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Lost in translation(花クレソンのリゾット)

 うちの子はブランコが大好き。本当に遠くからブランコ目掛けて走っていって「うーっ!」と言いながらブランコを指差し、私に座れという。私はブランコの鎖を手で握らず肘で挟み、この子を膝の上に載せると、空を見上げてその時の空の様子を歌にして口ずさむ。夕方だったら、見え始めた白い月の歌とか、青空に松の幹の茶色が映えていたら松の幹茶色いの歌とか。だから毎回違う詩とメロディ(大抵短調)なのだが、なぜか息子は落ち着くらしく、8割型そのまま揺られて寝てしまう。

 そういえば曇り空の日、私がまた創作で「雲で何も見えない歌」を歌ってたら、夫が

「il cielo bianco 春だねえ」

という。il cielo=空 bianco=白。白い空の時は春って感じがするらしい。言われてみればそうだけど、日本にはそういう言い回しは特に無さそう。この何でもない言葉が私はロマンチックだと思ってしまう。大なり小なり、私はこのたびたび出没する異文化体験があるからこそ、夫婦生活が飽き足らずに済んでいるのかもしれないと、大袈裟でなく思うことがある。

 私はイタリア語の勉強をもうかれこれ4−5年ぐらいしているのだが、いつまでも万年ビギナーを脱出できずでどうも板につかない。面白いし勉強するのが好きだし、出来る限りイタリア語を生活に取り入れたりしているんだけれども、どうしてこんなにもイタリア語脳にならないんだろう。楽しく自然に身に着けると思っていたがもはや悩みになってしまった。そう甘くはないらしい。そこで少し一歩ひいて、イタリア語に出会す時の自分の心情に耳を研ぎ澄ましてみると、「うわ、イタリアと日本、言葉全然違うわ。捉え方全然違うわ、文化違うわ」とたまにひいちゃってる時があると思う。ひいてるというと言い過ぎかもしれないけれど、それに近いような。面白いと思ってるけれど、異文化として面白いー新鮮ー!でとどまってしまっているから、自分の中に入ってこない、組み込まれないのかもしれない。

 これに気づいたきっかけになった出来事が2つあって、まず私は英語圏の人と話しているとイタリア語が出てしまう時がたびたびある。(シンガポールのタクシーの運転手さんに対してSi!と返事したり、Grazie!ってお礼を言ってしまったり)昔なら普通に英語で話せていたことが、イタリア語とちゃんぽんになってしまう。(withoutだけsenzaって言っちゃったり)これをコードスイッチングと言うらしい。なぜこのようなことが起きるかと言うと、つまりイタリア語も英語も私にとって「日本語と異質なもの」とでしか頭で捉えられていなくて、知らず知らずのうちに同質なものvs異質なものという二分化でしか捉えられていないんじゃないかと私は仮説している。

 2つ目は子供を見ていて思う。例えば我が家はご飯の前に「Buon appetito!」と言っていただきますのポーズ(手を一回合わせる)をして、「御馳走様でした」のタイミングでの手を合わせる。子供にわざわざ教えたわけではないが、それを真似してご飯前と後に手を合わせるようになった。するとやがて、何かを終わりにする時、一度手を叩くようになった。散歩から家に帰る時、お風呂から上がる時など・・・これは手を叩くことが終了の合図だと彼は理解したのだと私は憶測している。(ここはもちろん本人に聞けないので確かではないけれど)ちなみにBuon appetitoは厳密には「いただきます」ではなく人に対して言う「召し上がれ」である。ここでやはり違う言語だなと私は立ち止まる。一方旦那は「なんで手を叩くの?なんでいただきますも御馳走様も一緒なの?」と疑問に思う。ここで私たちは自分たちの1があるのでいちいち立ち止まる。彼はそう言う意味では0なので、とにかくそのままを全て囲って受け入れて、それを自分で咀嚼して身につけるというプロセスを経ている気がする。(この点が感覚的でうまく言語化できない)その様子がまざまざと見えた瞬間だった。これは子供を持っている人にとっては当たり前の光景だと思うけれど、やはり私の言語の習得の仕方と違うなと思うのだ。私はやはりどうしても自分の1と毎回比較する、もしくは置き換えをしていると思う。

 シンガポールやマレーシア、スイスやルクセンブルグの人たち、他マルチリンガル、ポリグロットの人たちの頭の中がどうなっているのかを知りたい。とにかく私の頭の中には自分の部屋ができてしまっていて、それが良くないんじゃないかなと思っているのだが、では彼らのメカニズムはどうなっているのだろう。誰かうまく説明できる人がいたら教えて欲しいです。これから私の息子が教えてくれるのかもしれないけれど、その前に私なりの仮説を持って自分の多言語習得にも役立てたい。

 この話を書きながら、私が作ってきたリゾットの変遷を思い出す。イタリアでリゾットミラネーゼを食べるまでは、いくらレシピ本を見て作っても夫に「なんか違うな」と言われてしまっていた。しかし現地で食べて初めて味を掴めた感じがして、帰国後作ったら「出来たね」と。推測するにおそらく、私の頭の中は「日本米で作る雑炊の少し固めの・・・」と言うイメージの味から離れられていなかったのかもしれない。どうしても。そういうつもりなくても、こういう無意識下のものを覆すのは難しい。

 最近、花クレソンが手に入り、それでリゾットを作ってみたら美味しかったので、ここでレシピを紹介します。クレソンはあまりイタリアで使われないかもしれないけど、これをルッコラに置き換えても美味しいです。少しの苦味にマスカルポーネのクリーミーさ、ミントの爽やかさが邪魔をせず寄り添います。そしてやっぱりイタリアのカルナローリ米を使うとぐーんとイタリアのリゾットになります。(日本米ではちょっと無理。誰かこの日本米なら美味しく出来たと言う人いたら教えてください。カルナローリ日本で買うとすごい高いので笑)ポイントはやはり最初の玉ねぎをバターで炒めるところ。これが北イタリアの味。(もちろんオリーブオイルで炒めるのも地方によってはします)

※レシピ

花クレソンのリゾット (Il risotto al crescione con pollo)

<材料>

・花クレソン

・ミント 5−6枚

・マスカルポーネ 100g

・玉ねぎ1個分

・バター

・野菜ブロードもしくは水でもクレソンの味を楽しめる。 (私は最近いつもチーズを作った時のホエーを使う。400gぐらい用意しているけど使い切らない)

・カルナローリ 1合半 (お米は洗わないで!)

1. 玉ねぎをみじん切り、バターで弱火でゆっくり炒める

2. 玉ねぎが透明になってきたら、お米を投入。焦げないぐらいに煎る感じ。

3. ブロードをおたまひとたまぐらいフライパンに流し込む。弱火で煮る。ブロードがなくなってきたらまたひとたま追加する。

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4. クレソンとマスカルポーネを投入。またブロードも流しこむ。(ブロードでずぶずぶにしないのがポイント。ひたひた、ひとたまでも多いぐらい。ギリギリのところで少しずつ少しずつ何回もブロードを流し込む。そうでないと本当に柔らかい雑炊になってしまう)

5. 味見して少し芯があるぐらいの硬さになったら、火を止める。ミントを加えて爽やかにする。(ミントの爽やかさを残すために火を止めてから入れる。レモンの皮をするともっと爽やかに)

6. お好みでパルミジャーノをかけて出来上がり。

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