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私と大森靖子さんの出会い、を書こうとしていたのに思ってもみないことにくそ長文に…の巻



大森靖子さんを初めて知ったのは中1のとき、Twitterでよく見ていた人が「大森靖子/藍染カレン/ZOC」とプロフに書いていて、そこで初めて“大森靖子”という文字列を知った。


小学校卒業、中学入学とともにコロナが流行りだして休校になった。



親は仕事で家にいなかったが、休校で家にいた私は非常時に私とメールで連絡が取れるように、家のパソコンの使い方を教えた。家は高校になるまでスマホを持たせなかったほど厳しくて、家のパソコンも日曜日の午後、父親が家にいるときしか使えなかった。



日曜日に昼ご飯を食べてから、父親に「パソコン使わせて下さい」と一言声をかけて、TWICEのミュージックビデオか、ホラフキンというYouTuberのバイオハザードの実況を見るか、ウマヅラビデオを見るかしていた。懐かしいな〜。小学生だな〜。



コロナで平日、親が会社に行ってる間もフルでパソコンが使えるようになった。そこで私はTwitterもいうものに初めて触れた。当時はアカウントがなくてもTwitterが見れた。



毎日のようにTwitterかYouTubeを見ていた。そこでヤバイTシャツ屋さんにハマり、邦ロック界隈をTwitterで見るようになった。とはいっても携帯も持っていなければメールアドレスの意味も分かっていなかったのでアカウントはなく、タイムラインという概念がないし、パソコンで「#」を打つ方法も分からないなりにいろいろ見ていた。



ある日、そのときはsumikaにハマっていたので、「小川貴之(sumikaのキーボード)」とフルネームでTwitterで検索した。すると


「ぺこぱは小川貴之のことフォ川貴之っていうんだな」


というツイートが出てきた。その発言主の投稿を見るとsumikaといい、ヤバイTシャツ屋さんといい、好みの音楽ジャンルが一緒であった。



次の日、私はまたパソコンを立ち上げた。昨日見たツイッタラーが気になって、また「小川貴之」で検索して、その人を探し出した。



そのツイッタラーは本当にごくふつうのツイートしかしていなかったが、ネット文化に疎かった私にはなんだか面白い人に思えたし、何より発言する話題が私の好きなバンドや音楽についてで趣味が合うな〜と思った。ブックマークの機能を初めて使ったのはその人のTwitterのページだった。



冷静に考えたらコロナなんてなければ、高校生になって初めてスマホを買うまでTwitterに触れることなんてなかったかもしれない。




数カ月経って休校が明けて学校に行くようになった。次第に平日にパソコンを使うこともなくなりTwitter自体あまり見れなくなったが、日曜日にブックマークしていたアカウントのページを開き、リツイートで好きなバンドの情報をまとめて見たり、日常ツイートを見て微笑んでいた。結構日曜日にこの人のツイートを見るのを楽しみにしていた。なんでこんな気になるのかわからないくらい、今思えば平凡な内容だった。



そんなこんなで春休みになった。親が連絡取れるようにと、また平日にパソコンが使えるようになった。これぐらいの時期に、プロフィール文が「大森靖子/藍染カレン/ZOC」になった。大森靖子さんのことはそのときまで知らなかったので、特に気にしていなかったが、その人はよく藍染カレンちゃんのツイートをリツイートするようになった。興味本位で調べると大森靖子さんは道重さゆみさんのオタクであることがわかった。



元モーニング娘。の道重さゆみといえばヤバTのベースしばたありぼぼが大ファンで、グッズを衣装にしている。ヤバTのファンになれば自動的に道重さゆみを知ることになる。私はちょうどその時期に、しばたありぼぼがきっかけで、道重さゆみさんやモーニング娘。に興味を持っていたので、大森靖子さんにも自然と好奇心を持った。そして「絶対彼女 feat. 道重さゆみ」を聴いた。






初めて聞いたとき思ったのは全く自分が触れたことのない世界観だなということだ。テレビでしか音楽を知ることのない中学生の自分にとっては道重さゆみも大森靖子も知らなかったので、こういう活動をしている人たちがいるんだ、テレビで見てるような歌手以外にもこんな人たちがいるんだと思った。



しばたありぼぼ経由で道重さゆみさんのいろんな伝説を知った。モーニング娘。という自分の大好きなグループの注目を集めるために、繊細な性格にも関わらず自らバラエティで毒舌キャラを演じるという生き様が、芸能人をテレビに映る1面でしか判断しない子どもの私にとってはすごい話だな〜と思った。



同じくらいに「ヒアルロンリーガール」も見た。





良くも悪くも「絶対彼女」は歌詞が独特で入ってこなかったが(というか今では好きだけどどういう歌詞かは説明できないが)、「ヒアルロンリーガール」はガキの私にも分かりやすく、特に「スニーカー履いて  歩く速度合わせなきゃ  自立じゃないとか舐めてんの?」という歌詞は痛快だと思った。ていうか初めて歌詞で凄いと思った経験だった。それまで音楽なんか感覚でしか聴いてなかったから。



それから、大森靖子さんが作った曲をよく聞くようになった。母親がかなり情緒不安定で、生理になったと言っただけでブチギレられたりしたことがあるくらいなので、「family name」を聴いたときには、私のこんな理不尽な経験と接点があるような歌詞の音楽ってこの世に存在するだ…と衝撃を受けた。




この時が中2くらい。大森靖子さんを聞いている自分が好きな感じはまあまああった。王道な分かりやすい流行りの音楽しか聞いてこなかった私には、表現が悪いが、大森靖子はザ・マイナーな歌手って感じで、親から隠れて聴いてる感じやクラスメイトも知らない高等な感じが自分を特別に思わせてくれた。



中学では友達がいなくて、でも寂しいとか全く思わず、声にこそ出さないがお前ら嫌いなんだよみたいな態度でいたら、授業で発言するときに、クラスのクソ男に「お、陰キャだ!」って先生にぎり聞こえない声で笑われるような存在だったし、親はマジで意味分からんことで怒ってくることが多くて、家では完全に親のストレス解消のための存在だった。




大森靖子さんとハロプロを聞いて頑張って学校に行ってた。学校では会食恐怖症みたいな感じになり、給食が食べれなくて、もうほんとに今冷静に振り返ってみたらいつ不登校になってもおかしくないくらいの状態だった。なんで不登校にならなかったかというと、勉強だけはなぜかすごくできて、死ぬほどプライド高かったから、学校行かないのは勉強とか受験から逃げる弱いやつだと本当に思ってたから、行かないなんて選択肢はなかった。今でもこのとき学校行かないっていう選択全然してもよかったな…と思うが相談するような相手もいないし、いたところでプライドが高すぎてそんな事できなかったと思う。



とはいえプライドが高すぎて弊害になっている事実も分かっていた。大森さんの歌詞には、受け取りようによっては、こんな考えできないやつマジでおかしい、みたいな自分以外の人を攻撃する歌詞があり、こんな歌を聞いてたら、現実的に最低限生きていくうえでの協調性まで削がれて生きにくくなってしまうと思ったときもあって、聞かないようにしていたこともあった。



それでも目の前の問題を紛らわしてくれたのが大森さんで、中3のとき、修学旅行で当たり前に奇数班でハブにされ、裏で悪口を言われた修学旅行のとき、お風呂で泣きながらシャワーを浴びながらZOCの「AGE OF ZOC」を頭の中で流したし、クラスメイトが死ぬほど乗ってる、模試の行き道の満員電車では父親に借りたスマホで大森靖子さんの歌詞をずっと見ていた。



中学時代、人としての優越感を得るためにただただ勉強していた。結局、偏差値70以上あるバリバリの進学校に受かった。ちなみに高校の出願のために、同じ中学から受験する人と出願のための書類を提出しに行く日があったが、ずっとハブられていた。頭のいい高校に行けばこんな私でも浮かないのかなと思っていたが出願の時点でそんなことなかったな。まあでも一番私のことうざそうにしてたやつが落ちたからいっか…そいつ以外全員受かったけど。同じ中学だった人で受かった人も、廊下ですれ違うくらいで高校で今のところ接点全くないわ…。



そんなこんなで高校に入学した。中学の時の自分とは別人になりたいと思っていたから、とりあえず手当たり次第の人に声をかけ、友達を作ろうと努力はした。中学のときは人をバカにしすぎていたフシもあり反省していた。いくら周りがバカでも実際には分かる努力みたいなのをしなければ自分に不利になることがある。しかし、いざ話すとなると吐き気が止まらない。声を出すと吐きそう。一応、表面上は難なく話せていたが、喉からずっとなんか出そうだった。中学の時の会食恐怖症は完食指導が原因だったので、給食がない高校でなら、やっと飯が食えると思っていたが吐き気で弁当が食えない。なんなら朝起きるのも辛くて朝ご飯も食べれない、でも残すと親に怒られるので無理やり口に入れて、それでも無理だった分は制服のポケットに入れて通学中に捨てていた。



それでもめちゃくちゃ気を張ってたし、中学がくそだった分、心の社交性的な?陽気的な?部分を養わないとだめだと思っていたので、中学時代帰宅部だったにも関わらず、体験入部でおだてられて、舞い上がり学年で一番早く入部届を出した。なんなら体育会系部活動のマネージャーにもなった。でもふつうに喋るだけで喉からなんかでそうだし、部活して人とはどんなのか頭に染み付かせなければいけないという義務感といい高校に行ったから次はいい大学に行かなければ行けないという義務感が自分の中で整理できないままごっちゃになってた。だから体験入部期間、部活をしながらこの時間があったら勉強したい…と思い、勉強しながらこの時間があったら部活したほうがいいのでは…と思い、ずっとモヤモヤして頭がおかしくなりそうだったので3日で部活の顧問の先生に辞めると言った。ここまででたぶん入学してから一週間も経ってないくらい。



もうほんとに入学してすぐは大変だった。1番に入部を決め、3日で辞めると言ったので、顧問の先生にすごい説得された(まあそりゃそうだ)。家族は全然いいよと言われたが、中学生の時に本当は入りたい部活があったのだが、部活に入ると暗くなってから帰らないといけなくなり、あたおかレベルで家が厳しかったので絶対だめと言われてその部活に入らせてもらえなかった(詳しく書くとめんどいが年1しか活動しない謎の部活には入らせてもらえたんで厳密に言うと帰宅部ではない)というのがあり、高校は勉強頑張ったからいいだろ、ていうかお前らの母校より賢いんだよ的な感じで部活に入れてもらえたので、高校で部活入らないというのは家族的には歓迎だった。親がほんとに嫌いだったからここで部活を辞めてしまうと、親の思うまますぎていやで。でも辞めざるを得なくて…、いまだにこの時のことはちゃんとしょうができないし、頭おかしかったんだなーって思う。世界史とか勉強してると意図不明の戦争を仕掛けたりしだすことがあるがこんな感じだったんすかね。



この時期にこんなことになっていたのは価値観に優先順位がつけられなくてパニックになっていたんだよな、それは今も治ってないし。当時は身に着けなきゃいけない社交性(社会性?)と、いい大学に行くためにしなければいけない勉強どっちに時間取るかがぐちゃぐちゃになってて、どっちも頑張るっていうほどの体力も余裕も全然なかったんだろうなと思う。でも私が当時持っていたビジョン的にバリバリ部活したかったんだろうけれど、それの目的が漠然とした社交性を身に着けたいみたいなのだったし、冷静になれば今現在クラスメイトにそもそも部活入ってなくても社交性ある人もいるし、後輩に教えなきゃいけないのに何もいえなくて困ってる卓球部員もいるので。なんかただただ中学時代がいやすぎてああなりたくないために手を打ちたかった私は、体験入部で持ち上げられ、あんなのにころっと騙されて入ってしまうのは馬鹿だなあと思う。



中学時代がトラウマすぎて、その恐怖から逃げるための行動を取らなければあの中学時代を過ごしているのと一緒くらいに思ってたんだろう。ていうか、今でもうっすらそんな感じで思っている。結局、その後体調を崩し、気持ち的にも辛くなり3週間ほど休んで部活は辞めた。部活のライングループを無言で退出しながら、社交性(?)のある人はライングループで部活を退部するときもメンタル病まずにさらっと一言送って抜けるのかなあ…なんて考えた。



休んでる間は本気で学校を辞めようかと思った。というか体力的に無理だと思った。でも辞めて通信制高校とかに行って不安定(?)そうに思える道に進むのも嫌で、こんだけ休んでたらなんか学校が配慮してくれるだろうみたいな希望的観測で、辞めるのを辞めた。



学校では友達ができた。クラスに共産趣味の変人がいて、その人となら吐き気を催さずしゃべれることに気づき、その人とずっとしゃべっているうちに他の人とも普通にしゃべれるようになった。勉強はあまりしてなかった、高1の夏にコロナにかかり、1人別室に隔離されていたのだが、今までの人生で自室がなくガチガチに寝る時間も決められていたので、初めて夜更かしをした。そこで初めてAVを見た。



一応友達はできたが、自分に社交性のある自信がなく、部活を続けていたら他クラスの友達とかいたのかな…などと考え交流の糸口として高校の名前を冠した“アーニャbot”というものをしていた。すぐに学校に対する愚痴を書く場所になってしまい、教師からの苦言対策に身バレ防止しまくったので誰も私が運営したことにはたぶん笑気づいておらず、交流の糸口にはならなかったが、学校内で噂されたりして面白かった。


ここらへんはまじで生きてるうちの楽しいターンだった。楽しいところは友達がいたという一点だけだったが、何もかもくそだった中学よりは全然マシだった。

と、ここまで書いて止まらなくなった、まだまだ続きがあるのだが、いったん別のところに貼り付けておく。


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