そういう気持ちで書き始めたこのnote。新しいことを始めたいなら、終わらなければなりません。
いま僕が取り組もうとしていることについて、「なぜにそんなにもがんばるのか」と言われました。なので、そのためにこれを書く必要があると感じました。
ここ、人生のターニングポイントにおいて、自分の影に目線を運んでいるエピソードが続いてしまいます。若い世代の表現でいうと黒歴史というところでしょうか(笑)
いえ、これは僕のニュー・シネマ・パラダイスです。
人の心には、パステルカラーに沈んだ漆黒があります。影があるから立体化して、コントラストが生まれていきます。
ここに綴っていない楽しい場面が、数え切れないほどありました。いつでも光と闇は同じコインの表と裏、ワンセットですね。この地球には光と闇がいつでもどこにも存在しています。どちらかが存在しなければどちらも存在できません。
僕はためらいなく歩くため、一度沈んだ部分もしっかりと見つめて、このパーフェクトな世界の中で、これから自分たちが光のほうへ向かうために。
2021年冬至
2021年12月18日。
あの日から目を逸らすわけにはいかない。25年間続けてきたNPO法人のサッカークラブの運営から外れた日だった。
話し合いは長時間に及んだ。衝突は確かにあった。
紐は解くほうが難しい。ひとつ絡まった結び目を放っておけば、いつしかまたそのポイントが絡まりつつも、新たな結び目が生まれていく。
そうして大きな塊のようになったとき、切って離れることしかなかった。
誤解のないように伝えたい。
25回の春を、25回の夏を、25回の秋を、25回の冬を、一緒に越えてきた。彼には彼の考えがあっただろう。戦友として、パートナーとして、感謝はもちろん抱いている。
そして、スタッフのみんなには感謝でいっぱいだ。ベストな終わり方が見つからなかっただけなんだ。
「すっきりした」と、妻に伝えた言葉は真実だった。
あの日、開放された心の窓から安堵の風が吹き込んだ。
ただ、そこから教え子や仲間たちと、連日のように連絡を取り合うと、抑えていた感情が大粒の雨になって、自分の心に降り込んできた。
迷いなく進むほど強くはない。迷いの中で決断を待つしかなかった。
とりわけ捨てることが、これほどに大切だとは後から気付いたことだった。
本棚に並べていたすべてを一度処分したら、毎日1冊ずつ増えていくような、そんな出会いに恵まれたのだった。中には、一生捨てることのない辞書を手に入れたような出会いがいくつもあった。
この地球(ほし)に生まれる前、私たちはひとつだった。自分という存在を知るために、バラバラになっていったのだと思う。
引き寄せという言葉があるが、自分はこれを物質化と呼んでいる。
心の深いところで必要としているものは、受け取ることができる。
人は鏡というが、これ、自分が親機だとすれば、他者はBluetoothスピーカーのようなものだ。自分が送信してるメロディもノイズも、すべて音に変換して誰かが自分に聴かせてくれているのだ。
瞑想をしている自分がいる。外に向かってしか生きてこなかった自分が内側を見つめている、これは大きな大きな変化だった。答えが内側にあるような気になったからだ。
すると、次第に世界の色合いが変わってきた。
そして、迷いの中にたしかなものを見るようになっていった。
幼児期
カレーのお弁当
杉並区の東高円寺で過ごした。
環状七号線と青梅街道の交わる場所。クラクションや排気ガスの絶えない都会のくびれに、肩を寄せ合った姿の細長いビル。
10階建ての8階。1フロアに2つほどの居住しかないマンション。トーレマンションという名称だった。杉並区和田3-54-18。電話番号は317-0200。
父親はこの頃に転職をして、池袋駅にある家具店で働いていた。うちは共働きで、母は銀座のスナックで働いていたので、16:30には家を出ていった。
ちょうどその時間帯は、アニメ番組が放送されていて、藤子不二雄シリーズだったかな、自分の淋しさを紛らわすようにチャンネルを合わせた。
18:00にすべてのチャンネルが一斉に着替えて、暗いニュースが眼球に飛び込んできた。
さっきまで楽しかった気持ちが、一気に紫色で塗らていく気持ちになって、急いでテレビのダイヤル式のスイッチを消した。
4歳上の兄は、2駅先の南阿佐ヶ谷駅の塾に通っていた。なので、夕焼けの差し込む6畳ほどのリビングで、宅配弁当をひとりで食べた。
カレーのお弁当が楽しみだった。冷たくなってしまったそれを、付属されたプラスチックスプーンで、ひとりで静かに食べた。
それが、6〜11歳の自分の日常だった。
当時、『ドラえもんのび太の宇宙小戦争』という映画があった。
武田鉄矢の歌う少年期という曲の、そのメロディーと歌詞が沁み込んだ。当時は、この曲のことを自分のことを歌ったものだと疑いがなかった。
22:00頃まで、兄の帰りを待っていた。
毎日のことではなかったのかもしれないが、大人になった自分の中には夕闇の中の自分がいまだに取り残されている。
とにかく、寂しくて仕方がなかった。
父のこと
父はお酒が好きだった。そして、ストレスを溜め込んでいて、いつも生きづらそうにしていた。
劣悪な家庭環境の土で育った過程の中で、生き抜くために身体中にトゲをつけてしまったのだと思う。本質的には、劣等感が強かったのだと思う。
父は帰宅すると僕たち兄弟に牙を剥いた。
僕たち兄弟は、精神的に痛めつけられていった。呼びつけられ、正座をさせられて1時間以上の説教をされる。そういったことが、交通事故のニュースぐらいに茶飯事だった。
「いつか殺す」ずっとずっと、そう考えていた。
給料袋をなくして帰った夜があった。
鬼の狂乱のように家中の家具に当たり散らしていた。怯えて涙を浮かべている兄を見たが、恐くてなにもすることができなかった。
大量の酒と煙草を飲み終えて、気持ちよくなってようやく鬼が寝付いたあと、ようやく寝ることができた。投げ飛ばされた引き出しを片付けることもできずに。
深夜0:00過ぎに帰ってくる母が悲しむことだけが気がかりだった。
だけど母が帰ってくるまで起きてはいられずに、うつぶせして眠っていた。
自己防衛本能
その頃、人の機嫌が足音でわかるようになった。自分の命を外敵から守るためだったと思う。
マンションの玄関の前のエレベーターが1階から動き出す音、エレベーターが1階から8階まで上がってくるまでの約20秒ぐらいの間は、耳をすましていた。
そのたびに、心臓をギュッとつかまれて、身体に力が入った。うちの階でエレベーターが止まると、心拍数が一気に上がった。
玄関の扉が開く前、父がポケットからキーケースを取り出して、いくつかの鍵が触れ合う金属音の間に、急いで勉強机に座った。
父が帰宅すると、合言葉のように買い物を命じられた。
煙草のショートホープ2個、アサヒスーパードライ500mlを3本。
間違ったものを買って帰れば、機嫌を悪くしてしまうので、酒屋さんに正確に伝えていた。そのうち酒屋さんは、僕の顔を見れば何を買うか分かっていった。
煙草は自動販売機に背伸びをして、慎重にボタンを押した。お釣りも忘れずに握りしめた。
いつも、自分以上にやられていたのは4つ上の兄だった。
父の機嫌が悪い日は、熱いシャワーを風呂場でかけられていたこともあった。ガラスのコップを投げつけられて太腿から血を流したのも兄だった。
人は怒りの感情が出る前には、必ずサインがある。
目の動き、口の動き、表情の歪み、脚の動き、声のトーンなど、活火山が噴火する前に、その地形が微細な変化を表すように、人にも同じことがある。急に怒り出すなんてことはないのだ。
父から自分の命を守るため、人の感情の変る予兆を学んだ。
それから30年後、大人になった自分の家族と兄、そして父で集まった時があった。
兄はおめでたい場にも関わらず、積年の恨みを晴らすように、父に蹴りを入れた。兄き、その許せない気持ち、心から分かっているよ。
いまでもなかなか結婚に踏み切れない兄の思いは、自分にはよく理解できている。
学童期
ひとりの夜に
宅配弁当を食べ終わると、恐怖感が襲ってきた。
ひとりが始まるからだ。その空虚感から逃げたかった。それがくる緊張感から逃げたかった。
用件もないのに、友達の家に電話をかけた。
親友の池田くんの電話番号は316-8498。電話をかけると決まって池田くんのお母さんが電話に出た。
「はしぐちですけど、シュウジくんいますか?」
お母さんはやさしく応えてくれて、代わってくれた。
「宿題なんだっけー?やったー?」
という他愛もない会話が習慣だった。
できるだけこの電話を引き延ばそうと、僕はとっておきの楽しい話をいつも準備していたと思う。
いま思えば、池田くんのお母さんは、僕の境遇を分かっていたのだと思う。
「ハシグチくん、ひとりで留守番してるから、シュウジお話ししてあげてね」
と、家庭で伝えてくれていたのだと思う。
電話が終わると、また静寂が自分を包みだした。
つらい時は、部屋中に響き渡る声でひとり大声を出して、叫び続けていた。
なにを叫んでいたのかは憶えていない。その声が打ちっぱなしのコンクリートに冷たく吸い込まれていく、あの独特な反響を憶えている。
シュウちゃんは4人兄弟の長男だった。
なぜか彼とは共鳴する部分があった。
彼は小学校の頃に家で寝たきりの父がいたのだった。
「遊びに来てもいいけど、家には入れないからね」
シュウちゃんが、玄関前でよく言っていた。
彼は一度も涙を流したことがなかった。
唯一、彼が泣いたのは、鉄棒にぶら下がっていた彼の脇を、僕がこちょこちょして手を放してしまい、彼が肘を強打したときだった..
父親に怖れて過ごす僕と、父親の存在が薄れているシュウジ。
どこかに同調があったのだろう。
僕が転校したあとの中学時代、シュウちゃんのお父さんの訃報を聞いた。
それから20年後、一人暮らしを始めた頃、拾ってきた猫を"シュウ"とした。偶然だとは思うが、たしかにシンクロしていたのだと思う。
クラスメイトの死
小学3年生の頃、夜の留守番中に一本の電話がなった。当時は黒電話が主流だったが、うちはプッシュ式の電話を使っていた。クラスメイトのお母さんからの、学級連絡網だった。
「本日夕方、クラスの岡本まさひろ君が交通事故でお亡くなりになりました」
ショックな内容な上に、連絡網ってどうすればいいんだろう、という混乱が重なり、9歳の頭では処理できないうちに通話は終わった。
一般家庭なら、この友達の死という出来事を、保護者が一緒に悲しみにくれて、死というビッグデータを上手に言語化して、静かにアウトプットして消化いくのだろうが、僕にはそういう環境設定がされていなかった。
電話の前のメモ帳に、「おかもとくん、しんだ」という走り書きをした。
そして、死という考えもしなかった文字列を、ただ見つめることしか出来なかった。涙がそこに居合わせることはなかった。
岡本くんは、クラスメイトでもあり、同じ小学校の少年団サッカーチームの仲間だった。当時の小学生チームは3年生から入部できるのが主流だった。うちの小学校では、クラスの男子の半数ほどが入部していた。
翌日、担任の女性の先生が泣きながら、僕たちに正確な情報を伝えた。
環七の大きな横断歩道を親子で渡る途中で、ダンプカーに轢かれたらしい。それも2度。
ダンプカーの運転手が、左折の内輪に巻き込む形で、気付かずに一度轢いてしまったのだと。そして、違和感を感じて、バックギアに入れて戻ってしまったらしい。おそらくそれが致命傷だと話していた。
内臓破裂というおぞましい四字熟語が、クラスの脳裏に焼き付いた。
子どもの心を読む
福田先生は、40代ぐらいの女性教諭だった。子どもの心が読める人だった。
家庭訪問にワクワクしていた。
先生がうちに来て母と話をする、それが、小学生ながらに楽しみだった。
その頃、学校で「良い子」だった自分はどんなに誉められるのだろうと、隣話を盗み聞いていた。"鶴の恩返し"の格好で、隣の部屋で耳を大きくして。
「陽二郎くんのことが心配です」
そう母に伝えていた。良い子が表面的なものだということ、自分が良い子を振る舞っている動機を、先生は見抜いていたのだった。母が動揺していたのを読み取った。
いまだからこそ分かるが、親へ子どものネガティブなことを伝えるにはどれだけ勇気が要ることか。そしてそれは愛でもある。優しさも厳しさも本気であれば愛だ。
この勇気ある一言が、この後の母にどれだけ変化をもたらしたか想像できないが、自分にとっては重要だった。
将来、幼稚園の先生や、サッカーの指導者をしていく中で、この福田先生の子どもへの洞察と、それを保護者へ伝える強さは、自分にも息吹いていたと思う。
献花
岡本くんが亡くなってから、母からの指示があった。
「毎週月曜の朝に近所の花屋さんに寄って、お花を受け取り、学校に持っていって先生に渡すこと。」
登校時、8階のマンションを降りて、通学路とは逆方向、約100m歩いたところにその小さな花屋さんはあった。そこで少し束になった花を店員さんから受け取り、学校に向かった。代金は母から受け取っているという。
これは月曜のルーティーンとなって、面倒だなと思いながらも毎週月曜日、9歳の任務を遂行した。続けていくことで自然にそれは習慣となっていった。
岡本くんが交通事故で死んでからも、彼の机はそのまま彼の指定席としてあった。最初のうちは、まだそこに岡本くんが座っているだろうといったことを先生も口にしていたし、自分たちにもそういう感覚があった。
だけど、小学生にとって、この暗い出来事を引きずる余地はなかった。次第に「岡本くん」という単語を口にすることが殆どなくなっていった。
それでも、そこに新しい花が飾られることで、まだそこに岡本くんがいるような気持ちな気持ちになる。母の意図はわからなかったが、この事故のことを、皆がずっと忘れないように、という願いが込もっていたのかもしれない。
3年生の終わり頃、いつものように登校して福田先生に花を手渡した。福田先生は言った。
「これでもう終わりにしよう。橋口くん、これまで毎週ありがとう。」
3年生が終わると、クラス替えとなり、先生も変わっていった。机に飾られた花はなく、次第に僕たちの中から岡本くんは薄らぎ、再生することのないVHSビデオテープの儚さで彼の記憶に埃がかぶった。
ただ、死というワードで真っ先に浮かべたのは彼のことだった。これはみんなそうだろう。
それから何度か、登校時に岡本くんの家に寄って、彼の弟を誘って、一緒に学校に登校した。それが3年生の自分にできることだと思ったのだろう。
思春期
転校して忘れられないように
5年生の夏休みに転校することが決まった。
子どもにとって、学校が変わるということは、すべての友達がいなくなることで、親友に会えなくなることも、好きな女の子に会えなくなることも、天地が返るほどの思いになった。
父の転職が理由だった。
父は、父が子どもの時に転勤族だったので、たった一度の転校など大したことではなかっただろう。
転校を言い渡されたとき、衝撃でどうにかならないのかと食いついたが、無理だと悟ったとき、とてつもなく遠い気持ちになった。
あまりにも悔しい気持ちになって、友達にこのことを伝えることはしなかった。伝えたらきっと、お別れ会をしてくれたり、お別れの手紙などを書いてくれる友達もいたと思う。
だけど記念に残してしまえば、友達にとってお別れができてしまう。忘れられてしまう。それがとても怖かったんだと思う。
5年生の夏休み。誰にも伝えずに引越を終えた。
調布市の多摩川住宅、まだ家具のない空っぽの部屋で、河川敷の花火を見つめた。
その花火のことをあの頃の僕は、どのように見ていたのだろうか。
潔癖症
サッカー部の頃、ポジションはフォワード。
キャプテンでもあり、得点力だけ高かった。そう口にしても大丈夫なほどの決定力だったと思う。
市内では優勝していたので、地区レベルの上位というほどのレベルだったと思う。当時はクラブチームが殆どなかったので、部活動には上手い選手がゴロゴロいた。
自分は足が速いのと得点感覚だけが突出してあった。キーパーと対峙した時、ゴールすること意外は頭になかった。後輩に「なんで外さないんですか?」とよく聞かれて得意げだった。
家庭では、両親の口論が絶えなかった環境下で、自分は極度の潔癖症になっていった。反抗期のあるだろう中学生時代に、反抗を出せずにいたことが原因だと思う。
外に向けるはずのナイフの先を自分に向けたとき、自分を汚してしまう、それが潔癖のメカニズムなのだから。
目に見えない汚れを何度も払っていた。
休み時間、クラスメイトが自分の机の上に座ったとき、衝動的に殴ったこともあった。病的だった。
そして、歯の状態がとても悪かった。
前述したような幼少期であったために、仕上げ磨きをしてもらった記憶がなかった。適当に磨いて寝るというのが日課だったことが原因だ。この頃になると悪化していて、猛烈な痛みになっていた。いろんなことへ神経が敏感に働いた。神経症のはじまりだった。
般若心経を毎晩こっそりと読んでいた。意味も分からず祈るように読んだ。
「もうこれ以上、悪いこと起きないでくれ..助けて..」
読んでは、敷布団の裏に隠していた。
読みあげれば、見えないなにかに伝わる気がした。しかし、何百回読んでも辛い状況が好転せずに、そのうち読むのをやめた。
両親の口論は早朝のことが多かった。
睡眠のほとんど取れなかった状態で、ふらふらになって保健室へ行ったとき「なにか困ってることがある?」と保健室の先生に聞かれた。「なにもありません」と答えた。
その頃はもう、ほとんどの大人を信じることができなかった。
高校サッカー部は強制収容所
中学3年生、部活動を引退してから、クラブチームのセレクションに行った。当時はクラブチームの数はとても少なかったので、大きな出来事だった。
僕は、ジェフ市原ユナイテッドの下部組織、ジェフユースと、ベルマーレ平塚ユースの選考会に参加した。どちらも300名近い中学3年が参加していた。
ジェフ市原の選考はたったの10分で、ナンバーを与えられて、試合に参加した。その10分にすべてを出さなければと、フォワードだった自分はゴールだけを描いて臨んだ。10分間の試合で5得点を挙げた。
特に3点目あたりの、胸トラップから反転してボレーを力強く決めたプレイには、周囲がどよめいていた。
「合格しただろう」
終わった後に自信があったが、最終的に300名の中から選ばれたのは1名だった。「この選考会、営利目的だろ」もうこの年齢になれば社会の汚さも分かっていた。
まだそれでも強豪チームに挑戦したかった自分は、親にお願いをして、私立の国士舘高校に進学をした。国士舘高校のサッカー部は、自分が中学3年の頃、全国大会に出場をした注目株だった。
有名校だっただけに、練習は地獄のようにハードだった。強制収容所のように人権、人格を踏みにじられる日々。これだけ辛い練習だとは思いもしなかった。サッカーじゃない、つまらない、そんな思いでボールを蹴った。その環境から逃げなかった代償で、日を重ねるごとに人間性を失っていった。
黒土のグラウンドで、連日、強制的にスライディングや、ダイビングヘッドをさせられるので、全身に茶色がこびりついてしまい、帰宅していくら洗っても落ちなかった。洗い落とす体力もなかった。
おまけにこの自分の世代は、水を飲んではいけないという誤った認識の最後の世代だった。夏の練習で地面に寝たまま起きられない仲間が毎回のよう涙を飲んだ。水たまりの水をすすることもあったし、トイレに行って消毒臭い水を舐めることもあった。
その頃、自分の両親の関係は冬を迎えていた。
家でも口論などが繰り返されていた。精神的な緊張状態が続いていた。ハードな練習を終えて22:00に帰宅をする。どれだけ早く寝ようとしても、24:00過ぎになっていた。
そして早朝から両親の口論が聞こえて目が覚めてしまうのだった。自分が住んでいた住宅は広さ3DK、リフォームしてあったので、洋風の部屋になっていてドアの下が1cmほど空いていた。なので起きていれば、ドア1枚向こうでの両親の口論が内容ごと聞こえてしまうのだった。
僕はその内容や緊迫感をドアのこちらで感じ取って、母親の不利な展開になると、寝ぼけたふりをして二人の横を通り、トイレに向かった。
子どもが通ると、さすがに父も口を閉ざしていた。あとから分かったことだが、この時はもうすでに父には再婚相手が決まっていたようだ。
高校1年のはじめ、うちは母子家庭となった。
経済的には、難しい状況になったと悟ったが、家から父がいなくなったとき、はじめて空を広く感じた。まるで終戦記念日のようだった。
ショーシャンク刑務所を抜け出した主人公が、大雨の中で天を見上げたような解放感を浴びていた。
盗まれたスパイク
ハードなサッカー部の練習はそんな中も続いていた。
練習着はボロボロだったがどうせ汚れるので買う気もなかった。
だが、消耗の激しいサッカースパイクはどうにもならなかった。靴の裏のポイントがすり減るのはどうにか我慢ができるが、革が破れてしまうと使いものにならない。家庭の状況を知りつつも、僕は母にスパイクの購入をお願いした。
当時、天然皮革やカンガルー皮が仲間の中では注目され始めていた頃で、アシックスのインジェクタールーゴというスパイクを買ってもらった。15,000円という陳列棚でも高いところに飾られているもので、安いスパイクだと靴ずれを起こしたりするため、高いものを買う選択は仕方がなかった。
僕はその新品のスパイクを持って、また地獄のようなその練習に行った。すると、ひとつ上の高校2年の先輩から声がかかる。
「いいもん持ってんじゃん、オレに貸してくれよ」
評判の悪い先輩の言葉遣いは、まるでジャイアンだった。
そして当時、僕にはどうしても避けたいことがあった。それは、苦しい練習のあとで、先輩から毎度1名が部室に呼び出され、そこで苦しい練習の腹いせに、先輩たちから殴る蹴るの体罰を受けることだった。そこに指名されることは、なにがなんでも避けなくてはならない。
僕は目を付けられてはいけないと考え、その先輩に新品のスパイクを渡した。1週間しても2週間しても、そのスパイクが僕の足元に戻ることはなかった。
母にはもちろんそれを隠し抜いたのだった。
サッカー部の最期
僕は中学3年から高1の進学までの間、徹底的にドリブルを練習したので、いくつかのフェイントやテクニックを扱えるようになっていた。
もともとスピードには自信があったが、有名校となるとそれだけでは通用しないことが分かっていた。
ある日の練習の中で、相手の股を抜くようなテクニカルなプレイを見せて、コーチにがそのプレイに注目していたのが分かった。もちろんそれは、コーチが観ていることを知ってのプレイだった。
コーチが監督に耳打ちをした。
「あの1年、なかなかいいですよ」
そんなようなニュアンスで指差していたと分かった。
そして、その後に「追加でAチームの練習に参加させる者を発表する」と監督が言った。呼ばれたのは、大して上手ではなかった別の1年だった。僕と身長や体格、顔の感じなどがかなり似ている奴だった。監督は間違えてしまったのだ。
もちろんその時、鬼監督に向かって「それ、間違いではないですか?」なんて言えるはずもなかった。このことを友人に話しても、誰も信じてはくれなかった。
その後も、いつかまた抜擢されるだろうと思った自分は、持ち前のドリブルを出来るだけ発揮するよう努めていた。
が、とある練習の時、一つ上の先輩から、後ろからの悪質なスライディングのファウルを受けた。審判のいる試合であれば一発レッドカードどころではない。先輩としては自分が抜かれたプレイを、周囲に責められるのが怖かったのだろう。
自分はそのプレイにより、足首の靭帯を強く伸ばしてしまい、整骨院通いとなった。全治1ヶ月というところだったが、あまり見学が続けば、仲間や先輩からの立場が悪くなる。そのため焦燥感にかられて、2週間ほどで練習に復帰をした。痛みは残っていたが、16歳と若かったのもあり、プレイしながら治っていくだろうと賭けていた。
そんな完全でない足でプレイする中、数週間して、また同じ場所を強く痛めることになった。それがどんなプレイによるものだったのか、もうまったく記憶には残っていない。
僕はそれを最期に、サッカー部を退部した。だれの制止も聞く余裕はなかった。なにもかもが限界だったんだ。
猿山という公園
サッカー部を辞めた自分は空虚になっていた。いや、空虚感が怖かったとしたほうが正確な気がする。
サッカーというスポーツを嫌いになる前に部活動を退いたことは、最善の決断だった。
授業が終わると、どの生徒よりも早く校門を出た。帰宅すると自宅の前の公園で、サッカーの自主練に励んだ。それが自分を埋める唯一の時間だったのだ。
公園でサッカーをしていると、ひとりの小学生が近づいてきた。
僕はその日、小学生と一緒にサッカーをした。すると次の日には小学生が増えていた。その次の日にはもっと、次の日にはもっと。楽しいところに人は集まる。楽しい場所は、自己肯定感を高めてくれる。仲間との楽しい時間は、ゲームにもお金にも勉学にも勝る。もっと本質的で根源的な喜びなのだと思う。
気付けばその公園には男の子も女の子も、毎日数十人が遊びに来るようになった。その様子を小学校の担任が見に来るほどだった。
お山の大将のように小学生に好かれていた高校生の僕は、この公園で遊ぶことがいつしか生きがいになっていた。
みんなは、その公園をサル山と呼んでいた。
青年期
サッカークラブのはじまり
ある日、そんな公園遊びに、小学生たちが1枚のチラシを見せてきた。
「サッカーやりたい人、集まれ!」
というタイトルのチラシだった。
現役プロサッカー選手を引退したばかりの人が、この地域にサッカースクールを立ち上げるという案内だった。自分はなにかを奪われるような気持ちになって強く嫉妬した。
チラシに興味をもった小学生たちが体験練習会へ足を運ぶ。僕はどうにも気がかりで、そこに足を運んだのだった。どれほどの選手がサッカーをこの子たちに教えようと言うのだ、という疑いの気持ちが強かった。
狛江市の小さな空き地のようなグラウンドで、そのサッカースクールは活動を始めようとしていた。自分より10以上は歳上の、指導者が数名で指導をしていた。グラウンドの隅で、僕の引率した子ども達の参加する姿を見ていた。すると、その中のコーチが声をかけてきた。
「君も一緒にやらない?」と。
僕は嬉しくなって一緒にグラウンドに立った。
ドリブルが得意だというのが、こういう子ども達とのイベントの時にはとても役に立つ。僕はあえて余計なテクニックを魅せるようなタッチを見せつけた。
練習の最後、そのコーチと少し会話をした。
子ども達に人気のお兄さんということがすぐに相手も感じたようで、「これからこのチーム一緒に手伝ってよ」という言葉をもらった。「僕でよければ」と快く返事をした。そこから僕のサッカーコーチが始まった。
その人は、それから20年後にJ1湘南ベルマーレの監督になり、いまではS級コーチインストラクターとして、日本サッカー協会に所属している。浮嶋敏という人だった。そしてもうひとり、早田 正司という指導者との出会いでもあった。
クラブマネージャー
18歳の僕はサッカー指導の世界に足を入れた。指導の世界は、同時にクラブ運営者としての世界でもあった。クラブへの愛着が自分を育んでいった。
このクラブを始めて7-8年経ったころ、一大事が起きた。
当時、そのグラウンドは地主さんに利用を認められての活動だったのだが、高齢だったその方が亡くなったのだった。
その後は展開が早かった。1週間もするとクラブへ連絡が来て、今後の貸し出しができないという衝撃の事実に直面した。存続の危機を迎えたのだった。
どうしたらクラブを続けていけるかと、頭がフル回転を続けた。
そうして、自分の母校、調布市立染地小学校を利用できないかという案を考えた。仲良くしている保護者の人がいたことがそのきっかけとなったのだ。当時僕は夏休みになると、小・中学校のプール指導員のアルバイトをしていたので、学校への出入りがあったのだった。
小学校に借りるには、学校長の許可ではなく、開放運営委員会の許可が必要だった。当時の委員長は僕の近所の知り合いだった。その委員長の子どもともよく遊んでいたので印象はよかったと思う。
実際にその委員会で、学校施設を利用できないかと頭を下げたが、ひとりの女性が意見をした。
「会費を取るのは営利だから、使用を認めてはならないのではないか」
余計なことを言わないでくれと動転したが、至極真っ当な意見だとも思う。
その難局はくぐり抜けたのだが、その後、地域に認められた活動をしていくために、NPO法人化を行った。議員さんや、地域の方々の賛同もあり、法人申請は滞りなく完了した。
それから数年で、あっという間に会員数は200名を超えた。
幼児教育
ときを同じく18歳の頃、公園で小学生に囲まれていた自分に声がかかった。公園と隣接していた私立幼稚園の園長からだった。どうやら自分のことを噂などで知ったらしい。
幼稚園の預かり保育のアルバイトに誘われ、快く受けさせていただいた。いろんな子たちとすぐに仲良くなった。
預かり保育は、通常の降園時間にお迎えに来られない事情のある子だけが対象となっているのだが、自分が来る曜日だけは子どもがどんどん増えていった。
子ども達と遊んで一緒に笑い合って、それでアルバイト代をいただけるなんて、なんて最高なんだろうって思っていた。
さらにその幼稚園の子たちが自分を求めてくれて、サッカークラブへ入ってくれた子がたくさんいた。
一時、泥だんごに夢中となり、泥だんごサークルを作ったりもした。休日に親子で黙々と光る泥だんごをつくった。泥だんご協会にもはいって、どんな土がいいかなど、研究を重ねたりしていた。好きなことには真っ向勝負だった。
22歳で大学を卒業するとき、母子家庭だった自分だが、在学時に貯金をして、幼稚園で昼間働きながら幼稚園教諭の資格を取るために、夜間専門学校に通った。
実は高校3年のときに保育の仕事を目指していて、図書館でこっそり学校案内を調べていたのだが、当時はまだ保育の業界というと【保母さん】という表現が主流で、男子を募集している学校が少なく、100人募集していて95人が女子といった内訳だった。
自分の高校は付属大学があったので、当時は保育士を目指すことを諦めたのだったが、やはり一度イメージしたことを行動できなかったことが、いつまでも心に留まっていたのだと思う。板橋区の帝京保育専門学校に2年間通った。
ピアノやダンスも卒業するために頑張ったが、もうすべて出来なくなった(苦笑)
いまから数年前。その時の女性園長先生が突然亡くなってしまった。
入浴時の心臓麻痺だった。幼稚園の先生と保護者の中心で、潤滑油となっているかけがえのない人だった。
通夜は、これまで彼女が関わってきた園児、保護者が長蛇の列をつくった。葬儀もたくさんの人たちが駆けつけた。大勢の人に愛されていた女性だった。
部活動指導
高校卒業後に、母校のサッカー部の恩師からの依頼で、中学校サッカー部のコーチとなった。恩師が自分の退任後に、そのDNAをもった自分に期待をしてのことだったと思う。
恩師は当時風変わりな指導スタイルを貫いていて、その頃はよく理解が出来ずに、変わった人だとしか思っていなかった。
・試合には全員が平等に出る
・メンバーはじゃんけんで決める
・練習内容は試合だけ楽しく本気でプレイする
チームのエースもじゃんけんで負け、大切な試合にベンチスタートということも多かったが、それでも連続して都大会出場を達成していた。また、試合後のフィードバックも逸脱だった。
「あの◯◯分の時のプレイのイメージはどんなだったのか?」
と事細かくその時の状況を記憶していて、プレイしている選手が戸惑うほどだった。
自分もその頃、恩師の紹介で、東京都社会人リーグ1部のチームに入ることができ、現役選手再開ということになった。
デビュー戦は、町田ゼルビア戦で、負けている後半残り30分で監督に呼ばれ、試合に出すけど、「背番号の準備ができていないから、この貼り番を背中に縫い付けて」と裁縫セットを渡され、縫い付けるのに25分かかった..
残り5分の出場だったが、シュートを2本放ち、一本はゴールポストを叩いた。次節からは先発メンバーとなった。
サッカー部のコーチ業は、柔道部の新任の先生とタッグを組んだ。毎日選手たちと一緒にプレイをして、本気でアドバイスをした。選手たちもその熱さに応えてくれて、お互いに切磋琢磨を繰り返した。
月給は4,500円。連日練習をしていたので、時給換算すると60円ぐらいだった。
中学3年の最後、ちょうどいまぐらい(7月初旬)に大会で敗退すると引退が3年生の決まった。自分は誰よりも先に号泣していた。
そして、「自分の力不足で負けさせてごめん。みんなのことが大好きだった。」と毎年のように伝えて一緒に泣いた。25年のサッカー指導の中で、試合後に選手と泣いたことは片手で数えるぐらいしかない。
いちばん始めの時のキャプテンは、いまでも子ども達を連れて、うち(日野)へ遊びに来てくれている。
借金返済
18歳の頃、父親と兄が、2人の共同名義で狛江市に新築マンションを買った。
団地に7年間住んだことで、もうその場所が大好きになっていた。あんなにも引っ越すのが嫌だった小学5年生の自分に、そのことを何度伝えたいと思ったことか。
親父はすでに離婚をしていたが、兄の収入だけではローンが組めないとのことで、半ば強引にマンションの購入を決めたという流れになったらしい。
最初のうちは、二分の一の名義となった父は、住宅ローンの半分を返済してくれていたそうだが、すぐにその返済は途絶えた。そして、我が家の経済はひっ迫していった。
彼女と同棲を始めた兄も、そのマンションを出て行った。
20代前半、母親と2人暮らしとなり、その父と兄の名義の住宅ローンを自分と母親が返済することとなった。
幼い頃、父に自己肯定感をズタズタにされた兄はギャンブル依存になっていた。
プロミスやアイフルといった消費者金融からのハガキが何通も自宅に届いた。ハガキを勝手に開封して内容を確認すると、数百万円の借金があることが分かった。
住居を追われる不安に負けて、その借金を自分と母親が返すしかなかった。
そんな兄を、ときに怒りの言葉で責めたが、それは逆効果だった。責めれば責めるほどに、兄は自己否定を強め、自分の内側へ入るようになり、完済したはずの借金がまた積もっていった。
当時自分は、その貧しさから抜け出すために、同時に6つの仕事、アルバイトをしていた。
幼稚園の預かり保育、サッカークラブ、部活動、児童館のサッカーコーチ、深夜のレンタルビデオ屋、パブスナック。パブスナックは教え子の家族が経営する、小さなお店だった。自費で専門学校へも通い、多忙を極めていた。
睡眠がとれないということが人間にとっての苦しみということを知った。疲れてしまって、毎日が限界だった。深夜に帰宅してもすぐに寝ることができずに、朝日が瞼をうるさくノックしてくるので、朦朧とした意識で1日が始まるのだった。
笑いは怒りに勝る
30歳の頃、兄の会社から自宅に電話がかかってきた。
「お兄さんが何日も欠勤していて、連絡が取れません。実家にいませんか?」
母親と共に動揺を隠せなかった。自分たちには、兄のそういった殻にこもるような心理が想像できたのだった。普通なら30半ばの兄など、放っておけばいい。だが、うちの場合は兄の状況次第では住宅ローンの残った家を追われてしまう。そこが常にリンクされた状況なことがなんとも言えぬ命運を突きつけた。
最悪のようなことを考えて落ち着かない母を横で見ていた。そして頼まれ、兄貴の住んでいた大田区まで車で走らせた。
「来たはいいけど、見つかるわけないだろ..」
都会のビルたちに見下ろされて、途方に暮れた。
とりあえず、兄の住居近くの有料コインパーキングに車を停めたとき、隣に停めてあった車が、兄貴の会社の車だった。
車の中にはいなかったが、中を覗きこむと、週刊コミックや兄の煙草の吸殻があった。必ず戻る、何時間でも待つぞと決心した直後、兄は車に戻ってきた。
兄は無表情だった。この状態の兄に、強い口調は逆効果だとすぐに悟った。
「うちに帰ろ」そう伝えた。それ以上の優しい言葉は複雑な感情が渦巻いてしまい、言えなかった。
すると、兄は答えた。
「パーキングから出られない。金がない。」
どうやら長い期間、この車の中で生活をしていたらしい。
僕は兄がどこかへ行ってしまわぬようにと、全速でATMに走った。
コインパーキングの精算15万円。
そして、母にすぐ電話をいれる。
「兄貴を見つけた。ぜったい連れて帰るから、風呂を沸かしておいてほしい。ビールと焼酎をたくさん買っておいてほしい!!」と。
兄を家に連れて帰ると、バツがわるくて口ごもった兄にいっぱいいっぱい酒を飲ませた。自分もたくさん飲んだ。そして、3時間秘蔵の面白い話しをひねりだして、笑わせ続けた。怒りはどこかに消えていた。
兄は笑いながら、涙を流していた。
0:00近くなって、トイレに行った兄が帰ってこなかったので見に行くと、安心したような顔で布団に寝ていた。
宴が終わり、片付けをはじめると、母は泣きながら「陽二郎ありがとう」そう言っていた。
翌朝、自分は一人暮らしすることを決めた。
自分が一人暮らしをすれば、兄は母親をひとりにすることが出来ない、そして必ず実家に戻ると分かっていた。
兄はそれ以来改心し、ギャンブルに手を染めることはなかった。いまでは郵便局員として誠実に働いている。
壮年期
デザイナー宅へ通う
一人暮らしを始めたが、自分はそもそも寂しいのが苦手だった。料理もできず、独りに慣れることができなかったどころか、夜になると幼少のときとシンクロしてしまい、あの頃の自分が顔を覗かせしまう。
そんなとき、ひとつの出会いがあった。
近所に住んでいたサッカークラブの家庭の、保護者と意気投合した。彼は、街中に有名な商品の並ぶトップデザイナーだった。
大企業に勤めながら、ただ1人私服で会社に通っているような、自分軸をもっていた。コムデギャルソンを身にまとっていたが、人前ではコミカルな振る舞いをする彼に、僕は魅了されていった。
その頃、サッカークラブや幼稚園のWEBサイトや広告を自作していた自分には、デザイナーの存在が神のように思えた。
デザインを教えてほしいと、その家に通った。デザインだけでなく、夕食もいただいて、とても豊かな日々となった。サッカークラブの新しいエンブレムは、自分がほとんどデザインをしたが、最後に加えた彼の仕上げには唸るものがあった。彼と共作した作品となった。
その後、僕の小学校の同級生がスリランカでNPO法人の活動をしているという流れから、デザイナーの彼と一緒に正月を利用してスリランカへ旅行に行った。楽しい思い出が色濃く残っている。
地域の運動会
地域でサッカークラブを運営する中で、学校施設の利用は生命線だった。学校利用の委員会(調布市では学校開放運営委員会と呼ぶ)に所属していた。
この住宅地の地域では、毎年秋になると地域対抗の運動会が行われる。自分が小学生の頃は、学校の運動会よりもこの運動会は人気があった。種目に出場すれば景品がもらえるからだ。そして、なにより最終種目の年代別リレーは子どもには最高に刺激的なものだった。
各地域、各年代がひとつになり、全力疾走をするのだ。同級生の平野は小学生で50mを6秒台で走る異端児だったが、その平野が出場しても同じようなアスリートな先輩がたくさん出場している。まるで100m走の日本代表が、アメリカの選手と競技をするような興奮だ。
僕はこの地域運動会に25歳の頃から運営に入るようになった。地域貢献、地域への恩返しだ。
20代後半からは、すっかりこの運営のことを知り尽くしていたので、事務局長を務めていた。毎年6月には準備委員会を立ち上げ、11月の終了まで色々なタスクをこなしていくというスケジュールだった。もちろん、日々のサッカークラブ運営と並行するので、重圧があった。
そして、なにより悔しいのが、無事に開催を終えたとしても、各地域から厳しいクレームを受けるのだった。高齢者からの意見は、粗探しのようなものがほとんどだ。
それを正面から受けてしまう委員の仲間たちを見て悔しくて仕方なかった。一生懸命がんばってきて、その運営側がなぜ謝っているのだ。おかしい、どこがおかしい。。
ボランティアでここまでの運動会を開催して、最後に不満を受ける、この不条理はなんだろう、と。それはこの国の、地域におけるボランタリズム、つまりボランティアの強制が引き起こしているのだ。
ボランティアの定義
"自発的な意志に基づき他人や社会に貢献する行為"
つまり、毎年のルーティーンによって、半ば強制的に役割を与えられる類のものについては、ボランティアではない。ボランティアではないはずなのに、とくに報酬を受けるわけでもない、さらには不満を言われたり、攻撃を受けることもある、組織の仕組みが破綻しているのだ。
我慢が美徳とされてきた時代ではまかり通ってきたと思うが、いまは令和で21世紀だ。
僕は、そんな不満を口にする地域の重鎮と正面から対立したこともあった。もちろん、最初は下手に出て、褒めちぎっていた。それでもこの人は気付かないというときにだけは、方法を変えたこともあった。
地域の笑顔を創出するとき、たくさんの大人が肥料となっている。その大人たちが有機的なものであればあるほど、子ども達が咲いていく。地域が空に近づいていく。
ペイ・フォワード
今月で44歳になる。
時間で数えると、38.5万時間という人生経験を重ねてきたらしい。
にも関わらず、自分が振り返る場面といえば、このnoteに綴ったようなブックマークされてしまっているものばかりだと気付いた。
手にした本の中で、よく読まれる場所が開きやすくなっているように、大人にとって記憶とはただそれだけの単純なメカニズムに過ぎないのだなと。
だから、昨日までに失ってきたことを取り戻そうとすることにエネルギーを費やすことは、もうここで終わりにしよう。
幼児期、学童期、青年期、壮年期、それぞれに薔薇の咲いたような瞬間があったにも関わらず、なぜかそれを黒塗りしたくなってしまう。
きっとそこに理由がある。
ドイツのアウシュビッツ強制収容所での壮絶な体験記、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』の中で、忘れられないシーンがある。
それは、強制収容所の労働に疲れ果て、収容所の土の床にへたり込んでいたフランクル達に、1人の囚人が外から飛び込んで来て言った。
「おい、見てみろ! 疲れていようが、寒かろうが、とにかく出てこい!」
疲労困憊のその体で、しぶしぶ外に出たフランクル達が目にしたものは、あまりにも見事な夕焼けだった。
一人の囚人が誰に言うでもなくつぶやく。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ・・・」
自分達の状況とは関係なく存在する美しい自然。それを見た時、彼らは辛い生活を忘れることができたのだった。
「あなたが経験したことはこの世のどんな力も奪えない」とフランクルは言う。僕もあなたも、みな人間はそれぞれに、自分の経験をしたくて生きてきたに違いないと。
カウンセリングの中で、インナーチャイルドを癒やすというのがある。
これは、人の経験というものをデータファイルに例えるなら、そのファイル名を書き換えて、整理整頓をする作業のことだと思う。
それぞれの時期に、私が体験してきたことには大きな大きな価値があった。それがあったからこそ、今を強く生きる原動力となっている。このすべての経験がなければ、今の自分は存在していない。
幼児期の夜の留守番では、孤立への恐怖と否応なしに向き合うことができた。孤独という時間が、人にとってどれほど根源的な恐れに繋がっているかを幼きながらに体験して、人並み以上にをれを悟った。
この国では、孤立への恐怖という設定が人に潜在的に根付いている。
村八分になりたくないという心理が強くて、周囲に同調していないと迫害されるかのような誤った信念を刷り込まれてきた。
学童期以降の経験では、父をはじめ、集団生活の経験からも、人はいつも、無意識的に自分より上の人を創り出し、縦型のいわゆるトップダウン的な仕組みの中で生きることに慣れてしまっていることを思い知った。
誰もが大きなストレスを感じているにも関わらず、違和感さえ感じない心のほうを育てる選択をしてしまった。
こんな社会構造であるがゆえ、変化をさせることが簡単ではなく、変化にはエネルギーが必要であり、行動は人を巻き込んでいく。
映画『ペイ・フォワード可能の王国』という作品で、11歳の少年(ハーレイ・ジョエル・オスメント)が、社会科の授業中に世界を変えるアイデアを思いつく。
それは、人から施しを受けたら別の3人に返すという与贈の循環の仕組みそのものだった。
彼はさっそくそれを実行に移し、広がっていく慈愛の波が、心に傷を持つ大人たちを巻き込んでいく。その作品の終わりに、こういう彼はこう呟く。
慣れきった人たちに、あえて社会の課題を伝え、変化へと導くことは容易ではないが、諦めたらなにも起きない、本当にそのとおりだと思う。
自分自身に与えられたスペック(仕様)として、社会に貢献できるものを考えてみると、どうやらふたつあるような気がしている。
ひとつは空想してデザインする力、ふたつめは共感性だ。どちらも目には見えないものだと思う。
'想像'としても、'創造'としても同じような表現にはなるが、どちらも包括する単語として、空想と表現してみた。
幼い自分は孤立で壊れないために、小さな右大脳半球をいっぱいに肥大させて、現実世界に虹色のレイヤーを重ねて生きなければならなかった。そこで培ったその力が、もしかしたら地域の人へ景色を伝えることができるものなのかもしれない。
そして共感性。
高い問題解決能力と、共感力が強いというのが、蟹座のあなたの特徴だと星読みの仲間が言う。
たくさんの仲間を愛したいこの蟹のような自分にとって、自分の喜びや哀しみ、 好き嫌いなどを大切な人たちと共有し合いたいし、それができると思っている。
そしてそれを手に入れようとする代償で、この共感という設定をもったがゆえ、自分軸を見失い続けてきた。基準が自分ではなかったから、自分の座標が分からず苦しいことがたしかにあった。
グーニーズ
楽しさに向かえば向かうほどに、この現実の背中には不安がいっぱい。
「橋口さんと話しているとワクワクします」と言ってくれる人がいる。嬉しくなるのと同時に、とても身が引き締まっている。
いつの間にか「さん」を付けられることの多くなった地域の中で、自分がこれまで体験してきたことを、どれだけ活かして現実化していけるのだろうか、と。
だからこそ、無意味なことにエネルギーを費やしてはいけない。朝のニュース番組や、だれかの不満な口調に、心を塗られてはいけない。
かといって目を背けて生きることでもない。ここからは心の影なる部分も抱きしめていく、そういう覚悟をもって生きていく。
陰と陽は同じコインの表と裏、どちらかが存在すれば、セットでもう一方が現われるもの。だから、いつも自分をニュートラル(中庸)におけるようにするために、ゆっくりと呼吸をして自分をたしかめていく。
自分が持って生まれた課題は、乗り越えるまでずっとずっと形を変えて付いてくる。けど、もしかしたら、乗り越えるものではなく、受け容れるものなのかもしれない。
僕は、なにかに気付いたようなことを書いているようで、実はなにも分かっちゃいない。
ひとつ言えるのは、幼い頃のほうがよく分かっていた気がする。
少年時代、高円寺から2駅先の新宿歌舞伎町の映画館で、スティーブン・スピルバーグの全盛期ともいえる作品、『グーニーズ』を観た。
海賊が隠した宝物を探す少年少女たちの冒険を描いた作品に胸を打たれた。親の知らない場所で、仲間たちとの秘密、仲間たちとの冒険、悪者に挑んでいく、誰もが子どもの頃に夢見ていたことを、『グーニーズ』は描いている。この映画は、子どもの視点で、子どもの世界を描いているのだ。
冒険のように毎日を生きた、少年時代の碧さが、いままた蘇ってきた。
日替わりの宝の地図が、少年たちにはぴったりだったんだ。
ライフ・イズ・ビューティフル
長々と書き綴ったこのnoteは、ターニングポイントにいる自分に重要だと思ったことで、カウンセリングの手法のひとつに、紙に書いて出力するライティング・キュアというものがあるが、そのような効果も狙ってのことだ。
大切なものは目には見えない。
目に見えないことのほうが遥かに大切だ。
今日が素晴らしい日であれば、それだけでいい。
未来に不安な人は、いつまで経っても不安なのだ。
家族は素晴らしい。人生は素晴らしい。
すべてが素晴らしい。
生きていれば、毎日が今日。
いつだって今。
明日なんて一度も体験していないじゃないか。
いまこの瞬間だけを、強く強く生きればいい。
おわりに
パーフェクト・ワールド
毎朝の起床の瞬間、自分が新たに始まっていると、そんなふうに感じています。
ただの肉体に魂、つまり意識が入り込む、そして1日が始まっていると思っているわけです。肉体が、メモリー(記憶)やアプリ(自分の特徴)をダウンロードして、それから自分を起動させている、そう表現すると、とても近いように思います。
自分の姿は自分には見ることが出来ません。そして、自分が見えていること以外は、実際は見ることが出来ません。洞窟の中で懐中電灯を照らしているように、自分の見たい景色がだけが目に入っている、世界の主人公はどんな人でも自分です。
世界で紛争が起きたり、政治家にトラブルがあったり、テレビを付けていればあらゆる情報が伝わりますが、情報を取得しない限り、なにも起きていません。
この世界は、自分が映している映画作品です。
映写機で、自分が生まれる前に選んだフィルムを、自分の劇場で流しているというわけです。
自分が選んだ両親のもとに生まれ、この物語を楽しみたかったのだと思います。感情というものを地球で体験したかったからです。
生まれる前に自分をバラバラにして、他者をたくさん創り出しました。他者を鏡のようにすることで、自分に気付いていくというプログラムです。
望んだことが、ベストなタイミングでもたらされる、これは潜在意識が、自分は創り出すことのできる存在であることを意味しています。つまりこの世界は、パーフェクトな世界なのです。
自分にとっては強烈な体験だったことを、なぜか43歳にして綴ることになりました。
しかし、自分を自分の命以上に大切にし、愛を与えてくれた、育ててくれた父親と母親には、心から感謝しています。父も母も、本当に一生懸命、体の限界を働いてくれたのでしょう。親になったから分かります。
いま僕が自分の子ども達を想うように、私や兄のことをずっと想ってきてくれたのでしょう。いまでも最高に可愛い存在なのでしょう。
そしてこの、エネルギッシュな最高の体を与えてくれたことに感謝です!本当に、本当にありがとう!
そしてこれまで出会ってきた人たちへ、これから出会う人たちへ、心からの感謝を伝えます。これまでありがとう。これからありがとう。
ひかりのほうへ
2010年のデンマーク・スウェーデン映画に、“Submarino“という作品があります。
幼くて無垢な兄弟が、貧困とアルコールや薬物依存という厳しい幼少期を過ごすエピソードからこの映画は始まります。
そんな虐待を受けながら過ごした少年たちが、成長しても貧しさを背負い、さらに子どもの時に負った傷を癒しきれずに、不器用に生きていきます。
そして、最愛の弟を失ったりと、最後まで重苦しい空気の中、この映画はラストを迎えていきます。
ラストに触れないようにこのぐらいにしておきますが、この原題、“Submarino"と言いますが、つまり潜水艦と訳すのが通常なところ、邦題では《光のほうへ》とされています。
これほど震えるような、心のこもった映画タイトルを、他に知りません。
地域とともに
マヤ暦というのがあります。
マヤ民族が大切にしていた信条に、「命は永遠である」というものがあり、彼らは死を、「愛と光の世界に還るもの」という大きな視点で捉えていました。宇宙的な視点です。
そんな時代に、高度な天文学を極めたマヤ民族たちが生み出したマヤ暦とは、1年を260日とするカレンダーで、この暦には太陽や月、星などの天体の動きを高度に生かした宇宙の知恵が秘められています。
そんな、2022年7月26日はマヤ暦の元旦です。
その日に、一般社団法人を立ち上げることといたしました。
明確な事業計画を立てて始めるというやり方とは少し異なっていて、仲間たちとやりたいことをやりたいようにやっていこう、という直感的な取り組みです。
やりたいことをやっていけば、きっとその後にまたやりたいことが生まれていく、そんな直感を信じてこの社団法人は歩んでいければと。ですから、初期設定で、代表理事も特に設けてはいません。
子ども達が本質的に必要としている環境を整えるために、地域の人たちが昔の村社会のように手を取り合い、生活を営むことを思い出すために。地域のエネルギーを集約させて、そのエネルギーが効率よく循環していくことを目指しています。
そしてもうひとつ。
仕事と家庭に追われている仲間がいます。
そんな日常の中で、本当にやりたいことも実現できるように応援したいと思っています。大人が輝く姿を、子どもたちに見せてあげたい。
私たちは本当にやりたいことはやれないと、心の深海で思っています。きっと諦めているという感情すら忘れて、大切な感情が沈んでしまっています。僕もそうです。
しかし、きっといろんな人となら、やさしいほうへ、あったかいほうへ、あたらしいほうへ行けると考えています。
どんな人にとっても、向かう方角はひとつだと思っています。
橋口 陽二郎
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