Second Dream 銀座花伝MAGAZINE Vol.35
#本分と分かち合い #銀座もとじ社長交代劇 # 能「善知鳥」レビュー
まるで深緑たっぷりの庭での呼吸を楽しむように、人々がパラソルの下に集い語らう風景が銀座中央通りにようやく戻ってきた。銀座は元々美しい庭を手入れするように、店主の美意識によって創り上げた街である。守人たちは誰一人訪れなくなったコロナ禍にあっても変わらず街を磨き続けてきた。今、訪れる人々によって街は大きく深呼吸を始めたように見える。
とはいえ厳しい経済状況の中、銀座の商店も存続の明暗がはっきり顕在化してきている。休業、廃業、移転が相次ぎ街の風景も大きく様変わりしてきた。
そうした状況の中で、発想の転換を果たしながら力強くSecond Dreamに踏み出した名店も少なくない。そこには、本分を大切にしながらも、同じ夢を追いかける仲間たちとの分かち合いによる商いに邁進する姿がある。
銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に人々の力によって生き続けている「美のかけら」を発見していく。
1 Second Dream ー本分と分かち合いー
生き残りをかける
常識を疑い続け、変化することこそ伝統を守ることだ、と語る老舗が多いのが銀座の街の特徴である。その心意気こそが、この街を創り上げ、美しい商いの舞台へと押し上げてきた。しかしながら長引くコロナ禍にあって、気丈夫な店主たちから、「もうギリギリで今回はダメかもしれない」という弱気なつぶやきを何度聞いたことだろうか。
追い詰められた状況の中で、既に店の場所を銀座から移転させ次に備えた老舗もある。ビルを改装し新たな業態へ踏み出した老舗、生業を諦め貸ビル業だけに転向した店、そして休業や廃業を強いられた老舗も少なくなかった。銀座中央通りでシャッターを下ろし暖簾を下ろした情景を見るたびに、培ってきた日本文化の担手が消えていくことへの痛みが胸を刺す。
一方で、生き残りをかけた壮絶な闘いを続け、ようやく光を見出し出口に手をかけ、一気に飛躍しようとしている老舗がある。その姿は、立ちはだかる「障害物」を「飛翔台」に変えていくかのような力強さだ。それらの店に共通しているのは、店主の商いへの向かい方、さらに言えば人間としての生きる力ではなかろうか、と考えることが多い。
●自分に嘘をつかない(正直に本分に生きる)
●世界で必要なものを独り占めしない(分かち合う)
今、新たなSecond Dreamの道に踏み出した、ある銀座店主の生き様をお伝えしたい。
“遊”を生きる 店主たち ー生業の背景を整えるー
街に美しさをもたらしているのは、他ならぬ老舗の美意識である。そこには店主の生き様のベースに「遊」(ゆう)があることを見逃せない。漢字の大家・白川静氏によれば、遊とは神遊びが原義で、“神とともにする”状態を指すことだという。暇つぶしでもない、何か目的があってすることでもない。例えば、子供が遊ぶときのような夢中で無心な状態でいること、そんなイメージが一番近い。神様とともにある生き方を指すのだろう。
銀座には多くの稲荷が存在する。銀座1〜8丁目までの有名な稲荷だけでも11神社ほどある。それぞれ店主が守人となり毎朝小さな参道を掃き清め、常に新しい仕掛けを施し参拝客を迎えようと努めている。訪れる度に、楽しい遊び心が私たちを出迎えてくれるので、ついまた足を運び、お参りしたくなる。単に信仰心に応えることに留まらず仕掛けで参拝者をときめかそうとするあたり、さすが商業都市銀座ならではの知恵である。中でも仕掛けに驚くような遊び心あふれる神社を三つ挙げるとすれば、朝日稲荷神社(銀座3丁目)、宝童稲荷神社(銀座4丁目)、豊岩稲荷神社(銀座7丁目)となるだろう。
例えば、神様をより近くに感じてもらうために、日本の祈りの形・遥拝(ようはい)という作法を取り入れているのが、朝日稲荷である。遥拝とは、健康上の理由や高齢などで登頂できない人たちが麓から拝んで参拝を済ませる形の祈りである。ここはビルの屋上にある本殿と、地上の参拝者を結ぶ方策として、マイクを参拝者側に、スピーカーを本殿側に配し、祈りを本殿に伝える仕掛けである。銀座のど真ん中でこの心遣いに出会うことが稀有な体験なのだ。また宝童稲荷では、私有地のビルとビルの間の隙間を使って参道を創っている。豊岩稲荷では連なるビル内に自動ドアを設置(工事中)して回遊的に参拝をしてもらう仕掛けまでも作っている。
由緒深き 古神道
銀座のビルの屋上(銀座6丁目/ギンザコマツ西館/ユニクロの入るビル)に、人知れず佇む存在感の大きな神社がある。大神神社(おおみわじんじゃ)である。奈良県桜井市にある大神神社といえば、神道の古い形を残した聖地として知られているが、ギンザコマツの社長によれば以前自身の会社や家庭が不幸に見舞われた際に、三輪山を御神体とする聖地を訪れ参拝したところ持ち直すことができたので、それをきっかけに西の最古級の神をこの銀座に招くことにしたという。聖地に因んで「三輪神社」と名付けらた。
ギンザコマツの社長といえば、昭和31年、小松ストアーが百貨店法の改正を受け、中規模小売り専門店として再スタートするための大規模な工事を現在のユニクロの立つ場所で行っていた際、「ザクザクと小判が出てきた」事件で有名だ。その時の<金>の発掘量は、慶長小判、享保小判を合わせて208枚、一分金も60枚ほど。その際に躊躇なく、個人蔵とせずに国の「埋蔵文化財」として上野の東京国立博物館に寄贈した美談が「さすが銀座の店主」を称えながら今も語り継がれている。
その社長が招いた神社は、最古級の神様が銀座におわすという神々しさだけではなく、その構えの美しさが銀座の中でも秀逸なのである。ところで奈良県にある本家の大神神社はいわゆる本殿が存在しないことで有名である。拝殿の奥には特徴的な三ツ鳥居があり、その先には大物主大神(おおものぬしおおかみ)が鎮まる三輪山が控えている。即ち、山そのものを崇拝する自然信仰の神社である。
銀座に招かれた神社には、神が宿る岩岩=磐座(いわくら)、そして大神神社の三ツ鳥居を御嶽山の木曽檜で模した鳥居が据えられている。周囲には、神社に欠かせない梛(なぎ)や榊(さかき)といった常緑樹が植えられている。参道には京都の深草土が用いられ、大文字山の太閤石で組まれた角井筒も設置されている。神道の基層である自然崇拝を銀座のビル屋上で再現しようとする熱い心情、それら美意識へのこだわりには心底感嘆する。
「本分」に生きることが、生き残りの条件
時代の荒波に遭っても、弱気の虫に負けずに本業を手から離さない、それどころかその本業をさらに進化させ続ける、そんな店主がいる。
人は誰でもその人だけの真実を天から授かって生まれてくる(本分)、と唱えたのは哲学者の森信三氏だが、元々は慈雲尊者(じうんそんじゃ)という、宗旨宗派を超えて仏教の真髄を道破したと言われる江戸中期の高僧が提唱したものであるという。森氏も尊者を道元、親鸞に勝るとも劣らないと高く評価し、近年改めてその存在が再評価されている人物である。師による「人らしい人になれ」「天真を発揮したときに人は初めて人になる」という人間の本質を掘り下げた普遍性には説得力がある。自らの天分に気づき、その足元を掘り下げた人物こそが未来を担える人間になる、と言い放っているような力強い言葉だ。
まさにコロナ禍は、そのような人間の真価を炙り出した。「本分」を見極め、この道こそ天から備わった道と覚悟して進んでいく、ある店主の姿がそこにはあった。
銀座もとじ店主のSecond Dream
ー着物の真価を高める商いー
松屋通りを挟んで、江戸時代からある遥拝の知恵が見どころの神社・朝日稲荷のほど近くにその店はある。
そこで、日本文化の未来を感じさせる、見事な社長(店主)交代劇に出会った。
東京エリアの中で最も呉服店が多く、競争熾烈な銀座の着物業界において、着物の新しい価値観と現代の生活スタイルへの着物の転換を提唱し続けたフロントランナー「銀座もとじ」の社長・泉二弘明氏が、この10月2代目に社長を譲り会長となった。泉ニ弘明氏が創業以来大沼昭夫農学博士と37年の歳月を費やし研究開発した、オスだけの繭から誕生させたプラチナボーイは、今やツヤとハリのある最高級の国産絹として、人間国宝・森口邦彦(友禅)、北村武資(羅、経錦)をはじめとする全国の作家たちから支持され、日本の呉服業界を劇的に変えている。
はじまりは、絹の国産比率が5%に落ち込んだ実態をなんとかしたいと全国の養蚕農家とタッグを組み、収穫率を上げることから始めた。養蚕管理のプロを育て、絹糸を紡ぐ人々に仕事を回し、全国を回って染の専門家、織り師、仕立て師を発掘した。これら生産者と職人が組んだ「チームもとじ」の稼働は、疲弊した着物業界を活性化させる道筋を創る大きな功績をもたらした。
生産者の顔が見える
通常の呉服店では、農家や職人の人々が顔を見せることは決して多くない。並ぶのは出来上がった反物だけである。ところが、銀座もとじの店頭には、全国から集まった養蚕農家や職人たち、作り手がいつも賑やかに集まっているのである。ある日、購入したプラチナボーイをお召しになり店を訪れたお客様と茨城の養蚕農家が出会うシーンに出くわしたことがある。
自分の育てた蚕の繭玉が目の前に着物となって立ち現れている。しかもお客様から「軽くて素晴らしい着心地です」と肉声で感謝が伝えられている。養蚕農家さんの目は潤んで「生まれて初めてなんです。自分が育てた繭が着物になった姿を見るのは」とその感激に立尽くす姿は、思わずこちらまで胸が熱くなるようであった。制作行程が分断され、それぞれの仕事に誇りを持てないまま奮闘せざるを得ない作り手たちの現状を改めて痛感した瞬間でもあった。
「チームもとじ」がやり遂げたことは、実は作り手たちの本分を引き出し、養蚕に携わる人々を元気にするという功績こそが注目するに値することだったに違いない。
長距離ランナーの経営
「フルマラソン42.195キロを走り終えたら、息子に店を手渡そうと考えていたんですよ」
泉二弘明氏が大学時代に怪我で陸上選手の道を絶たれ、生きる道を模索していた時、父の形見の大島紬を母親から渡されたのがきっかけでこの業界に入ったことはよく知られている。資金もツテもない中で、ちり紙交換でお客様のニーズを聞き取り、営業の体力をつけた。なんとか300万円を貯めて、それを元手に蚕を求め銀座に程近いビルの一角で蚕棚を見せる呉服店を開いた。まさに一からの出発だった。それから42年、創業者は次の世代にバトンを渡そうとしている。
ー42.195キロ走り終えると言いますと・・・・?
「今日が私が銀座もとじを創業してから42年と195日目なんです」
お目にかかった10月8日は、2代目啓太さんに事実上店主を任せるスタートの記念すべき日だった。和モダンの店内には、この日を祝して、全国の作家たちによる150点にも及ぶ着物や帯作品が所狭しと披露されていた。
「裸一貫でこの店を始めた日から、42年と195日目には絶対に次の世代に手渡せるような店になろう、そう心に決めていました」
創業時から手渡すこの日を明確にし、行程をイメージして新たな着物文化に邁進されていたのかと、その志と覚悟のすさまじさに驚いた。断言された姿にはとてつもない気魄があふれていた。日頃お目にかかってお話しをすると「一見涼しそうな顔してますけどね、水中では水掻きを必死で動かすアヒルです」と冗談めかして豪快に笑われているのが常だったからだ。そもそもの既存の着物業界からの反発の中、「我が道、我が本分に狂いなし」とばかりに、着物業界でかねてより慣行されてきた展示会販売、接待販売を止め、不明朗価格が常だった慣習を止めて、値段を明確にする正札商売に転換したのも「銀座もとじ」がもたらした革命だった。当然のことながら問屋を含む業界からの逆風は凄まじかった。しかしながら一方で透明性の高い商いは消費者の大きな支持を得るという新たな道を開くことになる。
逆風を飛翔台にして
2020年3月、コロナ前に「銀座もとじ40周年」として企画されていた人間国宝による記念行事も直前で中止になり、あれから2年余りが過ぎた。銀座のどの店にとっても実に厳しい過酷な状況が続いたが、着物は元々の落ち込んだ需要の掘り起こしの時期の最中で、ハレの日だけではなく日常の暮らしの中に着物を取り入れる機運がようやく高まり始めた矢先だった。着物を着て街に気軽に出かけるという機会も一気に減少してしまったここ2年。着物の百貨店などと言われる歌舞伎座などでも感染による興行の不安定さからお客様も減るのと同時に、着物姿の方もめっきり減ってきているのが現状である。
ーこうした逆風を見事に乗り越えて、今日のこの日に、描いた夢を実現されたんですね!
「作家や職人が進化するためにはどうしたらいいだろう、自分にできることは何だろうといつも考え続けてきたな、と思います。進化し続ける作家の情熱あふれる作品にお客様は心踊らせるのです」
苦しい時だからこそ、挑戦しよう!と自分に言い聞かせたという。
着物にイノベーションを起こす
ー先日孤高の染織の人間国宝同士が手を組んで一枚の作品を作るという、前人未到のきもの作りを実現をされたことが新聞に紹介されていました。作家といえども職人。こだわりの強い人同士がなぜ手を組めるんだ、と文化庁のお役人も驚いたとか。その人物同士を繋いだのが泉二弘明氏だったと。
その二人とは、共に人間国宝の森口邦彦氏(友禅)と北村武資氏(羅、経錦)のことである。
異質なものを結ぶ ー進化の法則ー
「私はこれまで無かった組み合わせ、異質なもの同士が手を組んでこそ、進化したものが生まれると信じているところがあります。進化しないとそこで終わりですから。それを模索し続ける毎日でした。」
長年にわたり人間国宝である両名をリスペクトし親交を深めていく中で、ある日2人から突きつけられた「問」があったという。
「君の夢はなんだ?」
品格の高い美意識が頂点でぶつかり合う、着物の世界を実現してみたい、それが率直な気持ちだったという。それが出来上がれば、きもの作りに関わる全国の作家たち、職人たちの新たな制作への希望になるに違いないと確信していたからだ。しかしながら、一介の商人が提案できることではない。長年逡巡し続け願い続けたことであったが、今目の前でその夢を話せる機会が巡ってきた、胸が破裂するような興奮の中で、その気持ちを言葉にしてみた、という。
夢に挑む
「未だ見たことのない、最高の着物作りを世の中に出したい。北村さんと森口さんによる1枚の着物作りをこの目で見てみたい!」
思わず、口から飛び出してしまった、と振り返る。
ところが驚くべきことに、その時初対面だった両名は嬉しそうに微笑んで、森口氏は「実は私は54年前に北村武資さんの織帯の世界を見て、あまりの美しさに衝撃を受け、これに匹敵できるような友禅作家になろう、と決意したのです」と語ったという。
そこから、時を超えて日本で初めての人間国宝同士が一枚の着物を作るプロジェクトが始まった。それから2年越しで前代未到の新しい着物が出来上がったのである。今年春その完成を見届けるように、北村氏は86歳の生涯を閉じた。絹糸の力を熟知した作家は最後に歴史に残る仕事をやり遂げた。
「文化というものは、信頼し合う者が互いに命を刺激し合い、高め合い蓄積していくもの。人間にしかできないことです」
生前の北村氏の言葉である。
人類の繁栄は夢に挑んできた歴史。銀座の小さな着物店で繰り広げられた出来事は、進化することが人間であることの証であることを改めて教えてくれる。
ー着物の真価を高めた店主にとって、次のなるSecond Dreamは何ですか?
「人にはそれぞれ与えられた場があります。この銀座の店が全国から集う人々の心を元気にする、高める場になるようにしていきたい。そのために多くの作家を掘り起こし、農家を応援し、職人が感動に出会える場にするためにそれぞれの土地に行脚を続けます。ほら、いつも言うように私は海を泳ぐマグロ。止まったら死んじゃうんですよ(笑)」
おおよそ、市井の呉服店とは思えない更なる新しい着物時代を思わせる決意である。
そして、自分の人生は、38億年前に地球に誕生した単細胞生命体が人類になっていく過程のほんの一コマだと思うと気が楽になる、と話される。宇宙は絶えざる生生発展(せいせいはってん)の中にあることを想像すると、逆風もまたありがたい、と話す初代 もとじ店主の笑顔はこれまで以上に希望に満ちているように見えた。
2 能のこころ 能「善知鳥」に漂う 人間の業の幽愁 ー第十回「坂口貴信之會」9/17 能舞台レビュー
はじめに
親子の愛情がとりわけ深いことで知られる鳥·善知鳥(うとう)。親鳥の声真似をして子を誘い出し、捕らえることを生業としていた猟師が、生前の殺生の罪により苦しむ様子を亡霊の姿で表現するという作品が、能「善知鳥」である。その猟師の死後の苦しみは、人間は生きていくために他の動物の命を奪わねばならぬ悲しい業を持つものであり、また、地球上のあらゆる生き物は弱肉強食のルールの上で成り立ち、人間もまた例外ではないという事実を見る者に突き付ける。もし猟師の殺生が罪というなら、それは私たち人間の背負った宿命的な罪ではないかという、根源的なテーマを含んだ重層的な演目である。
能「善知鳥」は『今昔物語集』に所収される「立山地獄説話」と、『新撰歌枕名寄(しんせんうたまくらなよせ)』に所収される「善知鳥説話(うとうせつわ)」とをあわせて創作されたといわれている作者不明の作品。
人間の深い業の奥底を観世流シテ方・坂口貴信師がどのように表現するのか、注目の舞台である。第十回坂口貴信之會(2022.9.17 in観世能楽堂)での舞台レポートをお届けする。
文責:岩田理栄子
歌枕による旅の魅力
人間の原罪ともいうべき生前の殺生に対し厳しい報いを受けるという重いテーマを扱った物語でありながら、いわゆる歌枕(うたまくら)の仕掛けによって旅を体感できる趣向もこの能の多元的な魅力の一つである。
物語は、陸奥(青森県)の外ケ浜(後場)へ向かう僧侶が越中国(富山県)の立山(前場)で一人の老人(猟師の亡霊)に出会う場面から始まる。立山といえば嶮しい霊山。現在は立山黒部アルペンルートが通り、室堂までは容易に入ることができるが、その昔は霊が集まる恐山、峻厳な秘境であり、立山に入ることが僧侶にとって修験とされていた場所である。前場のこの地で僧侶は猟師の亡霊から故郷の外ケ浜にいる妻子への伝言を託される。
後場では謡を道標に、塩釜の歌枕として有名な「籬(まがき)が島」のほか、「松島」、「末の松山」など、わびしい海岸をイメージさせる多くの歌枕が登場する。日本中のあらゆる歌枕の中から、本州最北の地にある外ケ浜の雰囲気を醸成するものを集めてきて、作品の舞台になった場所について想像をかきたてるという見事な構成となっているのがこの作品である。
世阿弥は、能鑑賞の上で仮に一つだけ勉強するとすれば、それは「歌」である、と述べている。能の世界に没入するためには、それほど「歌」が重要な要素を占めるというわけだ。そういうことでこの作品に織込まれた歌枕についての知識があると、一層場面への空想が膨らんで、登場人物が佇む情景や心情により深く共感することができるのである。
前場、峻厳の地の立山と、後場、本州最北の地の外ケ浜とを結んで描くところに、能「善知鳥」の展開の秀逸な面白さがある。
霊界と現世の境界で (短い前場)
前場は、角帽子(すみぼうし)をかぶり、水衣(みずごろも)をまとった質素な姿の旅の僧が、「朝倉尉(あさくらじょう)」という能面をつけた憂いのある面立ちをした一人の老人(猟師の亡霊)に出会うところから始まる。
亡霊が僧に語る。
「陸奥へお下りくださるのでしたら、言い伝えをお願いしたい。外の浜の猟師で、去年の秋に亡くなった者がいるのだが、その者の妻子の家をお訪ねいただき、その家にある蓑笠(みのがさ)を手向けるようにおっしゃっていただきたい」
僧は思いも掛けない亡霊の依頼に、「届けることは容易いことだが、いい加減な話では先方が納得しないのでは」と返す。亡霊は「現世でいまわの際までこの私が着ていた麻衣がある」といい、その袖を話の証拠にとほどいて僧に手渡す。
前場の見どころは、前シテの亡霊がワキの僧に呼びかけられて橋掛り(はしがかり:演者の通路、廊下)に留まり、片袖を脱ぎ取りワキに渡すシーンである。シテは本舞台へ入るぎりぎりのところで、ワキは決して橋掛りに入らずに受け渡しをするのが演者の心得だと言われる。シテがいる橋掛りは霊界であり、ワキが立つ本舞台は現世である。ワキは絶対に橋掛りには入れない、そうした隔絶感、緊張感のある中で片袖の受け渡しをするのである。
深淵の美を表現
涙ながらに片袖を手渡すシーンは、短く、物静かなものでありながら、亡霊の哀切極まる心情が感じられ見る者の心をわしづかみにする。見も知らぬ僧に妻子への伝言を託さざるを得ない状況にある亡霊と僧とのやりとりは、後場で明らかになる亡霊が抱えるとてつもない苦悩を予感させ、それがこの1シーンに見事に凝縮されているかのようだ。
そして・・・「立ち別れゆくその跡の」の地謡の詞章が響く・・・
二人の離れ行く歩みが糸を引くかのように展開される。亡霊が離れていくそのシーンがなんとも言えない深淵な美しさに満ちていてさらに胸に迫る。
それにしても、亡霊(観世流シテ方・坂口貴信師)と僧(下掛宝生流ワキ方・殿田謙吉師)の離れゆくタイミングの絶妙なこと。どれほどの稽古によってこのような時空を超えるような流れを生み出せるのだろうか。
その後僧が旅装を整え、萌える春のなか、立山を後にして陸奥に下るその姿を、亡霊は泣きながら見送り姿を消していく・・・、その余韻まで心に残る名シーンであった。
妻子との哀しい再会
外ケ浜に到着した僧は亡霊の妻子を訪ねる。唐織(からおり)を着流しに着用した妻(ツレ)と、振袖の小袖を着用した男の子(子方)の装束が暗いトーンの世界観の中に唯一の色を添えていて、それが却って寂寥感を高める。
僧が形見の片袖を手渡す。
妻が 亡き夫の着物を取り出してみると不思議なことに片袖がなく、僧が持ってきた袖とあわせてみるとぴったり合う。伝言に従い、蓑笠を手向けて彼を供養する一同。あらためて猟師の死を嘆く妻と子の前に、 猟師の亡霊が現われる。その風貌姿は、かつて僧の前に現われた老人ではなく、生前殺生していたために、立山の地獄に落ちてしまった陰惨極まるものであった。
亡霊がつけた「能面-痩男(やせおとこ)」の表情には、彼の苦悶(くもん)が刻まれている。そしてこの能でしか見ることができない鳥の羽の腰蓑(こしみの)が付いた装束は、鳥を殺した者であることの象徴である。
わが子の髪を撫でようとする亡霊。しかし、かつて鳥の雛を殺した罪のためにわが子の傍へ行くことが叶わない。そのとき、現れた黒雲が二人の間を隔て、愛する子に触れることができないのも、全てはこの身の罪障ゆえであることをイメージさせる。この雲は罪障の象徴である。亡霊は生前の殺生を悔い、僧に自分の魂を供養して欲しい と請うのだった。
蘇る猟奇的興奮 ークセから追打カケリへー
生前の猟の様子を再現する中で自らの罪を告白するうち、猟での興奮の記憶が蘇り亡者と化していく場面は、人間の業の卑しさと悲しさが切々と伝わってくる。
亡霊:なかでもこの鳥の捕り方は残酷である。
ここでの所作は、はじめは親鳥を狙い逃げられると空を見上げ悔しがり、橋掛りで「うとう」と親鳥の声をまねて謡い、それに応える雛鳥を見つけ散々に打って捕獲する。親鳥はそれを見て空から血の涙を流し、泣き叫ぶという実に心の痛みを覚える壮絶な場面である。
雛鳥を狩猟する悪業を重ねていくうちに、殺生自体が快楽になってしまった猟師。目の色を変えて雛鳥を散々に打つ姿は、正気の沙汰とは思えず、まるで何かに取りつかれたかのように狂気を帯びていく。
人間の業の幽愁さに迫る 「離見の見」
世阿弥は能楽論書「花鏡」の中で、我見に囚われずに我から離れて高い視点で自らを見ることの大切さを強調している。いわゆる「離見の見」(りけんのけん)である。
日本で初めて世阿弥に取り組んだ「昭和の世阿弥」とも称された名人・故観世寿夫師は、「ただむやみに熱演することで自分が充実したと考え自己満足に陥ることでは“離見の見”は得られない。熱演している自分の刹那々々にのめり込んでいる舞台というものは、得てして観客は逆に白々しい気分になるものである」と自ら体得した「自己反省」を度々論文に書かれていた。
残酷な場面でのこの日の坂口師の所作はひたすら静かだ。
息を殺して雛鳥に忍び寄る動作を、目を凝らして視なければ分からないほどの静寂さを持って、掬い上げるような手の動きで表現する。そして、獲物を捕りおおせた時の愉悦、とどめを刺す猟奇的興奮や、逃した時の口惜しさを面の動きや足運びを丁寧に重ねながら高めていく。
残虐さを大袈裟な所作では表現しない、師の美意識を感じた。また、目を覆いたくなるような人間の「残酷さ」を受け入れながらも少し距離をとり、猟師の抱える「愛情」を浮かび上がらせたいと願う師の心情ではなかろうかと推察したくなる趣もあった。
まさに、迷いつつ天を味方につけた厚みのある表現。
細やかな妙技によって、両極に大きく振れるうずまくような感情が心中に湧き起こる様を軸に、人間の業の幽愁に思いを至らせる妙技である。残酷な中に人間の愛を感じる、見る者に祈りをもたらそうとする師の心の動きに感動した。
七転八倒するような苦悩の表出 ーカケリの妙技ー
狂気すら帯びた妄執に囚われた心底の深厚を表す「カケリ」と言われる緩急鋭いシーンも、本作品の見どころである。
笛、小鼓の囃子に乗って、雛鳥を追い、打つような所作が行われる。このラストシーンでの坂口師と大鼓の短い競演は激しさを抑えた表現で、じっくりとしたリズムを際立たせていて深淵を覗き込むような緊迫感が備わる。
死後、地獄に堕ちた猟師。地獄絵の壮絶、残虐さを地謡が克明に謡い上げる。その声は淡々と落ち着いた声色である。
亡者である猟師も呼応する。
亡霊:善知鳥は今や強い鷹となり、
いかなる理由があっても「幼い命を奪うことがいかに悪であるか」という大事な教えを貫徹し猟師に罰を与える場面は容赦がない。救いのないラストシーンのメッセージが人間の宿命を見る者に突きつけてくる。
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おわりに
最後のシーン、地謡の場面。
後シテの坂口師が「紅葉の橋の鵲(かささぎ)か」で、笠を目付柱に投げる場面がある。
笠は高く能舞台の中央に舞上がり、見事に目付柱の手前に音もなく落ちる、これは、なんという素晴らしい妙技だろうか。聞くところによると、名人・観世寿夫師や喜多六平太師などの伝説的な名演技が披露されたという逸話がある技だそうである。
丁度目付柱に近い一番前の席をいただいていた筆者に向かって落ちてくるという、思いもかけない生々しい臨場感に心が躍った。
「歌枕」に旅の臨場感を味わいながら、人間の「業」と「愛」という根源的なテーマを問いかけた哲学的能舞台。想像力の翼でこうした世界をも体験できる能の凄みと驚きを改めて受け取る貴重な機会となった。
◇注目の能 舞台/講座情報◇
◆ひとつのはな #14 #15 於宝生能楽堂
と き:令和4年12月18日(日)14時開演 (13時30分開場)
◆第7回 「宗一郎の会」東京公演 於 観世能楽堂
と き:令和4年11月29日(火) 開演17時30分(開場16時45分)
【お問合せ】 林能楽会 075-751-8158(平日 10:00~17:00)
↓【チケットお申し込み】kanza.net(24時間)
◆ 築地本願寺 銀座サロン
<伝統芸能にふれる ~能楽師直伝「能・狂言」講座>
能を観て感性を磨く
↓お問合せ・お申し込みは「築地本願寺銀座サロン」まで
3 銀座情報
◆創業400年萬年堂 進化する和菓子カフェ
江戸時代元和3年、京都寺町三条にて創業の後、御所、所司代、寺社等に菓子を納める生菓子、干菓子に加え元禄頃より高麗餅(御目出糖の原型)を作り始め、明治5年ごろより江戸に進出。現在では銀座のご祝儀和菓子の代表といえば萬年堂の「御目出糖」(おめでとう)と言われるほどに銀座に定着した老舗である。
その萬年堂がこの9月銀座7丁目(GINZA SIX近く)に移転し、カフェを併設させ新たな和菓子店をオープンさせた。
陶芸作家と和菓子のシーンを創る
白木造の店内ウインドウ面にある細竹ディスプレイが実に爽やかだ。そのシンプルさは、店主ご自慢の熟煉「萬年堂あんこ」の香りを思わせる。
この日筆者が頂いた季節の手作り生菓子(柿)とお抹茶。店主自らお運びくださり、どんな工程でこの和菓子が出来上がったのかを熱く語って下さった。程なくその目にも鮮やかな空気感を醸し出す器に話は移った。
店主が気に入って茨城の笠間焼の工房まで足を運んだのが酷暑でむせかえるこの夏のことだった。以前から気になっていた陶芸作家を探し当て、自らの和菓子を見せて「これに合う器を作ってもらえないか」と直談判したという。
そして、出来上がったのがこの和菓子皿と抹茶茶碗である。茶碗の中に冴え冴えと彩られた青空に、熟した柿が実をつけている情景が浮かぶような肌合いと色目だ。土気を帯びた皿の淵には、山里の秋が確かに宿っている。今や、和菓子はただの和菓子にあらず、日本の四季をリアルに映し出す五感財になったのだと唸った。
この他にもシャインマスカットを餡に包んだ和菓子も手がけている。餡子に合う葡萄を選び抜きこだわりのある作り方をしている。常に新しい素材で餡との相性を探り続けている老舗。この店に来るといつも日本文化の新しい発見があって楽しい。
海外のお客様向けに、「手作り和菓子作り体験」なども始めているという。いずれワークショップの形で、一般のお客様にも和菓子を食べるだけでなく作る楽しさも提供したいとその熱量は高まるばかりだ。
4 editer note
人生100年時代になって、発想の転換を求める「セカンドチョイス」が私たちの暮らしをより楽しいものにしてくれるようだ。
筆者も、これまで日本社会を覆ってきた利便性ファーストを猛省して、「手のかかる生活」をあえてすることを始めた。手始めは、「毎日着物で生活する」というセカンドチョイスである。これまで仕事でのイベントの際にしか着用しなかった着物。着付けから手入れまで何かと手のかかることを避けたいという発想があったために、毎日着用にはなかなか踏み切れなかった。本来着物が大好きなのに、利便性を優先してしまっていたわけである。
毎日着物を着ることで見えてきたことがある。
着物が何より優れていると思ったのは、サイズを着付けの仕方によって調節ができて活用の柔軟性がすこぶる高いということである。そしてすべてが直線縫いのため、容易に解いて何度でも仕立て直すことができるような成り立ちをしていることも優れている。
先ごろ、古くなった知人の着物をリサイズして自分用にリユースすることを悉皆(しっかい)という直しのプロ職人に相談すると、絹は直しながら長く着続けられる実に素晴らしい衣類であることを教えていただいた。今後、体型が変わっても一着の着物を使い続けられるので、「捨てる」ということがない、というわけだ。
当然、何十年と使っていると、裾や袖口など汚れたり擦り切れたりしてくるが、悉皆師に依頼すれば修繕してくれる。それでも汚れが目立ってきたら部屋着や寝間着にすることもまた可能である。
江戸時代などは古くなったら、布団、敷物、雑巾などにして、徹底的に使い尽くす事をしていたらしい。原材料が絹、綿、麻、と自然素材なので、布がぼろぼろになった後はかまどや風呂釜の燃料となり、燃やして出た灰さえも、灰買い(という職人さんがいた)が買い取り、農業の肥料や陶器の上薬として活用されてきたという。
今や江戸SDGsが日本らしい経済や暮らし方の原点だと言われるようになった。「着物を毎日着る」という行為によって、身をもって日本の生活スタイルの素晴らしさを実感し始めている。
これは余談だが、着付けをする所作で発見したことがある。
着付けをされる方なら想像がつくと思うが、帯を占める際には背筋をかなり使う。両腕を後ろに回し所作することが多いので、両腕のストレッチを毎回丹念に行うことになる。そのために背中から腹筋が締まり、最近「痩せましたね」とお声をかけていただくことが多くなった。SDGsしながら痩せる、というのもセカンドチョイスがもたらしてくれた思わぬ副産物である。
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責任編集:Ginza Teller 岩田理栄子